第27話 揺れる廃病院

「PLTを突入させたとして」

 東は車のドアを閉めながら問う。

「黒草病院まで何分で到着する?」

 運転席の賀来隊員は、エンジンをかけながら答える。

「急いでも、二十分というところでしょう」

 二十分――被曝限界時間ぎりぎりだ。

「それまで絹木社員が、ぶじでいればいいが」

 東はぽつりとそう漏らしたが――賀来隊員はなにも答えず、アクセルを強く踏みこんだ。




       


 身を起こし、辺りをみまわす。手で触れる床は埃や瓦礫が積もっており、油断すれば散らばるガラス片で裂傷を起こすのは疑いない。

 膝を立て、ゆっくり慎重に身を起こす。

 中央診療施設棟三階――薄闇の廊下には、ストレッチャーや注射器などの医療器具の残骸、ガラス片、プラスチック製の洗剤の容器などのゴミが散らばっている。

眼を凝らすが、原発ピグミーの姿はない。呼吸がすこしずつ、動揺によって乱れていく。

 廃病院に潜入したときは、薄気味の悪い矮人が群れを成して襲撃してくる恐怖と対峙しなければならなかった。廊下を走り、格闘する、いわば「動の恐怖」だ。

だけどいまカレンが感じているのはそれとはまったく別種――「静の恐怖」だった。天井裏――引いては、この巨大な廃墟の何処かに潜む、たった一匹のちいさな矮人をみつけださなければ身の安全が保証されないという恐怖――それは群れにいちどきに襲われるよりも、ずっと胸に迫る、神経に堪える恐怖だった。

「さっきの爆発は――いったい?」

 階段をふり返りながら、茂楠が声を震わせる。

 呼吸を整え、カレンは答えた。

「床に撒かれていた薬品――ゴム長靴が溶けたことから判断して強酸のたぐいでしょうね――おそらく濃硫酸。医薬品の製造にも使われる安価でありふれた強酸だから、薬品管理室を探せば不足はしないはず」

 辺りのようすに神経を尖らせながら、カレンは続ける。

「それからもうひとつ、天井裏からあの忌々しい〈指まみれ〉が投げつけてきた薬瓶――あの黒い粉末はおそらく過マンガン酸塩よ。強力な酸化剤で、医療用殺菌剤としても使われる。やれやれ、やっぱり薬品管理室にはたくさんあるでしょうね――ふたつが混合すると、危険きわまりない酸化マンガンが生じる。特徴はみてのとおり――強力な爆発性」

 瓶が割れることで中身が混合してスイッチが入る、手製の簡易着弾式爆弾。

せいぜいメスか鋏をふりまわすぐらいだとたかを括っていたが、とんでもない。

あの原発ピグミーは、きわめて狡猾な武器を使う――あきれるほどに。

 放射線に耐性があるだけで知能は低い――原発ピグミーに対するその評価を、大幅に上方修正せざるを得なかった。少なくとも、あの〈指まみれ〉にかぎっては、ほかとはすこし毛色がちがうようだ。

 淀んだ大きな眼を瞠り、ゴクリと咽喉仏を膨らませ、茂楠は耳もとで必死の口調で訴える。

「逃げましょう、絹木さん。危険だ――あんな小人を、いま此処で相手にすることはない。ぼくらにはもう、時間がないんです」

 カレンは深く呼吸して、天井を眺めまわす。にわかに噴き出た汗が、頬をつたった。

 ちくしょう――もしもこの廃墟から生きて帰れたら、いちばん初めにシャワーを浴びたいもんだわね。カレンは、心のなかで毒づく。

 天井は至るところ崩落し、いくつもの穴から錆びた鉄骨が覗いている。その穴の何処かから〈指まみれ〉が薬液を湛えた瓶の第二弾を投げつけてくるのだろう――危険すぎるモグラ叩きをやらされている気分だ。

 彼女は決然とかぶりを振った。

「いえ――茂楠さん。いま、やつに背中をみせるのは危険だわ。やつは背を向ければ向けるほど追ってくるのよ――猟犬みたいに。この廃病院は、やつの庭みたいなもの――とてもじゃないけど、逃げきれっこない。さっきみたいな狡猾な攻撃をされたら、命がいくつあっても足りないわ」

