炎の突撃野郎

伊達隼雄

1 出会い

 茜が差すがらんとした教室の中に、突如として転がりながら侵入したのはおかっぱの少年であった。メッキのだいぶ剥がれた眼鏡には、レンズにも汚れと傷がこびりついていたが、この衝撃で遂に甚大な傷ができてしまった。彼はまずそれを嘆き悲しんだが、すぐに自身に降りかかった膨大な暴力と、これから襲いくる重大な悲劇について、喉から滅茶苦茶な音を絞り出した。

 涙と鼻血、それに涎を漏らしながらうずくまる男子生徒に向かっているのは、彼より少し背の小さい女子生徒だった。茜に照らされた茶髪が鮮やかである。一見して極々普通の女子高生のようだが、彼が教室に放り込まれる際、その勢いでぶつかり倒れた戸を平然と踏んで歩み寄る様は異様だった。何より不気味なのは、その瞳が一切の興味を失って火の消えたようになっていることである。果たして、倒れた少年を同じ血の通った人間として認識しているのか……。投げ捨てられた人形を見てもこうはなるまい。

 襟を掴まれた少年は、そのまま教壇に叩きつけられた。額から血が流れるという状態を、彼は生まれて初めて体験した。それにしても、恐るべき腕力である。まるで少年そのものには十代男子の体重が存在しないかのような扱いであった。無造作な振りから、彼女にかかった重さは体感として、シャツと背負い鞄のそれだけだったのかもしれない。それほどまでに、少女が少年に振るった暴力は理不尽かつ巨大であった。

 今や、少年の顔は赤く塗られている。血化粧をざらざらの舌で舐めとった少女は、そのまま少年の唇を奪った。途端に、生暖かくぬるりとしたものがなすがままの男子生徒の喉を通った。とても心地が良い。痛みは消えようとしている。朦朧としていく意識は一旦回復の兆しを見せたが、再び、今度はもやがかかったように落ちていった。

 音が消えていく。空気さえ感じない。今あるのは目の前、闇の瞳を向ける少女だけ――

「はっ、ああっ!」

 歯を食いしばると、少年の体内に侵入を果たそうとしていた感触は消え去った。あらん限りの力で少女を振りほどき――それは、自分でも驚くべき力だった!――この場から逃げる最善を求めた。真っ先に目を付けたのは窓である。

 何を馬鹿な。ここは二階だ――それでも、このまま殺されるよりは、まだいいだろう。意を決し、少年は窓ガラスに飛び込んだ。割れない可能性もあった。心のどこかでそれを望んでいる自分もいた。しかし、現実はとてもうまくいってしまったのである……。

 衝撃が一瞬で消え去ったことに、身体が反応しよろめいた。外の景色がくっきりと映る。肌に触れる空気は、ひんやりとしていた。

 アクション映画のように、このまま着地できてしまえればいい。だが、単なる高校生にそんなことは無理だ。どこか、掴まるものはないだろうか? 必死に手を伸ばし、何かが当たってくれることを祈るが、落ちるスピードは予想以上に早い。彼が考えられたのはそこまでだった。

 止まった。もう落ちていない。ということは、着地したのだろうか?

 いや、それは違った。景色が巻き戻されている。

 気が付けば、少年は再び襟を掴まれていた。そのまま引っ張られて上に上に戻っているではないか!

 恐る恐る、少年は引っ張られている方を向いた。

 そこには、西日に照らされ、組織の隅々まで輝かせたような、筋肉があった。

 なんて太いのだろう――華奢な男子生徒は、まずそう思った。どれだけ肉を詰め込んでいるのかと疑問に思った瞬間、別の疑問が飛び込んできた。よく見れば、その男性は裸だった。真実、全裸だった。少し見る場所を変えれば丸出しの尻が見えた。

 ああ、そうか、僕は今、全裸の男に掴まれて学校の壁を登っているんだ――

「――ええっ!?」

 その事実に気付くと、異様な光景が浮かんだ。遂にその男は二階まで素手で登り切っていた。手足が引っかかるよう壁を抉り取りながら、である。とても人間業とは思えない。

 男は、巨漢だった。一九〇近くあるだろう上背にみっしりと蓄えられた筋肉は、それでいて俊敏性を失っているようにも思えない、野性味触れる肉体を実現している。丸坊主がよく似合っていた。年の頃はよく分からないが、少年とそう離れてはいないだろう。

