6 東雲永佳

 昨日、桐沢を助ける際にシャケが砕いた壁は何事もなかったかのように元の形を取り戻し、平穏として受け入れられていた。それを確認すると、シャケは改めてこの学校で起きた出来事を推測する。

 出っ張りがあればそれで良いらしく、軽々と跳躍を繰り返しては足を引っかけ、屋上まで手が届くとバク転の要領で鮮やかな軌跡を描きながら着地を果たした。来るまでに感じた風に心地よくなったので、坊主頭の巨漢は大きく伸び、スウ……と、穏やかな呼吸を青空に向けた。

 これでよしと気持ちを新たに、桐沢に持ってこさせた来客用のスリッパを履くと、屋上の出入り口から校舎内へシャケは侵入を果たした。校舎はまだ何の変化もない。自分たちを襲った輩はまだ動いてはいないと知ると、巨漢はゆっくりと歩き出した。

 まさか、来客用スリッパだけで会う人をごまかせるとは思っていなかった。スリッパはあくまで、裸足よりは良い状況を作るためのものである。

 目指すは、東雲と立浪がいた理科室である。菊田については、昼休みまで接触を待つことにした。いなければ、住所の一つも手に入ることを期待して職員室に忍び込むつもりだった。

 幸いにも、理科室は使用されていなかった。鍵もかかっていなかったので、あっさり侵入を果たすと、シャケは棚に並べられているものを片っ端から調べ始めた。臭いを嗅ぐだけであったが、それでも手に入る情報は多かった。元より、求めるものは二つなのである。そして、棚から離れ、しまいには床の隅々まで調べても、その二つの様子はついに見つかることはなかった。ここは、会うためだけに使ったのだろうか? この結果は異様にビクともしない大男を多少なりともガッカリさせたが、肩を落とすこともなく次なる手がかりを求め、動き出した。

 シャケが次に向かったのは美術室である。ここで何かが見つかることはないだろうなと、シャケは最初から期待せずに歩を進めた。追い打ちをかけるように、美術室は使用中である。これでは調べようもない。授業中の現場に入り、何、教育委員会の者ですのでお構いなく――などとはいかないだろう。流石に、それをやれる見た目ではないことぐらいはシャケにも分かっていた。

 美術室前から離れようとしたとき、シャケは掲示スペースに菊田の顔を見つけた。写真である。そこには、どこぞの狭い部屋に集まった数名の思い思いの姿があった。菊田の他に、ロンゲの美しい少年、活発そうなとても背の小さい少女、野球帽を前後逆に被った目つきの悪い少年、知的な雰囲気を漂わせる少女が並んでいる。

 展示スペースに並んだ写真にはそれぞれ生徒のコメントが吹き出し型の紙に記されて加えられており、それは菊田が写るこの写真においても例外ではなかった。それは、とても単純明快な一言だった。

「我らが生徒会長様と仲間たち……か」

 さて、誰が生徒会長か? シャケは当たりをつけて、その場を立ち去った。既にその頭には、彼らの顔がしっかり記憶されていた。


 * * *


 桐沢は生きた心地がしなかった。今までしなかったような大遅刻を咎められたことは、なんとか嘘八百を並べて(しかし、その全てが自身の体験した事実よりも遥かにおとなしいものだった)乗り切ったが、心を苛み汗を垂らさせるのはそんなことではない。同じ教室の中に、自分を死ぬ寸前まで追い詰めた相手がいるというのがなんとも恐ろしかった。東雲の方を見ると、不思議そうに桐沢に目を向けていた。その表情からは虚無と暴力などうかがい知れない。シャケは、東雲が襲った事実を本人も知らないだろうと語っていたが、果たして真相はどうだろう……。

 シャケは職員室前を避けるため、屋上から侵入すると桐沢に語っていた。調べることを簡単に調べたら、すぐにこの教室の近くまで来るとも約束した。それを信じ、桐沢は震えを隠しながら授業に戻ったのである。

 授業は滞りなく終わった。昨日のような異変も起こる気配がなく、東雲の様子にも変化はない。やがて、昼休みがやってきた。

 いよいよだと、一日前は暴力に晒されるだけだった少年は事実を確認するように心の中で何をするかを繰り返す。菊田だ。菊田と接触するのだ――

「桐沢君」

 緊張感から集中力を研ぎ澄ましていた桐沢少年は、自分を呼ぶ声に彼女の接触を知った。

 顔を向ければ、そこには何か思案しているかのような表情を浮かべる東雲永佳の姿があった!

