第26話 追手
手術室は四階に位置していた――病棟の最上階である。カレンはつぶさに記憶している病院の見取り図を、3Dで頭に思い浮かべた。
じぶんたちがいるのは中央診察施設棟――地下にX線診療室や画像診断部門、放射線治療部門があり、一階にリハビリテーション部、二階に心電図などの医療設備を揃えた検査部および人工腎臓部、三階に高圧酸素治療室と薬品管理部があり、そして手術室と集中治療室が並ぶこの四階に続く。
エレベータの位置、階段の位置――すべて抜かりなく頭に入っている。
深く息を吸う。落ち着いて、呼吸を整える。冷静になればなるほど、記憶は細部まで研ぎ澄まされていく。
崩落した天井から黒い雨が漏れ、泥のように粘りながらカレンの頬をかすめて落ちた。
「四階はすでに危険ですね。下階へ急ぎましょう」
茂楠がこわばった面持ちでいう。
カレンを背負うかれの脚が、黒い雨に濡れた廊下を踏みしめるたび、ひびの入ったリノリウムが細かな音を立てて割れ崩れる。
まるで廃病院すべてがすこしずつ朽ち果てていくようなちいさな崩落の音を、カレンは茂楠の背に揺られながらきいていた。
「原発ピグミーのほかに――まだなにかいるんですか? その――得体のしれない怪物が」
カレンは頷く。背負われる彼女の手には、強化放射線銃“ヴィルヘルム”が握られている。
あの”フォール・アウト”相手に通じる武器ではないが――現実問題として、これ以外、彼女に頼れる武器はなかった。
「いったい、どんなやつなんです? その――第二の新人類ってのは?」
「真っ黒で――全身、腫瘍か鱗に覆われたような皮膚をしているわ。眼があるんだかないんだか……口だけがいやに大きくて、弧を描くように牙が生えている。足よりも腕のほうが長くて、チンパンジーほどの大きさで、だけどそれよりがっしりしていて、力も強い――」
「なんだ」茂楠は安心したように嗤う。
「その程度の大きさなら、ねじふせてみせますよ。ぼくの体重が、いったい何キロあると思ってるんです?」
たしかに――カレンは”フォール・アウト”の体格や腕力を思い出す。
茂楠は一〇〇キロを優に超す巨漢だ。赤ん坊サイズの原発ピグミーや痩せ細った鞠木医師を襲ったあの恐ろしい”フォール・アウト”相手にも、そう簡単に力負けするようにはみえない。
「むしろ、原発ピグミーより楽な相手かもしれませんよ。すばしっこいのがたくさんいるほうが、ぼくとしては、相手にするにはやっかいです」
胸に安堵が広がっていく。世界の終わりのような廃墟の町で、ひとりじゃないというのが、これほどまでに心強いことだとは。
黒い雨音をききながら、カレンはこの無惨な廃病院に思いを馳せる。
十年前――なぜ、鞠木医師はこの廃病院に留まったのだろう? 理由が――いや、深い信念がないわけがない。
原発ピグミーに拉致されたから――しかしもしそうだとして、原発ピグミーたちが成長して凶暴さを発揮するまえに、逃げることはできたはずだ。
あの醜いできそこないたちへの一抹の同情か。それとも、寂しさからの歪んだ母性愛ゆえか。
おなじ女ではあるけれど、彼女の気持ちはわからない。彼女が死んでしまったいまとなっては、なおさらだ。
だけど、あの理知にあふれたまなざしを思い出すと――死ぬよりつらい目に遭わされたというのに、なぜか、カレンは鞠木医師を憎みきることができなかった。
なにか、理由があったのではないか。
この廃墟に留まる、なにか理由が――。
だれにも理解されないような、ほんとうの理由が。
ふいに、茂楠の足が止まった。冷たい風が眼の前を吹き抜ける。
眼前を見やり、そしてカレンは息を呑んだ。
その異様な光景が、エレベータの残骸であることを理解するのに、すこし時間がかかった。
