第24話 矜恃
音――スピーカーから流れる破壊音と嬌声。
それだけでしか、そのようすは掴めない。
しかし、それはむしろ幸運なことだった。血みどろのノイズ。心臓が割れるようなハウリング。金属をこするようなざわついた空気――豪奢な社長室に響き渡るそれらだけで、嘔吐をはっきり催すほど、それはじゅうぶん酸鼻をきわめていたのだから。
東副社長と阿藤社長、産業医の雁間、それに
放射線にまみれ、だれも近寄ることさえできない廃病院の手術室で、この世のものとは思えない怪物たちが、想像もつかない惨劇を演じている――しかもその大元を辿れば、すべては彼ら大東亜電力が舞台を整えた結果なのだ。
「すばらしい」
酷薄な笑みを浮かべ、阿藤社長は躰を揺らす。
「“フォール・アウト”――あの新種の化け物を、どうにかして捕まえたいものだ。原発ピグミーどもがただの生ゴミに思えてきたよ。メラノーマで全身を覆われた怪物――凄い生物もいたものだ。あの体質を解析して原発労働者に移植できれば――わが社は永遠の栄華を謳歌することができる」
「阿藤社長」東副社長が叫ぶ。「あなたは、この国の片隅にあのような地獄を生み出してなお、なにも感じないでいられるのか――」
痩せた躰から搾りだすその声は
不穏な発言に、賀来隊員がぴくりと反応した。それを制すように、阿藤社長は東副社長を見上げる。
「なんだ? 怖気づいたのかね、東くん――所詮はきみも絹木くんとおなじなのか。退廃思想論者――原発廃絶派の人間なのかね?」
「いったいあなたは、なぜそこまで――」
「それ以上いうな、東くん。原発推進愛国者法を知らぬわけでもあるまい? この場には賀来くんもいる。PLT隊員の前で原発廃絶派であることを表明すれば逮捕だけでは済まないだろう。この場で射殺されても、彼らならばどうにでも死体を闇に葬ることができるのだからね」
東副社長は唇を噛み、肩を慄わせた。
満足げに阿藤社長は嗤う。
「町がいくつも死んだ。畸形が大量に生まれた。人が大勢死んだ。それがいったいなんなのだ! 東くん、見誤るんじゃない。なにが大事でなにが小事かを考えたまえ。原子力は無限のエネルギーとカネを生んでくれる“神の火”だ。原発は神殿であり、われわれは神官。神が求めるならば、生贄とてもささぐ。いままでだっていくらでもささげできた。事故が起こらない平時でさえ、いったい何人の原発労働者が被曝し人知れず命を落としてきたか? われわれ大東亜電力の巨万の富は、そういう死屍累々の上に築かれてきたのだ。事故が起こった程度のことで、気持ちを揺さぶられるんじゃあない。原発事故などわれわれにとっては新たなビジネス・チャンスでしかないのだ。賠償を受け入れたことを理由に電気料金の値上げを押しとおし、戦後最大の経常利益を確保、どさくさにまぎれて賞与は前年の三倍にしてやったわ。これが経営というものだ。これが大東亜電力なのだ。われわれはずっとじぶんたち以外のすべてを犠牲にしてカネを獲てきた――死人の肉を喰らい、弱者の生き血をすすって肥え太ってきたのだ。いまさら善人ぶるんじゃあない、東くん。きみもわたしも、同じ穴のムジナだろう!」
阿藤社長の怒号が響き、社長室が水を打ったように静まり返る。
「きみはその心構えのところで非情に徹しきれなかった――そこが敗因だ。それがわたしときみの差だ。前社長――きみのお父さまは、そこを見抜いておられたのだよ」