 ほんの十秒程前まで惨劇が巻き起こっていた教室に降り立つと、巨漢は男子生徒を解放した。無造作なようだが、それは鳥を空に放つようで、とても慈愛に溢れている。

「おや、誰もいないじゃないか。やっぱり君は自殺か? それにしちゃあ、随分と派手だったなぁ」

 巨漢はキョロキョロと教室を見回し、ロッカーを発見すると手当たり次第開けて中を確認しだした。鍵のかかっているロッカーは強引に壊して開けて回っている。やがて、お気に召すものが見つかったのだろう、分厚い面を破顔させて男子用のジャージを引っ張り出した。その巨体には少し小さいが、彼は嬉々としてジャージを着た。

 上下はぱつんぱつんのジャージのみ。怪しいことこの上ない。巨漢は少年に振り返り、それは見事なドヤ顔を決めた……。

「少しきついが、さっきよりはマシだろう?」

 反応に困った少年は、そこで意識を失った。


 * * *


 目が覚めると、そこは何度か世話になった保健室である。

「起きたか、桐沢大吾君」

 低く明るい声がした。少年が意識を失う前に聞いた声だ。顔をずらしてみれば、そこに、いた。ぱつんぱつんのジャージを着た大男がパイプ椅子に座っている。

「どうして僕の名前を……」

 疑問というよりは諦めが言葉の端々に染み込んでいた。あまりにも突飛なことが起こりすぎている。

 巨漢はニッと笑いながら、生徒手帳を振って見せた。

「見たの!? というか、取ったの!?」

「返すよ」ポイと、生徒手帳は桐沢少年が横になっているベッドの上に放られた。「保健室の先生がいなかったんでな。ここで見てるのも暇だから物色させてもらった」

 巨漢はやはり長く太い指で、すぐ横のパイプ椅子にポツンと置かれている背負い鞄を指した。

「……あなた、誰ですか」

「腹が減った」

「は?」

 質問に答えるつもりなど毛頭ないらしく、巨漢は近くに置いてあった弁当箱を桐沢の前に持ってきた。

「それ、僕の弁当!」

「流石にこれを黙って食うのは気が引けてなぁ。どうだい、兄ちゃん。この弁当を俺にくれないか? もう一週間近くまともな飯を食ってないんだよ。文明の味が欲しいなって思ってたんだ」

 嫌だと、桐沢は巨漢から弁当を取り返そうとする。弁当箱自体はなんとか掴めたが、向こうも放さないつもりらしい。互いの腕の筋肉量に別次元を感じた桐沢は、力による奪還を諦めた。

「あげないって言ったら、返してくれるの?」

「馬鹿を言うな。半分こしようって言うわい」

 もう、食べることは絶対らしい。うきうきと目を輝かせる大男に、遂に桐沢は折れた。断れば何をされるか分かったものではない。この変態は、先ほどまで全裸だったのだから。それを思い出せば、この状況はどうだろう……何か、うすら寒いものを感じる。こんな男と保健室に二人きりとは。

「……食べたら、消えてくれる?」

「お望みとあらば消えてさしげましょ。飯の恩は大切だからな。さぁ、食おうぜ」

 弁当箱の中身は、ぐちゃぐちゃだった。背負い鞄に入れたまま転げ回ったせいである。

「おお、卵焼きと塩鮭が入っているな。俺は鮭をいただくぞ」形など関係ないらしく、大男は喜んだ。

「全部食べていいよ。もう夕方だし」

「それはありがたい! いただきます」合掌と礼を終えると、巨漢は素手で米とおかずを掻っ込み始めた。

 物凄い勢いで、そして晴れ晴れとした笑顔で、顔全体を使いながら口に入ったものを何度も噛み、飲み込む。小汚い食べ方だったが、どこか気持ちの良いものがあった。

「飲み物はないよ。買えなかったから」

「いらんよ。食えただけでも十分だ」米粒一つ残すことなく食べ終え、再び合掌と礼。しばらく味わい、「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした……」食べる様に見入っていたが、桐沢は根本的な疑問を思い出す。「あなた、本当に誰なんです?」

