第28話 フォール・アウト
巻き起こった煙幕によって視界はさえぎられていた。一歩先さえも、ようすが掴めない。
空気を
この廃病院にはやはり、なんらかの負の情念が染みついているとしか思えない。
呪い。執念。遺恨。怨念。憎悪。
どんな言葉でも足りない、何千何万もの命の嘆きが毒ガスよりも濃い不吉を充満させているのだ。
前途は多難――、
しかし、いつだってそうだった。人類は、いつだってそうだった。
「お話にあった黒い怪物ですか、この声は? 爆音でおびき寄せちまったようですね」
カレンはうなずく。煙のなかから、いつあの怪物が飛び出してくるかもしれない。躰がみるみるこわばって、体温を失っていくようだ。
跫音がきこえた――ふたりはとっさに身構えた。
不規則な、ガラス片や瓦礫を踏む音が、廊下に響く。
しかし、煙のなかから現れた影は、”フォール・アウト”ではなかった。
カレンは息をのむ――跫音の正体は、全身をケロイド状に焼かれた原発ピグミー〈指まみれ〉だったのである。
焼け爛れた皮膚によってその相貌はさらに怪物じみ、表情にきざまれる怒りと怨念は地獄の悪魔のようにさらに闇を増している。
カレンは“ヴィルヘルム”を構える――〈指まみれ〉の手に、薬品瓶が握られているのをみてとったからである。
引き金にかかる指が慄える。照準を、うまく合わせられない。
〈指まみれ〉が瓶を振りかぶる――力がみるみる、その一点に集中していく。
間に合わない!
だしぬけに〈指まみれ〉の躰が宙に浮かび上がった。
虚をつかれた〈指まみれ〉は、むなしく唸り声を上げる。
カレンはその場に凍りつく。濛々と巻き上がる煙のなかからのびた、黒く巨大な手が、〈指まみれ〉の躰を掴んでいた。
その手を忘れるはずがない。まるで壊死したように黒ずみ、鱗のような腫瘍に包まれた、その醜くおぞましい手を。
またたく間に煙のなかに引きずりこまれた〈指まみれ〉は、怪鳥のような悲鳴を上げた。
飛び散った熱い血が、カレンの顔に泥のようにかかる。
拭うのも忘れ、煙のなかに浮かび上がる巨大な影に、カレンは視線を完全に奪われていた。
信じられない大きさ――すくなく見積もって、身の丈二メートル、体重二〇〇キロはあるだろう。獰猛な食欲の塊であるその黒い獣は、バリバリと空を裂くような音をたてながら、豪快に原発ピグミーを喰っていた。
喩えるなら列車だった。時速一〇〇キロで疾走する列車に飛びこみ自殺をした憐れな老人が、粉々に轢き潰されていくような光景だった。
肉も骨も関係なく、巨大なミキサーにかけられたように、死体が砕かれ怪物の口のなかで混じり合っていく。カレンにとってたったひとつの幸福があるとすれば、まちがいなく、視界を覆う煙によってその惨劇を正視せずに済んだということだけだった。
“フォール・アウト”は放射線を吸収して、エネルギーに換えることができる。
そうだというなら――この放射線にまみれた黒草町は“フォール・アウト”にとっては無尽蔵のエネルギー源だ。
ここまで大きくなったか――この、ほんのわずかな時間で。
「話がちがいますよ、絹木さん――チンパンジーほどの大きさだって……いってたじゃないすか……」
茂楠が哀れっぽい泣き声を上げる。
カレンは答えられない――こんな巨大な怪物から、いったいどうやって逃げればいいというのだ?
