第29話 崩壊
「PLT本隊から連絡が」
賀来隊員は無線を切り、アクセルをさらに踏みこむ。
助手席の東は神妙な面持ちで賀来隊員のつぎの言葉を待つ。
「黒草病院到着まで――あと三分、ということです」
「それだけかね?」
「いえ――なにが起こったのかはわかりませんが」暗澹たる表情で、賀来隊員は答える。「黒草病院に異状が――中央診療施設棟が、崩壊を始めているとのことです」
腹部の出血が酷かった――応急処置をしたとはいえ、あれだけ動き回ったのだ。当然のことだった。
茂楠に背負われるカレンは、必死に腹部の激痛に耐えていた。これまで痛みを感じずに済んだのは、アドレナリンのせいだったに違いない。
無言のまま淡々と、茂楠は階段を駆け降りていく。そのたびに天井からパラパラと、細かい瓦礫が降ってくる。
闇のなかであるため、慎重な足取りではあった。だけどもはやそれは問題ではない。じぶんたちを追ってくる者は、だれであろうと、もういないのだ。
しかしだからといって、勝利の凱旋、という気分ではなかった。ふたりの心は、 この黒草病院の廃墟のように陰鬱で、凍えきっていた。
女医、鞠木百合は死んだ。怪物じみていたとはいえ、原発事故の被害者でもある原発ピグミー、それに“フォール・アウト”も死んでしまった。
今回の探索任務は――あまりにも救いがない結果で終わった。得たものがあったとすれば、じぶんたちの命だけではないか。
昇降路に閉じこめられたときの“フォール・アウト”の表情を思い出す。泡立つような黒い腫瘍に覆われ、巨大な両棲類を思わせる姿形は、人間離れしてはいたが――どこか、憐れみを感じさせる表情だった。
いま感じるのは――わが子“フォール・アウト”の凶暴さの理由である。
彼がなぜ、あれほど獰猛だったのか。
彼はいったい、なにに飢えていたのか。
おそらくそれは、孤独のためだったのではないか。
じぶんだけがまったく別種のちがう生き物で――世界にただひとりぼっちだという孤独。
コンピュータでいえば、かれはちょっとしたきっかけで生じてしまったバグなのだ――しかしそれを削除せねば、コンピュータ全体が動かなくなってしまうという、致命的な。
世界全体のために、ただひとり死ななければいけないというのは、悲劇ではないだろうか?
じぶんさえいなければ世界すべてが問題なくまわるというのは、悲劇の最上たるものではないか?
かれの罪があるとすれば、ただ、生まれてしまったというだけのことなのに。
じぶんだけがなぜひとりなのか、という混乱。
それはだれのせいなのか、という憤慨。
ただ生きようとするだけで排除されてしまう悲しみ。
放射線に対して強靭な耐性を持ち、人間を超えた怪力を有しながら、遺伝子にきざまれた運命にだけは逆らえないという無力感。
彼はこの世でただひとり、ふつうの人間ではなかった。生まれながらに大事ななにかを欠損して生まれてしまった。永遠に埋まらない欠損を、なにかで埋めようとしてしまった。
喰っても喰っても彼の心はみたされない――その苛立ちと飢餓感こそが、彼の凶暴さの正体だったのではないか。
すくなくとも、母として、カレンはそう思うのだ。
そんなものは、カレンの感傷かもしれない。“フォール・アウト”がそうした人間らしい感情をどれだけ持っていたのかも、もはやさだかではない――だけど、怪物に生まれた者には、怪物にしかわからない嘆きがあるのではないか。そこに考えを巡らせるのは、けっしてむだなことではないのではあるまい。
茂楠は、なにもいわなかった。ただ、驢馬のような愚直な、しかしたしかな足どりで、ふうふうと息をきらしながら、廊下を駆けていく。瓦礫に埋もれ、いまも天井がすこしずつ崩落を続ける長い廊下を。
