2 脱出
話は昼に戻る。
桐沢は昼食につける飲み物を買いに行こうと、二年の教室から一階に下がっていた。昼の頼みである弁当箱は背負い鞄ごと持ってきている。こうでもしなければ、死守できない。腹を空かせた男子高校生は時折バカになる。以前、少し目を離した隙におかずが一つ減っていたことがあったのだ。後に犯人は自首し、自らのおかずを献上したが……。しばらくは警戒が必要なのである。
手元に財布、小銭が少し重い。これはお札ではなく細かいもので済ませて軽くしようと思案していると、クラスメイトの東雲永佳が三年の立浪に連れられ理科室に入っていくのが見えた。桐沢も健全な男子高校生である……邪推もしたくなろうというもの。あまり特徴のない、強いて言えば穏やかな様子が漂っている優しげな立浪が、たまに見かけるよりもずっと嬉しそうな顔をしていたことだし、これは、と思ってしまう。
(あの東雲が、ね……)胸の内がぞわぞわと騒がしくなるのを感じた。
東雲は特別可愛い女子だったわけではない。しかし、同じ教室で様々な表情を飽きずに見れる、愛嬌に溢れた少女ではあった。好意を抱いていたかどうかと尋ねられれば、他言無用を厳守するという約束さえあれば桐沢は何度も首を縦に振ったことであろう。
狂うほどではない、小さな恋心が黒くなった。
関係ない、関係ないと思えど気になってしまう。このまま昼飯というのも楽しくない……。
桐沢は真面目な生徒ではあった。しかし、年頃の男子なのである。不幸なことに、十七の齢で恋に破れる経験がなかった。彼の人生はこれまで平穏そのもの。初めての波に心さらわれてしまえば成す術はなかった。昼の休みは長い。覗き見ることは倫理的問題でしかない。少しだけ、理科室で何が起きているか確認してしまえばもういいのだ。悪いことをしているという事実に舞い上がる少年は、あたりに気を配りつつ歩みを進めた。
それにしても、理科室とは――他に雰囲気のある場所がいくつでも見つかるだろうに。溢れる私情に理想を混ぜながら、それでも不安と期待に力が入る指先で理科室の戸を僅かにずらした。
結果的に、桐沢少年の不安は的中することはなかった。かといって、滲み出るような期待が当たるようなことがあったわけでもない。
東雲と並ぶ立浪は、打って変わって鬼の形相だった。苛立ちで顔を歪め、こちらもまた表情を消した東雲を睨んでいる。
愛嬌溢れる少女は、今は青ざめた顔を震わせている。桐沢の位置からはそれ以上のことは分からなかった。
立浪はポケットから掌に収まる程度のケースを取り出し、その中から細長いものを取り出した。自らうねることから、生物と思わしい。パッと空に放たれたそれは、一瞬躍ると真っ直ぐに開けっ放しになった東雲の口内へ飛び込んだ。光悦とし蕩けた東雲は、愛しむように喉を撫でながらそれを飲み込んだ――
ケースを取り出した瞬間は、フィクションの中でよく見る麻薬か何かではないか、その可能性も僅かに考えられた。しかし、桐沢が見たものは全く別次元の出来事だった。果たして、立浪が東雲に飲ませたものは何なのか? あのような動きをするもの、おそらく生物を、東雲はあろうことかそのまま体内へ入れたのである。
理解するには異様に過ぎる光景に、おかっぱの少年は夢中になった。離れなければならないと本能が身体を突き動かそうとするが、好奇心は危機に対し全くの鈍感であった。だからであろうか……立浪が睨んでいる対象が東雲から自身に変わっていると気付いたときには、一瞬のうちに全身が恐怖で染まった。
音を立てて、桐沢は逃げた。
見てはならないものを見てしまった――現状を理解しようと努める頭で分かったのはそれだけである。必死の思いで走り、逃げた先は中庭である。外の空気を吸いたかったのだ。
花壇に腰かけ、桐沢は頭を抱えたまま息を整えた。落ち着いて、冷静な思考をさらにさらに取り戻さなければ。しかし、取り戻すたびに明らかになる事実は先程の光景よりも、周囲に広がる異変だった。
