第23話 脱出

 視界がぼやけながら拓けていく――天井から伸びるひび割れた無影灯が、仰向けのじぶんをじっと覗きこんでいた。

 指が動く――すこしずつ、感覚が戻っていく。床の冷たさと固さに、背骨が悲鳴を上げていた。

 幽かな雨音が、壁を伝って骨に響く。

 生きている――薄闇に包まれた辺りのようすを窺う。

 静寂に覆われた手術室――気配は感じない。息遣いさえもない。危険は過ぎ去ったように思える。

“フォール・アウト”。

 そうだ――あの子は何処に行ったのだろう。

 原発ピグミーの姿もない。ここにいるのは、じぶんひとりだ。ほかにはだれも――いない。

 いや――もしかしたら、すべてが夢だったのだろうか?

 死体がひとつもない。血痕もない。あの胸に迫るような惨劇の痕跡が、奇妙なことにひとつもないのだ。

 床に転がる腕時計型ガイガーカウンターに眼をやる。

 時刻は五時三十六分――帰還不可能区域に入域して、すでに四時間半以上が経過。

 あと二十分ばかりで此処から脱出しなくては――被曝量の限界は間近まで迫っている。

 しかし、それが絶望的であることはあきらかだった。

 腹部に深手を負っている――その上、車もない。

 殴りつけるような雨が、廊下の朽ちかけた窓ガラスを叩いている。この場所での長時間の滞在はいうまでもなく危険だが、かといって黒い雨が降りしきる廃墟の町へ出るのは、ほとんど自殺行為に近い。

 絶望的状況――ここで朽ち果てるしかないのか――?

 身を起こす――そこでカレンは息をのんだ。

 腹部にきつく、包帯が巻かれている。

 粗雑ではあるが、たしかな止血の意図が感じられる。

「お目醒めのようですね」――手術室のドアが開き、大きな人影がみえた。

 侑梧――思わず恋人の名を呼びそうになったが、恋人ほど華奢な影ではなかった。

 大男だった。でっぷりと肥った巨躯の男だった。かれはじぶんの防護マスクに手を掛け、剥ぎとる――カレンは声を上げた。

「茂楠さん――!」

「きょうも仕事開けに、いつものようにビールを飲んだんですがね」

 防護マスクをカレンにかぶせながら、茂楠は照れ臭そうにいった。

「いままででいちばん不味いビールでした……。人生で唯一の愉しみが台なしになっちまうってんじゃあ、いくらカネがあっても、しかたないでしょう。やり残したことがあるかと思ってね――戻ってきたんですよ」

 茂楠はカレンの肩を担いで立たせると、背を向けた。

希望が繋がった――茂楠が戻ってきたのなら、車があるということだ。茂楠の助けがあれば、この廃墟の町から脱出することも不可能ではない。

「さあ、背負います。すぐに脱出しましょう。線量が危険水準です。装備もぼろぼろだし、それにあなたの怪我の手当て――あくまで応急処置です。廃病院だから医療用具に事欠きませんでしたが、早いとこ医者にみせないと」

 茂楠におぶられ、カレンは息をつく。

 温かい背中――大きな背中。肥った人間が好きでないのは変わらないが――いまはその頼もしい感触が、悪いものとも思えなかった。

 しかし同時に、彼女の胸に不吉な予感がよぎる。

 うまくいきすぎている――不自然なほどに。

 廊下の窓ガラスを雨音が叩く。黒いヘドロのような雨が、そのたびにガラスを覆っていく。まるで窓を割ろうとする、血まみれの手形のように。

 ドクン――と心臓が大きく脈を打つ。

 窓の下――瓦礫まみれの廊下に、あの忌まわしい強化放射線発生装置“ヴィルヘルム”が転がっていた。

 躰がこわばり、悪夢が実感をもって胸のなかに蘇る。

 あれを夢やまぼろしであってほしいなどというのは、あまりに都合のいい楽観主義だった。

 さらにおぞましいことには、“ヴィルヘルム”のそばには、血に濡れた人間の指が三本、小枝のように落ちていた。

 喰いちぎられたようなきれいな切断面ではなかった。まるで毟り取られたような、ねじり切られたような、いびつで醜い切断面だった。

 いったいどんな握力があればこんな芸当が可能なのだ――カレンはゴクリと唾をのむ。


 この廃病院には――まだ、あの黒い怪物が潜んでいる。


「茂楠さん――此処に来るまでに、?」

「いえ、だれにも」カレンを背負う茂楠は平然と答える。「鞠木センセイは何処へ行ったんです? あのちっぽけな原発ピグミーどもは?」

「無事に帰れたら――そのとき話すわ」

「無事に――?」

 茂楠が頓狂な声で答える。稲光に照らされた蒼い顔が、カレンのほうを振り返る。不吉なことに、それはまるで死相のようにみえる。

「どうしたんです、絹木さん? なにか、心配ごとでもあるんですか?」

 強い雨音の隙間に、廃墟の町を揺るがすような天鼓が低く轟いた。

 カレンは答えなかった。なにも、答えられなかった。

 雷鳴にまじり、野生の猛獣のような遠吠えが、はっきりときこえていたからだ。

 共鳴するかのように、窓ガラスがぶるぶると慄えている。

「絹木さん、いま、なにかきこえ――」

「茂楠さん、おねがい。なにもきかないで逃げて」カレンは叫んだ。「全速力――最短距離で、ワゴンまで」

 ただごとでない雰囲気を悟ったのだろう――茂楠は顎を引き、すかさず無言でうなずいた。

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