東副社長の胸に、暗雲がたちこめる。
「副社長――きみには、なにも期待していない」
前社長は、役職名で、東副社長をそう呼んだ。
「大東亜電力を任せられるのは、阿藤くんのような人間だけだ。副社長、きみはだめだ。所詮、機械いじりが得意なだけでは、王の座は務まらない。阿藤くんなら安心だ――強硬的な統率力と行動的な突破力、権謀術数に長けた百戦錬磨の猛者――わたしが信頼できるのは、彼のような生まれながらの王だけだ」
東副社長はただこうべを垂れ、冷酷な辞令をきき届けた。
幼いころより、東副社長はじぶんが父の期待に沿う人間でないことをよく知っていた。機械いじりが好きな内向的な性格のじぶんを、父が無言のままさげすんでいるのを、痛いほどよく知っていた。
父に喜んでもらおうと、幼い日の東副社長は必死になって勉強した。いい成績をとり、一流大学の工学部に進んだ。それだけが、じぶんのできることだった。だけど父は喜びもしなければ、褒めることさえしてくれなかった。父は、そんなことを期待していなかったのだ。スポーツで成功し、リーダーシップを発揮し、将来、帝王となるにふさわしい素養を身につけてもらいたがっていた。
やがて、若き日の東副社長は、父の関心や期待が息子であるじぶんにはいっさい向けられていないことを自覚する。それがどれほどの苦悶を彼に与えたか――いや、おそらく父は、息子の痛みや嘆きにさえ、いっさい関心がなかっただろう。
賀来隊員がさっき口にした言葉が、頭のなかでリフレインする――モグラは地上では生きられない。芋虫は空を飛ぶことができない。生きるものはすべて、生まれながらに生きるべき場所が決まっている。
じぶんは父の跡を継げるようには生まれつかなかった。父の期待に沿えるようには生きられなかったし、そしてこれからも、そのようには生きられない。
「前社長がきみを後継に選ばなかったのもうなずける」
阿藤社長は冷やかに東副社長の劣等感を刺し貫く。
「きみのお父さまに義理立て、いままできみを会社に在籍させてきた。しかし、きみもじきに定年だ。これを機に退職金を受けとって、さっさと隠居したまえ。くだらん良心に足を絡みとられるような男はわが社に必要ない――」
東副社長は、黒縁眼鏡の位置を整えながら答える。
「人はときとして、非情であるよりも残酷になれるときがあります」
「あん?」阿藤社長は片眉を吊り上げる。「急になにをいいだす?」
「人をなにより残酷にさせるもの――それは非情ではなく、怒りの感情です。阿藤社長には恩義がある。だけどそれ以上にいま、わたしはあなたに怒りを覚えている」
はっ、と阿藤社長は冷笑を浮かべる。
「きみが怒ったところでいったいなにができる? 原発の廃絶でも訴えてみせるのか。利口なきみにそんな勇気はあるまい? 退職金を蹴って、刑務所でくさいメシを喰うような蛮勇はな!」
東副社長は無言のまま眼鏡のブリッジを指でずり上げる――瞬間、社長室の電話が鳴った。
「取りこみ中だ!」受話器に向かって阿藤社長はがなりたてる。「電話しないよういったはずだぞ!」
幽かに秘書の声が響く。
「顧客から苦情の電話が殺到しているだと? 知るか! うまく対処しろ。それで文句をいうなら、電気供給契約を切る、といってやれ!」
受話器の向こうから、秘書の声が大きく響く。
――お願いします、阿藤社長。どうか言葉を選んでください。ネットの動画サイトに生中継されています――!