人の気配が消えている。昼休み独特の騒がしさがまるでない。雑談に興じる生徒も、昼飯をぶら下げて歩き回る姿も見当たらない。中庭がついさっきまでいた空間から切り取られたかのようである。
がらんとした学校は、休日でもこうはならない。静寂はあまりにも不気味で、桐沢は再び不安に見舞われた。ポツポツと歩き出し、別の通路から校舎へ戻った。不安は更に大きくなった。校舎の中も、綺麗さっぱり人が消えている。外ではあまり分からなかったが、自分が動く音がしっかりと届いてしまう。心細くなった少年に、これは追い打ちをかけていた。
小学生の頃、怪談話が好きだったのを思い出した少年は、その不思議な世界に迷い込んだと信じ込んだ。昔はそうなることをどこかで望んでいたが、今は否定したい。一歩一歩に現実に戻る希望を込めて、桐沢は歩き続けた。
まず、そう、教室に戻ろう。慣れ親しんだ場所にこそ安息を求め、歩いた。渦に飲み込まれるように足は流されて速度を上げていく。曲がり角の怖さはなかった。恐怖の中で別の恐怖は塗り替えられたのである。
自分だけが歩く異様さには長く耐えられそうにない。しかし、走ることもできなかった。早歩きが限界である。
教室に辿り着いた桐沢は、そこで更に打ちのめされた。誰もいない。いた気配すらない。綺麗に片付けられていた。
(みんないなくなったのではなく、僕だけがここに迷い込んだ、というパターンもあるよな……)疲れ切った顔で、桐沢は思った。
再び、彼は走り出した。思えば、校舎に入ったのは間違いだった。学校そのものから出なければならない。本能がそれを繰り返し主張した。
階段を降りた時、その先に東雲がいた。直感的に、待ち伏せされたと気付き、すぐさま逆送するため身を翻した。背中を向けた瞬間、自分が見られているのがよく分かった。視線が突き刺さるということが感覚として伝わる。またしても下手を打ったと思い知るが、今は逃げなければならない。
がらんとした校舎を走りながら、桐沢は考え続けた。立浪もどこかにいるのだろうか? 東雲は自分を追ってきているのだろうか? 後者はすぐに判明した。いつの間にか先回りされていた――いや、突然目の前に現れた。前触れもなく、音もなく。さもそこにいたかのように、視界に出現した。
無造作に前に差し出された手に、桐沢は駆けた勢いのままぶつかり転倒した。肺を押される結果となったので、一瞬の息苦しさと共に咳が出る。それでも立ち上がり、今や恐怖の化身となった東雲から逃げ続けた。
そんなことが数時間続いた。どれだけ走ったか分からない。何度転んだかも分からない。ただ、他者による暴力に晒されたのは、人生でこの日が最大であるということだけ分かっていた。ぱんぱんになった足は、段々とおぼつかなくなっていった。校外を目指しても、いいところで東雲が現れた。火の消えた闇の瞳を向け、尋常ならざる暴力を向けて行く手を阻み、少年を追い詰めていった……。
そして、尽きていく体力と共に、とうとう逃げ場を失った少年は、理不尽にさらされた。
* * *
思い出し、自分自身が確認するように語り終えた桐沢は、最後に深く息を吸い込んだ。
シャケはニヤニヤと笑っている。その顔に、桐沢は機嫌を損ねた。
「死ぬかと思ったんですよ」
「そうだな。追い詰められた挙句に窓から飛んだんだ。一番追い詰めたのは桐沢君の勇気だよ。その東雲ちゃんも面食らっただろうな」少しの間笑い続けたシャケは、途端に真面目な顔になった。ギラリと鋭い目と、への字に結ばれた口元は顔を引き締め、桐沢に緊張が蘇る。「話は分かった。なるほど、ここはそういうことになっているのか。そうかそうか――」納得したように巨漢は頷く。
「言っておくけど、あなたも異様の内ですからね。登った瞬間がまだ信じられない」若干刺々しく桐沢は言い放った。
