3 襲撃

 保健室の外に出た桐沢とシャケは昇降口を目指して歩いた。周囲を警戒しながら歩く、今しがた恐怖と狂気の渦中にあった少年に、しかし巨漢は笑いかける。大丈夫だ、そこまでビクつく必要はどこにもない、と。

 不気味さは幾分か消えていた。豪快に歩くぱつんぱつんのジャージがそうさせているのだろうか。一人でいるよりは二人の方が、確かに心持ちが軽いだろう。しかし、シャケの存在はどこか馬鹿馬鹿しく、それがこの異様な空間にさえ作用しているようであった。人の集まりには空気感が出来上がる。シャケという男は、それを一変させるタイプである。桐沢はこれまでの行動から、それを理解していた。ただし、この場合では静寂な学校そのものが作り上げた空気を一人で塗りつぶしていることになるが。そこから来る安心感が、桐沢に再び問いを蘇らせた。現状の把握についてである。

 桐沢が気がかりだったのが、自分の怪我一切が治っていることである。シャケが治療したとは思えない。保健室で治療した程度で傷が綺麗さっぱりなくなるものか。思うに、東雲に追い詰められた時に口づけされて体内に入れられたものが怪しい。あれはもしや、自分が見た――立浪が東雲に与えたものと同種だったのではないだろうか?

 口づけ。

 そうだ、口づけされたのだ。

 人並みに興味はあれど初心でもある少年の心がかあっと燃えた。おかしなことになっていると彼自身分かっていた。殺されかけたというのに、あの一瞬、感じていたのかもしれない幸せを胸の奥に刻んでしまっている。男子高校生というのは、とても厄介だなぁと桐沢は思った。

 そして、そんな両極端の思いは、シャケの鼻歌で消え去った。

「のんきですね。お化け退治できる人だから余裕があるんですか?」

「お化け退治をするわけじゃあねぇよ。それに、余裕なんてどこにもありゃせん。今だって必死も必死よ」おどけるように笑い、続けた。「だってさー、俺は今、ノーパンだぜ? それに、こんなぱつんぱつんじゃあ、外に出た途端お巡りさんのお世話になっちまわぁ。おお、怖い怖い。必死必死」

 ししし、と笑い方を変えてオチをつけたつもりになっているシャケに、桐沢はまた幾分か心が凪いだ。

 廊下を先へ先へ。曲がり角に差し掛かった時、一瞬シャケは歩幅を狭めて死角を睨んだ。桐沢にも緊張感が走る。

「何か、いる?」

「いや、いないよ。ただ、面白いことになる」

 それ、と、シャケはステップを踏んで角を曲がった。桐沢も後に続くと、そこには再び廊下が続いている。

「あれ?」桐沢は流石に驚いた。これはたった今、歩いていた廊下である。戻ったわけでもない。進んだ先はまた同じだったのだ!

 この現象について、桐沢は初めて遭遇した。昼休みから逃げ続けている時は、歩いた分だけ進めたし、学校の構造そのものは自分が知る通りで、その通りに歩き回れた。

 ――ゲームでこんな場面を見たことがある。怪談でもおなじみだった。

「これって、歩いても歩いてもゴールに辿り着けないとか、そういうパターンですか?」

「そういうことだろうな。早速仕掛けてきやがった。ありがたいったらないぜ」

 腕をパンパンと鳴らし、巨漢はジッと遥か向こうを見やった。

「桐沢君よ、少し騒がしくなるかもしれん。ごめんよ」

 言い終わった直後、校舎が一瞬大きく揺れた。体勢を崩した桐沢少年は、その瞬間、廊下が伸びていく様を目撃した。同じ構造が延々と続いていく。曲がり角は向こうも向こう、遠く見えない先まで伸びてしまった。力を受けたバネが一気に反発するかのように、轟くような勢いを持ってこの異変は巻き起こったのである。

 シャケは、怯むことなく、先を睨み続けた。

 最早、伸び続けているかどうかさえ分からないほどに延長された廊下の向こうから、何かが走ってくる。廊下の四隅を残して、巨躯で埋めていた。鈍色に包まれた楕円が近づいてくると、四足の軽快なリズムが届いてくる。赤い目と鋭い歯に凶暴性を主張させながら、大鼠は奇声を上げて迫った。

 大鼠の奇声に負けない絶叫を桐沢が上げると同時に、シャケは目を瞑った。桐沢の声を除外するよう努めれば、タタ、タタ、と、大鼠の足音が澄んで聞こえる。しかし、シャケはそれすらも除外しようと意識を耳に集中させた。