「じゃあ、どうすれば――」

 泣きごとをさえぎって、カレンは廃墟の闇に眼を凝らす。

「相手をみつけだして――狩られる前に、狩るしかない」

「なにか――策でもあるんですか?」茂楠は早口でまくしたてる。「たしか、やつはこの闇のなかでも視力を発揮できるんでしょう? X線を知覚できるとかで。つまり天井裏からでも、こちらのようすを透視して居場所を確認できるってことだ。だけどこちらからは、天井裏に潜むやつの姿はとうてい視えない。一方的だ――不利すぎる。たかが小人に、ここまで追い詰められなきゃいけないなんて。まるっきり、勝ち目がありませんよ」

「だけど、いくら天井裏からこちらのようすが視えたところで、薬品瓶を投げつけるその瞬間だけは、あの醜い姿を曝さざるを得ないわ」

 カレンは放射線発生装置“ヴィルヘルム”を構える。

 原発ピグミー相手でも、スタンガン程度の効果はある――鞠木百合は、そういった。それにこの武器なら、相手の居場所さえわかれば、天井程度の障害物など透過して狙撃できる。

 壁を背にしながら慎重に歩き出し、眼に、耳に、必死で神経を集中させる。

重苦しい闇のなかに、蜘蛛の糸のように、鋭敏に研ぎ澄まされた神経を張り巡らせていく。

「投げてきてみなさいよ」

 カレンは小声でひとりごちる。瞬間、“ヴィルヘルム”で眉間をぶちぬいてやるから――。

 闇のなか――なにかが割れる音がした。

 カレンは身を竦め、辺りをみまわす。

 しかし、音がした場所はこの付近ではない。かなり遠く――さっきまで駆け下りようとしていた、階段の先だ。

 なんだ? いったいなにをしようとしているのだ? 息を潜め、カレンは身をかがめる。

 続けて、またも闇を切り裂く音。こんどは階段とは反対方向の、廊下の先で鳴ったようにきこえる。

 原発ピグミーが瓶を投げつけたことは、まちがいない。ただ、どの音も、まったく的外れな場所で鳴っている――爆発音も、響かない。

 どういうことだ? いったい、なにをしているのだ?

 耳を澄ませる――なにかを溶かすようなシュウシュウという不気味な音が静かに漏れきこえる。

 ヘヘ――茂楠が薄く嗤って、声を潜めた。

「絹木さん、むこうもこちらを見失ったんじゃ……」

「ちがう」

 カレンの鋭敏な嗅覚が、幽かな刺激臭を感知した。

 瞬時にあの醜い怪物〈指まみれ〉の意図を掴み、カレンは背すじを慄わせる。

「逃げるわよ、茂楠さん!」

 カレンは廊下を駆け、手近にあった部屋に飛びこんだ。茂楠が追随し、カレンは 背中でドアを閉める。

 乱れる息を、必死に整えようとする。

「廊下のあちこちに洗剤の容器が捨てられていた――ただ無造作に捨て置かれたゴミのようにみえて――あれこそが、やつの仕掛けたトラップなんだわ」

 塩素系洗剤に濃硫酸を混合すれば、どうなるか――発生するのは、塩素ガス。

 家庭用の洗剤を混ぜ合わせだけで発生するこの黄緑色のガスは、生成の手軽さに反して戦慄すべき威力を有する、まごうことなき毒ガスである。第一次世界大戦、ベルギーのイーペル戦線においてドイツ軍がイギリス軍に対して使用、一四〇〇〇人の兵士を昏倒させ五〇〇〇名の兵士を数分で皆殺しにする大打撃を与えたことで一躍、悪名を世に轟かせた。あまりの高威力のために毒ガスの開発合戦の契機ともなった化学兵器である。

 高濃度の塩素ガスを浴びれば化学反応で全身の組織が破壊され死に至り、たとえ微量であっても肺胞細胞が損傷し、呼吸不全に陥り窒息死する。しかも、塩素ガスは空気より重いため、天井裏に潜む〈指まみれ〉自身は安全に、一方的にこちらを攻撃することができる――。

 廊下の先と、階段。

 やつが投げたのは、まちがいなく濃硫酸の薬品瓶だろう。

 洗剤と反応して、塩素ガスが充満しているはずだ。

 