「その通りよ」シャケはスッと立ち上がり、窓から外を眺めた。「この状況下で俺は異様だろうな。向こうこそ、そう思ってることだろう」
ズイと窓に歩みよると、シャケは勢いよく全開にした。涼しい空気が流れ込む。それを一時堪能し、背筋を反らすほどに空気を吸うと、
「おーい! 何人いるか知らんが、ちょっくら脱出させてもらうぜ!」
思わず桐沢が耳を塞ぐ程に――そして、それがなんの役にも立たない程に、極めて大きな声を上げ、シャケはガハハと笑った。
恐怖と理不尽、暴力に塗れた時間を過ごした少年にとって、シャケの行動はあまりにも酷いものだった。
「何してるんですか! 見つかっちゃいますよ!」
「誰にさ? 東雲ちゃんか? 立浪君か? あるいは、他にもいるかもしれない、彼ら同様おかしな生徒か?」愉悦を含んだ笑みは、今度は力強くなった。「向こうから来てくれるってんならありがたいじゃねーか。帰るんでどいてくださいぐらい言えるぜ」
さも当然と言わんばかりの態度に、桐沢は呆気にとられた。
「こんなことされてよ、嫌なもんだろう。文句の一つ、じゃなけりゃ皮肉でも言えばいいんだよ。さぁ、こんなとこからはおさらばしようぜ。下校まで付き合ってやるよ」
ポンポンと言葉を放ちながら、背伸びをする巨漢は、少年と対照的にリラックスしている。
「あなた、何者なんです? せめていい人か悪い人かぐらい教えてください。返答次第では、全力で逃げますから」
「いい人であろうとすることは良いことだと教わってらぁ。だがな、こういうことをする奴には悪いが――ヒドイ人になることにしている。
さっき言っただろう? 旅をしていると。ここに辿り着いたと。いや、良かったよ。身ぐるみ剥がされて地図までなくした時はどうしようかと思ってたんだ。俺はこういうことをどうにかしちゃうために、呼ばれたんだからな」
「呼ばれた……?」
「ああ。ここの生徒にな。正確に言えば、呼ばれたのは俺じゃなくて、俺の先生にあたる人なんだが……。呼んだのは重間司津子という女生徒だ。聞いたことないか?」
重間司津子! その名前を聞いたとき、桐沢は背筋を震わせた。
「知っていますよ。学年も違うし、話したこともないけど。その子は、今、行方不明になっています」
「なんだって!?」初めて驚愕に満ちる表情を見せ、シャケは詰め寄った。「お、おい、行方不明ってなぁ、どういうこった? それはいつの話だ!?」
「えっと……二週間ぐらい前です。警察もまだ探しているけど……」既に、桐沢には最悪の予感があった。もし、重間司津子この事態と関わっているとしたら――
「二週間か。つーことは、師匠に手紙を出してすぐにか……。なんてこった、なんてこった……」
眉間を押さえながら、シャケは苦悶の表情を浮かべる。しばしそれが続くと、シャケは握り拳を作った。
「桐沢君よ、この一件は血生臭い。分かっているだろうが、君も狙われている。おそらくはその、重間司津子が行方不明になった原因の連中に」
重間司津子が見つかる可能性は低いだろうと、シャケは付け加えた。それは、桐沢にとっては死刑宣告にも等しい。即ち、人間一人が消えてしまった事実が自分にも繋がり始めているのだ。
では――では、目の前の巨漢は、いったい何なのだろう? 彼も繋がっているのだろうが、不思議と怖さは感じられなくなっている。その疑問に気付いたのか、シャケはベッドの上の桐沢に目の高さを合わせ、再び笑顔を見せた。
「安心しろい。俺がもうさせねぇよ。そのために来たんだ」
「……お、お化け退治の方ですか?」唐突だが、桐沢には他に言いようがなかった。もう、こんな現象はお化けでいい。
シャケの笑みは、変わらなかった。
「それは師匠の方だな。俺のは真似事よ。ただ、結果的にやることは同じさね」
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