〈指まみれ〉を喰い終わったら、おそらくつぎに狙われるのはじぶんたちだ――この巨大な黒い怪物“フォール・アウト”には、食欲しかないのだから。
“フォール・アウト”に強化放射線発生装置“ヴィルヘルム”は通じない。ぎゃくに、大きく成長させてしまうだけ――。
周囲をみまわす。
洗剤の容器。ガラス片。無人のストレッチャー。瓦礫、注射器――すくなくとも、護身用の武器になりそうなものは、なにひとつない。
追跡劇は避けたい。この巨人のような怪物に無防備な背中を晒すのは、わざわざやつに食後のデザートを供してやるようなものだ。
身をかがめながら、後ずさる。階段まで距離をとれば――あるいは、逃げきれる可能性がなくもない。
煙のなか、巨大な怪物が、こちらを見据えているのがわかった。
命の縮む思いだった。カレンと茂楠はしばしの間、“フォール・アウト”と睨み合った。
やがて“フォール・アウト”はネコ科の猛獣のように咽喉を鳴らし――〈指まみれ〉の残骸を放り投げ、ゴリラのような前傾姿勢でゆっくりと立ち上がる。
天井にさえ届きそうな黒い影が、廃病院を揺るがす咆哮を上げる。
それを合図にリノリウムの床を踏み砕き、怒涛のように煙を立てて、黒い影が飛び出してきた。
“フォール・アウト”は茂楠にかまわなかった。より華奢で与しやすいとみてとったのか、その突進はまっすぐカレンに向かっている。
カレンは機敏な動作で廊下の突き当たりまで逃れ――そして壁を背にして、逃げるのをやめた。
なぜ逃げるのをやめる――茂楠が表情で訴えた。
逃げてもむだだからだ――いくら躰が大きくとも“フォール・アウト”のほうが、敏捷さは上。
覚悟は決めた。カレンはふうふうと息を吐く。そして唸る“フォール・アウト”と相対した。
咆哮を上げ、“フォール・アウト”は前屈みに突進してきた。カレンは動かなかった。ただ、眼を瞠るだけだった。ぎりぎりまで引きつけて――タイミングを合わせ、カレンは紙一重で身を伏せた。
廃病院が崩れ落ちるような、激しい衝撃音が建物を揺らす。
ダンプカーが激突したような迫力――濛々と埃が舞い上がった。
相手の突進力を利用して壁に自爆させる試みはまず成功――降り注ぐ瓦礫を浴びながら、しかし“フォール・アウト”はまるで堪えることのないようすで立ち尽くしている。
しかし、それもカレンは計算ずくだった。
狙いは、壁を破壊することのほうだ――正確にはこの位置――エレベータの扉を。
「何度だっていうわ――病棟の見取り図は、抜からず記憶しているってね」
“フォール・アウト”の突進で半開きだった金属製の出入り扉はぐにゃりと大きく歪み、剥きだしのコンクリートの昇降路から凍るような風が噴きこんできた――成功だ。
「茂楠さん! お願い!」
アイコンタクトですべてを悟った茂楠はすでに立ち上がり、渾身の力でストレッチャーを押しながら突進していた。
アルミ合金製の頑丈なフレームに、四つの車輪を軋ませながら。
たとえ関取であろうとも運べる堅牢性を誇る医療器具が“フォール・アウト”の背中に激突する――黒い怪物は、よろめき、エレベータの昇降路へと呑まれた。昇降路に爪を立てようとするが、それもままならない。
まるで地獄への入口のような深い深い奈落の底へ、その巨体をなすすべなく墜としていく――、
しかし、予想した激しい激突音は、鳴り響かなかった。
そのおぞましい黒い怪物は――あろうことかエレベータのワイヤー・ロープを掴んでいたのである。
そして、まるでゴリラのように、手の力だけで四本のワイヤーを器用に昇りはじめたのだ。
巨大な口から、粘液と怒りの気炎をほとばしらせながら。
当てがはずれた茂楠は、絶望の表情で立ちすくむ。
「もうだめ――」
その弱音は、最後までいわせなかった。カレンは相棒をおしのけ、放射線銃“ヴィルヘルム”の照準を、昇降路を昇りくる怪物に合わせていた。
「可哀想に――素直に墜ちてくれていればよかったのに」
引き金を引く――青い光に、その怪物がおぞましい姿を曝け出す。
まるで全身の組織が壊死した醜い死骸。生きた屍。この世に生きていてはならない怪物――。
一五〇〇〇グレイもの放射線を浴びた“フォール・アウト”は、またも全身を軋ませながら、躰を成長させていた。
ボコボコと全身に泡が立つように、さらに醜く、巨大に、腫瘍は成長し、姿を醜くゆがめていく。
ワイヤーをのぼる怪物の動きが鈍くなり、やがて完全に動きを止めた。
苦悶の叫びが、昇降路にこだまする。
放射線で殺すことはできないが――動きを止めることはできる。
この病院のエレベータの積載荷重は一〇〇〇キロ設定だ。建築法上、エレベータのワイヤー・ロープは安全率十倍の強度が義務づけられているため――十トンの荷重に耐えることができる。
巨大化し、羆のような巨躯となった黒い怪物は、炭素鋼製のワイヤー・ロープとコンクリートの昇降路に挟まれ、完全に身動きがとれなくなっていた。
さらにワイヤー・ロープが皮膚にめりめりと喰いこんで、黒い皮膚から出血までもはじめている。
まさに、蜘蛛の巣に絡めとられた蝶のようなもの。
哀れな慟哭が昇降路に反響し、まるで何万もの亡者の声のように響いた。
カレンの表情は沈んでいた。じっさいこれ以上もなく、暗澹たる表情だった。
追ってこなければ、これほど惨い仕打ちをしたくはなかった。だけど、こうせざるを得なかった。
「――ゆるして」
カレンは〈指まみれ〉が落としていった薬品瓶を、エレベータの昇降路に向けてそっと落とした。
涙を堪えて、背を向ける。
やがて強力な閃光が、エレベータの昇降路を焼き貫き――すさまじい爆音が黒草病院をふたたび大きく慄わせはじめた。
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