 満足気に弁当箱を片付けていた大男は、少し顔を歪ませて考えこんだ。そして、何を思ったか弁当箱をジッと眺め、

「シャケだ」突然出た言葉に戸惑ったのは桐沢もそうだが、大男も同じらしかった。しかし、すぐに笑い出し、「俺の名はシャケでいい。美味かったからな」

 そう言うと、シャケは弁当箱をクルクルと回し、手の上で弄んだ流れで背負い鞄の中に戻した。

「仔細あって旅をしている。この二つ前の駅で寝ていたら身ぐるみ剥がされてしまってなぁ。難儀していたんだ。なんとかここに辿り着いたはいいが、あの身なりだっただろう? 清らかな青少年の園に入るには小っ恥ずかしいし、さてどうしたものかと思っていたら君が降ってきた。で、助けた。ついでに、窓ガラス割っちまってまで飛び降りるとは何事か興味があったんで、登ったってわけだ」

 どこかうきうきとした語りであるが、桐沢にとっては余計に怪しく思えて仕方がない内容である。旅ってなんだ。登ったってなんだ。

「そうだ、あなた、どうして登れて――いや、待って、そうだよ、僕は二階から飛び降りたんだ」

 ここに来て、桐沢は先ほどまで起きていた重大な暴力を思い出した。この男も無茶苦茶だが、自分が直面した惨劇もまた無茶苦茶だ。普段の日々から続いていたはずの今日は、あまりにも突然でおかしすぎた。あらゆる考えが浮かんでは消える。悪いことから始まり、関係ないことまで含め、次々と浮かんでは消える。

 桐沢は、自分の顔をペタペタと触った。気になってはいたが、あれほど痛みつけらえた顔は、身体は、今ではすっかり元の健康な高校生のそれに戻っている。痛みは生々しく覚えているので、あれが実は夢だったとは思えない。何より、今までの全てが事実だという最大の証明が真横にいるのだ。

 とうとう桐沢は腰を折り、盛大な溜息と共に参ってしまった。すると、突然シャケが桐沢の両頬をペチンと叩いた。一瞬びりりとした痛みに襲われるが、これは一過性で大したことはないし、すぐ消えた。反射的に背筋が伸びてしまう。

「何するんですか!?」

「学生君が悩むなとは言わんが、苦しさばかり息と一緒に吐き出すのはよろしくねぇや。ちょいとごめんよ」

 軽々と桐沢の体位置をずらすと、シャケはベッドに飛び乗り真っ直ぐ伸びたままの背筋の後ろで膝立ちになった。

 至って健全な少年は、ひぃと漏らしそうになったが、関節に触れられ、両手に背中、首までパパッとマッサージ……というよりは、整体師の真似事をされて大きく息を吐いた。真似事は真似事でしかなく、これまた無茶苦茶であったが、意外や意外、急に肺に新鮮な澄んだ空気が入ったように思える。筋肉が柔らかくなり、骨が綺麗に収まった――脅威の早業で、シャケは桐沢をほぐしてしまったのである。

「独学だが、中々どうして効果覿面ってやつよ。評判いいんだぜ」

 最後に両肩をポンと叩いて、シャケは再び椅子に戻った。

「なぁ、桐沢君よ。どうしたってんだい? 考えてみりゃあ、おかしなこった。俺はあんたを助ける前後から、あんた以外に会っちゃいねぇんだ。学校でこの夕方時なんざ、部活に居残り、教師だっているだろう。ところがこの保健室一つ見ても妙だ。先生がいやしねぇ。騒ぎを駆けつけてドタバタやる奴もいねぇ」

 ニコニコと笑いながら、しかし真剣に、シャケは真っ直ぐ桐沢の目を見ながら話した。その瞳には静かに燃え立つ炎が感じられる。

(ああ、あの目とは違う――)桐沢の脳裏に、闇の瞳が浮かんだ。

 今現在、学校の状況がおかしなことになっているのは分かっている。桐沢は深呼吸をし、この怪しげな男に語り始めた……。

 そうこなくっちゃ――シャケはニヤリと笑った。その拳はぎゅうぎゅうと握られている。

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