 この巨漢には、どうしても欲しい音があった。そして、全身から力を抜き、流れる空気と自身の境目を明確に感じた瞬間、輝く瞳を全開にシャケは真横の窓ガラスからそれを剥ぎ取った。

 シャケの腕の振りと共に、景色は静寂ではあるが茜さす通常の校舎に戻った。まさに大鼠がシャケと桐沢を噛み砕かんとした、その瞬間であった。

 呆気にとられた桐沢に、シャケは行こうと一言かけ、再び歩き出した。

 興味が、恐怖を上回った。

「シャケ、今のは何なんだい!? あのネズミは? それに、あんたは何をやったんだ?」

「さっきのは幻と、その中で生きる下僕よ」歩みを止めずにシャケは答える。「師匠の受け売りだが、今のは延々とペンキを垂らして塗りつぶしたようなもんだ。俺たち若者風に言うならば、コピー&ペーストを繰り返しやってるってことよ。この静かな校舎はああいうこともできるってわけだ。便利なことこの上ないねぇ」

 シャケは感心したように頷いた。

 桐沢にしてみれば、驚愕という他ない。今日はなんという日だ。あまりにも予想外が多すぎる。

 さらに、シャケは続けた。

「俺がやったのは、その力の流れの切れ目を聞いて、ひょいと摘まんで引っぺがしたってだけのことよ」

「切れ目を、聞く?」

「今みたいなのは俺の師匠もできる。師匠は凄いもんでねぇ、道場を同じやり方で伸ばしやがるんだが、力を流して塗り替える流れに一切音が立たねぇんだ……」うまく説明できていないことに気付いたシャケは、「屁を音も出さずにできるかどうかってことよ。今やった輩は音を出しやがった。下手だ。音のある力の流れは膨らんだようなもんで、今みたいに引っぺがして元に戻すことが簡単にできるんだよ」

「力を引っぺがすとか、よく分からないよ。マンガみたい」興味が少し漏れて桐沢は言った。

「言っただろ。俺は師匠の真似事。お化け退治が生業じゃないけど、こんな具合に腕一本でなんとかできるのさ。師匠からも、お前は何も考えず寄って殴ってれば格好はつくって言われてるからなぁ」

 しばらく笑ったシャケは、握ったままの拳を内に引いた。そのまま、ロープを巻き取るかのように動き出した。手には何も持っていない。一見すれば踊っているようにも見える。

 桐沢は、もう常識の目で見ることを半ば諦めていた。おそらく、シャケが今やっていることも、この奇怪な現象の内の一つなのだろう。

 やがて、遠く曲がり角から一人の男子生徒が見えない何かに引きずられて現れた。

 三年の菊田――桐沢もよく知る人物であった。ごつい、それこそ彫刻のような顔をした美術部員である。普段は仏頂面なのだが、引きずられて――いや、シャケに巻き取られて転がってきた顔には焦りと不安が入り混じっている。彼は、何が起きたかまだ理解していない。

「どうだ、桐沢君。面白いことになっただろう」

「こ、この人が、まさかさっきのをやっていたんですか?」

「それを今からこの兄さんに聞くのよ。なぁ、兄さん」シャケは菊田の襟を掴み、空いた方の手で顎を軽く小突いて顔を上げさせた。「ちょっくら聞きたいんだがね、今のイタズラは兄さんがやったのかなぁ? 身ぐるみ剥がされた哀れな俺に教えてくれよ」

 ギラリと睨みつけるシャケの眼は、既にそこが別の生き物のように力強く動いていた。いずれに向いても菊田を睨みつけていることに変わりはなく、鋭い剣先と化した視線で菊田への攻撃を続けていた。

 襟を掴む手に更に力が入り、シャケは手近な窓ガラスに菊田をぶつけた。ガラスが割れる高い音と共に、菊田の頭は外へと出た。

「おい、答えろって。お外はひんやり、これで目が覚めただろう? 頭も冷えただろう?」

「な、何をしたんだお前は……」絞り出すように、菊田は尋ねた。

「俺の事はいいから、おい、答えろって」

 校舎側に残った菊田の下半身を押さえつけ、上半身にかかる力をより強めた。みしみしと、菊田の身体は悲鳴を上げ、彫刻のような顔は苦悶に歪む。

 その瞬間、全てが消えた。

 シャケは身を乗り出しすぎて、人がまばらに通る中庭に転がり、桐沢は開けっ放しの窓ガラスの前に突っ立っていた。

「ちっ、逃げられたか。摘まんだものも消えてらぁ」

 スッと立ち上がり、シャケは桐沢を片手で持ち上げ、脇に抱えると、まだ残る生徒たちに注目されながら校外へと走った。

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