 刹那に、桐沢は決断を迫られて混乱に陥った。まさか、こんなにあっさり接触されてしまうとは。シャケからはこの可能性についての対処法は聞かされていない。とにかく、昼になったら合流しようとのことであった。

 いや、そうだ、シャケはもうすぐそばまで来ているはずではないか――期待を込め、桐沢は一瞬廊下に顔を向けた。突っ立っている大男がそこにはいたが、表情はまずいものを見たらしく、しかめっ面である。挙句、片手のジェスチャーで、そのまま話していろと伝達した。

(そんな無責任な!)桐沢は胸の内を悲鳴で充満させた。

「桐沢君?」首を傾げながら、東雲は繰り返した。

「あ、何、何?」慌てて応じた桐沢であるが、その目は再びシャケへと向いた。いなかった。

(シャケー!)血走るほどに目を見開く。視界の中で東雲が訝しむように顔を歪めた。

 来客用のスリッパを履いた巨漢は、流石に突っ立っていっ放しではまずいと判断したのだろう。チラリと見えたが、手を上げて「おお、山田くんじゃないか! この前の発表会は凄かったねー!」などと声を上げながら、間違いなくなんの関わりもなく、山田という名でもないであろう生徒の肩をばしばし叩き、そのまま歩いて行った。きっと、山田くん(仮)も混乱していることだろうと、桐沢は妙に冷静になってきた頭で考えた。

「ねぇ、桐沢君。大丈夫?」流石に心配になってきたのだろう。東雲が向ける顔は深刻に向かいつつあった。

 慌てて、桐沢は返した。

「大丈夫。平気だよ。それより、何? 弁当の催促なら断るよ」若干の本心が入っていた。

「とんでもない!」この返しは予想していなかったらしく、東雲はかあっと赤く染まっていきながら両手を振って否定した。「私は自分の弁当あるよ。そんなことじゃないんだって。信じて」

 念を押されたことから、自分が弁当に関して相当執念深い顔をしていたのだろうと桐沢は悟った。おのれ。これも勝手な弁当強奪犯がいるせいだ――! 少し的外れな怒りが単発的に抜けていった。

「あの、昨日からどうしたの? 桐沢君、昨日も早退したよね? 今日は遅刻だし、大丈夫?」

 心配する少女は、とても真摯であった。丸い顔に様々な感情を込めている。

(僕は早退したことになっているのか)

 桐沢はようやく合点がいった。昼から追いかけられていたのだから、どうなったかとは思っていた。そのことに関して教師からは特に言われなかったが、早退扱いならば自分が並べた嘘よりは納得できる。

 しかし、それは桐沢大吾を早退として報告した者がいるということである……。それが誰なのか、桐沢は一瞬思考を走らせた。ところが、その思考は思いがけぬ一言で途切れる。

「私も昨日早退しちゃったんだ。具合悪かったから。何かうつったりしてないよね……?」

 なるほどと、桐沢は思う。確かに具合が悪そうだった。もっと具合が悪くなりそうなものを飲み込んだことは、どうやら東雲は覚えていないらしかった。あるいは、とぼけているかだが、その可能性は今の様子からしてないように思われた。

 そして、東雲も早退とは。咄嗟に、これは報告者が同じであると少年は気づいた。

「それで、早退仲間同士、情報交換でもするつもりなの?」努めて冷静に、少年は言った。

「何か変なもの、食べてないよね?」

 本当のことを言うならば、それは東雲だけに当てはまる事であると桐沢は知っていた。これは言えない。もし、東雲が本当に覚えていないのなら、ショックが大きいだろうから。

 何より、東雲のひどく真面目な表情に、桐沢はすっかり脱力させられてしまった。

「食べ物が悪いって言うの? 僕は腹痛じゃないよ。東雲さん、心当たりでもあるんだ」

「え?」再び、真面目な顔は赤くなる。「いや、だって、私は普段健康に過ごしてるし……。健康だから、食べるし。桐沢君、なんだか結構食べ歩いたりしてそうなイメージあるもん。甘いの好きそうだよ」

 東雲のイメージは、的を得てはいた。桐沢自身、甘いものは人並みに好きだし、それなりに買って食べる。

 クスリと笑い、桐沢は返した。

「だけど、僕はそういうのとは全然違います」

 桐沢の中で、昨日のイメージが一切消えていく。ここにいるのは、明るい一人の少女だった。

 同時に、ふつふつと沸き上がってくるものもあった。

 もし、彼女が何も知らずに利用されているだけなら――?

 自分の中に、暴力的なものが微かに見つかったが、少年は、今はそれを押し込めた。

「東雲さん、こうして話すの初めてじゃないかな?」

「そうかな?」

 表情をころころ変えながら深く考え込む東雲を見て、桐沢はそっと告げた。

「そうだよ。初めて」

 互いに向き合い、深く関わったと言えば昨日もそうだったかもしれない。

 しかし、少年は知っている。これは、あんなものとは違うと。

「永佳ー、飯食べよー」

 東雲の友人たちが、彼女を食事を誘っていた。東雲は「気をつけてね。具合悪くなったらちゃんと言うんだよ」と残し、友人たちの下へ笑顔で向かった。

 桐沢は、背負い鞄を持って、静かに立ち上がった。シャケと合流しなければならない。

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