 ゾッと全身が総毛立つ。まるで詰め将棋のような緻密な狩りだ――怪物の狡猾さ に背すじが凍る。部屋に逃げこんだというよりは、意図的に追いつめられたというべきだろう。

 逃げこんだ部屋は狭かった。窓にはなおも黒い雨が執拗なノックを続け、窓際には消火器のような深い青色の金属製の円筒が置かれている。

 部屋の中央には、ドーム型のカバーがついたベッドのような医療機材があるだけで、身を潜めるような場所は見当たらない。

 天井裏はこの部屋も例外なく崩落し、薬品瓶を投げこむ口は大きく開いている。

逃げる場所や身を潜める場所もなく、廊下には塩素ガスが広がりつつある――窓の外には黒い雨。

 絶体絶命。身動きが、とれない。

「やつは、なんだってこんなまねを? おれたちを襲って、いったいやつになんの得があるんです?」

「きっと――怨んでいるんだわ」

 そうだ――いまならわかる。あの三つ眼の怪物は――鞠木百合を愛していた。たしかにあの原発ピグミーは凶暴で――鞠木百合の指を噛みちぎる凶行にもおよんだ。だけどこの廃病院で、彼らが数すくない家族だったことにまちがいはない。母としてなのか、女としてなのか、その両方か。みじめな怪物にとって、数少ない、孤独を紛らわせる相手。それが人間世界での愛情という言葉で言い表せるかはさだかではないが――たったひとつたしかなことは、鞠木百合を奪ったわたしのことを〈指まみれ〉がたしかに憎んでいる、ということだった。

「どうするんです? 絹木さん! すぐにこの部屋にも追撃がくる。ドアを閉めようが、鍵を閉めようが、天井裏を移動するやつにはまるで関係ない!」

 茂楠の声には答えなかった。カレンはよろめく足取りで、薄暗い部屋の奥へ歩いていく。

 黒い雨が降る、窓のほうへ。

「落ち着いてください、絹木さん! ここは三階です、しかも、外には黒い雨が降っている。窓からは逃げられない!」

「落ち着くのはあなたよ、茂楠さん。この部屋がどういう部屋なのか、気づかない? わたしは病院の見取り図を、抜からず記憶しているのよ――!」

 空を切る音が響く。背なかに眼があるかのように、予測しきっていたかのように、カレンは薬液が詰まる瓶をかわした。

「部屋から出るわよ、茂楠さん!」

 機敏な動作で踵を返し、瓶が割れる音を合図にカレンはドアに向かって走り出した。

 茂楠の手を引き廊下に出るや、彼女は壁を背にして身をかがめる。

 強烈な閃光が廃病院を覆い尽くした。耳をつんざく轟音とともに、コンクリートの建物が大きく揺れる。

 廊下の窓ガラスが、粉々に砕け散りながら吹っ飛んだ。

 蛍光灯が、片っ端から破裂するように割れていく。

 ついで、この世のものとは思えない、怪物の断末魔が廃病院じゅうに響き渡った。

 茂楠はあまりのことに、言葉を失っていた。耳を両手でおさえながら、恐怖の色さえ消し飛んだ茫然たる表情で、部屋の表札を見上げる。

 カレンはそこでようやく安堵の息を吐いた。

「やつの手製の手榴弾を、窓際に並んでいた医療用酸素ボンベに引火誘爆させたのよ。爆風は上に巻き上がるから、天井裏に潜んでいたんじゃ逃げきれようもないでしょうね」

「無茶をする――」茂楠はあきれ顔でつぶやく。

「だって、ほかに方法がないでしょう?」カレンは悪戯っぽく笑い、クールな表情を崩してみせた。「ちょっと荒っぽいけど、窓ガラスも吹っ飛んで塩素ガスの換気もできたわけだし、あとは悠々帰れるはず――」

 しかし、その安堵の声色は、無情にも一瞬でかき消された。

 爆音と断末魔に揺れ、瓦礫が崩落するかまびすしい廃病院に、もうひとつの音が――耳障りな、しかし一度きいたら忘れられないような、おぞましい遠吠えが響いていた。

 濛々と巻き上がる煙にまぎれ、まるで地獄の底から響くような――百万の怨霊が慄くような――猛獣さえも逃げ出すような、そんな咆哮が。

「なんですか? この声は――」

 しだいに近づいてくる声に、茂楠は辺りをみまわし身じろぎする。

「こうするしか仕方なかったとはいえ――にこちらの居所を教えるようなものだったわね」

 カレンは沈んだ声でいう。

「やれやれ、“フォール・アウト”――ほんとう、手のかかる子だわ――」

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