塗装も剥げた鉄製の扉が半開きになっており、そこにあるべきはずのいわゆるかご室がない。金属製のガイドレールが走るコンクリートの昇降路が剥きだしになっており、遥か下階まで奈落の底のような深い闇が伸びている。底からまるで遠吠えのような音が響くのが、地獄に誘われているようでいかにも不気味だ。なにより、下階へ伸びる無骨な四本のワイヤー・ロープが、まるで絞首台のロープのような残忍さを湛えている。
茂楠は息を荒げ、顔を蒼くしている。
「薄闇でよくみえませんでした。もし、一歩まちがえたら――」
ゾッとして胃の下が寒くなる――四階の高さからコンクリートと金属で覆われたこの冷たい落とし穴にはまって助かることは、絶対にないだろう。
下から舐めるように風が吹き上げる。まるで怨霊が頬を舐めていくように。
「日頃の行い――ってやつですかね」
ヒヒヒ――ふいに不気味に嗤いながら、茂楠はその蒼い顔をカレンに向けた。血の気を失いまるで別人のようになったその相貌に、カレンは息をのむ。
不気味な一瞬だった――茂楠が一瞬、なにかに憑かれたようにみえた。茂楠はゆっくり向きを変え、エレベータに隣り合う階段を慎重に降りはじめる。
一歩降りるごとに、闇が深くなっていく。まるで地獄へ向かっているかのように。
またも、茂楠が足を止めた。
「こんどは、なに?」
茂楠は答えない。
ただ背を向けたまま、じっと立ち尽くしている。
まるで、意識を失ったかのように。
「茂楠さん! いったいなんだっていうのよ?」
「臭い」
ぽつりと茂楠は、そう答えた。
「なにか――妙な臭いがしませんか? 鼻をつくような――これは……」
カレンにはわからない。防護マスクにより嗅覚が鈍っているからだ。臭い? 鼻をつくような臭い――。
「ゴムだ」
茂楠は足もとをみた。カレンもそれに倣い、茂楠の白い長靴を見やる。まるで泥のなかを歩くように、靴が床に粘りつき、足をとられている。
「長靴が――ゴムが溶けている」
カレンはハッと息を呑み、薄闇に包まれた辺りの不穏な雰囲気を感じ取った。
薬液を湛えた褐色の瓶が辺り一面に斃れており――その瓶の口から、なにか液体が流血のように漏れている。
「なにか――やばいわ、茂楠さん」
中央診療施設棟、三階――見取り図を、頭に思い浮かべようとする。
ふいに空を切る音が鳴り、頬の辺りをなにかがかすめた。
放物線を描きながら、床下でそれは砕け散る――ガラス片と中身の黒っぽい粉末が、辺り一帯に散らばった。
薬品瓶――それが飛んできた方向を見上げる。
心臓を掴まれたような気がした。
天井裏の亀裂から、三つの灰色の眼がカレンたちを覗きこんでいた――赤子のようにちいさな躰、血管が浮かび上がる不気味な顔貌、第一関節の指が疣のように全身を覆う奇怪きわまるシルエット。
原発ピグミー――〈指まみれ〉。
生きていたのか――しかしその驚きよりも、本能的に感じとった危険のほうがカレンの胸を貫いた。
「逃げて! 茂楠さん! 走って!」
おなじ危険を感じたのだろう、茂楠は粘る足取りで飛ぶように階段を駆け下りる。
瞬間、強烈な閃光に視界が眩んだ。
続いて大音響が、廃病院を震わせる。
爆風に背を押され、茂楠はその場にうずくまる。ふたりは躰をぶつけ合い、激しい痛みに呻きを漏らした。
爆風によって撒きあがるガラス片や瓦礫が弾丸のように降り注ぎ、防護マスクを切り裂いていく。頬を撫でたカレンの手は、べっとりと血で濡れていた。
「いったい――なにが」
茂楠が声を震わせる。
「話はあとよ」カレンは腹部の傷の痛みを堪え、起き上がる。用済みになったマスクを投げ捨て、闇のなかに消えた原発ピグミーの影を剥き出しの眼で追った。
放射性物質が恐ろしいことに変わりはないが――いま、もっとも必要なのは、安全よりも、皮膚でじかに感じる鋭敏な感覚のほうだった。
「やつと決着をつけなければ、この廃病院から出ることはできない――か」
闇のなか、あざけるような怪物の不気味な笑い声が響いた。
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