黒い雨が窓ガラスを叩く。何度も――何度も。そのたびに、窓ガラスを黒い汚物が這っていく。
闇のむこうに、廊下の先がみえた。
幽かに開いた非常ドアから、たしかな明かりが漏れている。
にわかに得た気力で、茂楠の足取りは力強さと速さを増したようだった。
ふいに黒い雨音が激しさを増し――悲鳴がカレンの咽喉で凍りついた。
瞠目する――窓のむこうをみやりながら。
信じられないことだった。黒い雨に打たれながら、羆のような怪物が、外からこちらに大きな口を開けていた。
その巨大な躰は黒く焦げ、いまなお煙を噴いている。
“フォール・アウト”――その名を呼ぼうとした矢先、怪物は太い腕をふりかぶった。 そしてつぎの瞬間――廊下の窓ガラスを、外から粉々に叩き割った。
ガラス片を浴びながら、声にならない声を上げ、茂楠は必死で逃げようとする。 しかし疲労の蓄積したその足では、速度をこれ以上、上げようもない。
“フォール・アウト”は窓の外を並走しながら追ってくる。むこうもさっきの爆発による熱傷を負ってはいる。しかし、外に降るのは黒い雨――やつのエネルギー源、放射性物質の塊だ。
皮膚全体で、それを吸収している。全身で喰っている。エネルギーを吸収することで、急速に負傷を恢復させ、その足取りは、さらに力強さを増していく。
まるでエンジンを全開させたブルドーザーのように咆哮を上げ、大地を踏みしめるごとに、天井の崩落がさらに激しくなっていく。
もうやつを止める手立てはなにもない――駆け抜けるしかない。
廊下の先の非常口まで、あともうすこし。
非常口の外に、ワゴンが停まっている。相手がいくら怪物でも、車で逃げて追いつかれるほど常識はずれではないだろう。
ワゴンまで逃げこめば、逃げきれる。希望はただ、それだけだ。
「降ろして――茂楠さん」
激しく揺れる茂楠の背なかで、呻くようにカレンはいった。
「わたしがやつを足止めするから、あなただけでも車に――」
「だめです」
その声はききたがうほど決然としていた。
「罪の意識を感じてのことでしょうが――あなたが死んでも、あなたの罪は消えないんですよ」
“フォール・アウト”がもういちど窓を割る。ガラス片とともに、ヘドロのような黒い雨が廊下に飛び散った。
しかし間一髪――辿り着く。一階、非常口に。
ぶつかるように茂楠が、躰全体で非常ドアを開けた。
瞬間、稲妻が走り、闇を裂く――闇のなかに浮かび上がった光景に、茂楠とカレンは声を失った。
病院の敷地内に、何台もの装輪装甲車が到着していた。そこから続々と、武装した迷彩服の兵士たちが降りてくる。
安堵の溜息を漏らす、その瞬間、非常口から巨大なワームのような黒いこぶしが伸びた。
茂楠はとっさに後退する。掴まれたなら、握力だけで、顔面が粉々になっていただろう。
けたたましい銃声が鳴った。
それを追うように銃声、銃声、銃声。
巨大な黒い手の動きが止まり、やがてその場に崩れ落ちた。
PLTの隊員たちが硝煙を噴く小銃を手に携え、駆けつける。
「だいじょうぶですか?」
若い屈強そうな隊員が、そう訊ねる。
カレンは答えられなかった。茂楠もそうだった。
ただ、力尽きた怪物の黒い手を前に、わが眼を疑うだけだった。
瓦礫のなかに沈む、その焼けた爛れた巨大な黒い手には――どういうわけか、一本の花が握られていた。
いくつもの薄いピンク色の花弁をつけた八重咲きの花――愛する女性に、大切な人に、ささげようとするかのように。
カレンはそのとき、ようやく理解したのだ。
廃病院に踏み入ったとき、何度もきこえたあの幻聴――何度も危険を知らせようとしてくれたあの声が、わが子――“フォール・アウト”の声だったことを。
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