阿藤社長は眼を瞠った。
受話器を握りしめたまま、愕然と東副社長を見上げる。
東副社長は涼しげな顔で、黒縁眼鏡の位置を整えた。
「わたしはなにも、言ってない――社の方針にさからってもいなければ――原発廃絶についてもひとことも――口にしなかった」
溜息をひとつ、東副社長はそっと言葉をついだ。
「一方的に話していたのは――あなたですよ、阿藤社長」
「その――眼鏡か……」
顔を紅潮させながら、阿藤社長は怒りの声を搾りだす。
「ご明察」東副社長は背すじを伸ばし、眼鏡の位置を整える。「高性能スパイカメラ――直径一ミリのレンズがブリッジの部分に搭載されています。動画の録画はいうにおよばず、動画サイトに無線で接続することも可能――ま、もちろんWebカメラやサウンドカードを備えたノートパソコンのように鮮明な動画というわけにはいきませんが、抗議の電話が殺到する程度のクォリティはあったようですな。阿藤社長――ずいぶん消費者をこけにする暴言を、吐いておられた。なんなら、巻き戻して再生させましょうか?」
「きさま!」
阿藤社長は歯を剥いてソファーから立ち上がる。
「賀来隊員! なにをしている、こいつを逮捕しろ! 死ぬまで豚箱に――」
「むりです」賀来隊員はかぶりを振る。「東副社長のおっしゃったとおり――彼はなにも言っていない。原発推進愛国者法にふれるようなことは、なにも――全世界に向けて動画が配信されているなか、ひとりでくっちゃべっていたのは、あなたですよ、阿藤社長。この状況で、さすがにぼくも動けません」賀来隊員は溜息を吐く。「阿藤社長――あなた、はめられたんです」
阿藤社長は蒼い顔で茫然と立ち尽くす。魂が抜けていくように、その表情には生気がない。
東副社長は眼鏡をはずし――電源をオフにし、そして答えた。
「賭けだったんです――大東亜電力のありのままの真実を広く暴露することで、世間が声を上げてくれるかどうかという。結果――この国も、まだ捨てたものではない。そうは思いませんか、阿藤社長? 圧倒的な権力を恐れることなく、これだけの人間が、若い世代が、理不尽と不正義への怒りの声を上げられるならば! 震災と原発事故の痛みは十年経ってなお癒えないが――きっとこの国は、乗り越えていくでしょう。立ち直るでしょう。若い世代がわれわれの過ちを正し、あるべき方向にこの国の舵をとってくれるでしょう。阿藤社長――われわれ古い世代は、もうあまりに罪をかさねすぎました。おとなしく退場して、若者に道を譲るべきなのですよ、あなたもわたしもね。わたしもこれでようやく――」
東副社長は満足げに背を向け、そしてちいさくひとりごちた――父の呪縛から抜け出せる。
「これから、どうなさるおつもりで?」賀来隊員が問う。
「ベンチャー企業から打診を受けていてね」東副社長は笑みを浮かべる。「今後はそこで再生可能エネルギー開発の技術顧問として力を尽くすつもりだよ。社長だの副社長なんてえらそうな肩書は、やはりわたしの柄ではないようだ。わたしの本分はけっきょく機械いじりしかない。しかし――せめて誇り高い技術者でありたいんだよ」
言葉をのむ若者に、東副社長は続ける。まるで生徒に教え、諭すかのように。
「賀来隊員。この国はきっと変わるだろう。さっきの生中継をみて、多くの国民が一企業による電力供給の不健全な独占に疑問を持ったはずだ。発電方式を消費者が選ぶためにも、世の中の流れが電力供給自由化に向かうのは、まずまちがいない。そのときがくるまで、わたしはすこしばかり地下に潜ることにするつもりだよ」
賀来隊員は、躊躇うように口をつぐんだ。
若い彼には理解できないかもしれない、と東副社長は思った。
だけど年齢をかさねて、じぶん自身の人生に限界を感じるようになったころ、ようやくわかるときがくるのだ。
人間は――特に男は、じぶんのためだけに生きるわけにはいかない、ということを。
「理解できないッ」
叫んだのは阿藤社長だった。
「わたしを、大東亜電力を潰したところで、きさまにはなんの得もないんだぞ。法外な退職金を、みすみすふいにするだけだ。なにもしないでいれば転がりこんでくる、悠々自適な余生を失っただけだ。いったいなにが理由で、こんな莫迦なまねを――」
「ひとり娘が妊娠しましてね」
東副社長はドア前でふり返り、一礼した。
「これから生まれてくる孫に対して、胸を張れる人間でありたいのです――わたしの望みは、ただそれだけですよ、阿藤さん」
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