第22話 新種誕生

 手術室の闇に、悲鳴が走る。痛みをこらえるような、苦悶の嘆きが響く。それはまるで夜の猿山のような不気味な喧騒だった。

 原発ピグミーの振るったメスは、たしかにカレンの腹部に突き立てられた。

しかし痛みに悲鳴を上げたのは、どういうわけか、原発ピグミーのほうだった。

 カレンは震えながら眼を瞠る。にわかには、信じがたい光景だった。

。さっきまでメスを握りしめていた、血管まみれの右手が。

〈単眼〉はさっきまで腕があった虚空を撫で、興奮したようすで息を乱す。そして蝦蟇蛙のように、たまらず闇のなかで哭きわめいた。

 いったいなにが起こったのか――カレンにはわからない。

 ただ、躰のなかをなにかが駆け抜けたような痛みにも似た感覚を、一瞬感じただけだった。

 腹部の傷口から出血はあったが――極度の昂奮状態にあるためか、痛みはほとんど感じない。

――?」

 ヒステリックな声で叫んだのは、鞠木医師だった。

「答えなさい! 絹木カレン! !」

 鞠木医師がおぞましげに指を向けるその先――吹っ飛ぶようにもげ落ちた〈単眼〉の右腕のそばに、握りこぶし大の奇妙な肉塊が落ちていた。

 カレンはゴクリと唾をのむ。

 闇に覆われ、はっきりとはみえない――ただ、薄気味の悪さだけは伝わってくる。

 粘液でぬらぬらと不気味に濡れた、暗褐色の肉塊だ。鱗のようなあばた模様で覆われ、ひとめみれば、陸に打ち上げられた、しなびた深海魚のようにもみえる。

 原発ピグミーのメスで抉りだされたじぶんの腫瘍がこれ――なのだろうか?

 いや、感覚としては――摘出されたというよりも、

 しかも、不気味なことにその腫瘍は――まるで心臓のように鼓動に波打ち蠢いていた。

 事態はまったくのみこめない。しかしその暗褐色の肉塊が、生きていることだけはわかった。それが証拠に、粘液の尾を引かせ、黒い芋虫のように床を這いずっている。

 その場にいた全員が、息をのんでいた。

 カレンも――鞠木医師も。そして、十三人の原発ピグミーたちも。

 正体不明の怪物を遠巻きに囲むように、距離が置かれた。

 肌に粘りつくような、重苦しい闇の時間が過ぎていく――その黒い腫瘍のような怪物は、床に蠢いたまま、なにをしようというわけでもなかった。ただ、蠢いているだけだ。無脳症の胎児のように。

 あとずさっていた原発ピグミーたちは、やがて顔を見合わせ、耳障りな奇妙な言葉を交わしはじめた。

 やがて勇気ある一匹――象のような膨れ上がった足を持つ原発ピグミーが、怪物に一歩、近づいた。

〈象足〉は耳障りな声で嗤った。カレンがそれまでみたなかでももっともいやらしい笑みだった。唸るように仲間に、身振り手振りでいいきかせているようにみえる。

 なんてことはない、ただの肉塊だ。おまえたちはなんて臆病なんだ――そう嘲りながら、〈象足〉は黒い怪物に一歩、また一歩、近づいていく。

〈象足〉はその巨大な足で、黒い怪物を踏みつけるように蹴りつけた。

 二度――三度。

 この奇妙な怪物の正体はわからないが――殺してしまえば、なにも問題はない。

 ほかの原発ピグミーたちも、その光景に力を得たのか、つづけざま昂奮の声を上げた。

 しかしつぎの瞬間――手術室の闇を揺らしたのは、悲鳴を超えた絶叫だった。

 鮮血が辺りに飛び散っていた。〈象足〉が犬歯を剥きだしに、苦悶の表情でうずくまる。

 カレンは眼を瞠った――原発ピグミーのあの象のように巨大な足の先端が、消し飛んでいた。

 床に横たわっていた肉塊が、まるでナメコのように蠢く。そして大きく躰を揺らした――くり返し。くり返し。

 カレンは理解し、息をのんだ。

 信じがたいことだが――

 黒い鱗のような腫瘤の隙間に、ふいに大きな口が開いた――円周上に幾重にも渡って歯が並ぶ、真っ赤な口腔が露わになる。

 風が鳴るような唸り声が、部屋の空気を震わせた。

 黒い肉塊が、そのグロテスクな口腔から、哭いているのだ。

 このあばた模様の醜い肉塊は、生きている。そして蠢いているだけではない――意志を、敵意を持っている。

 両眼は黒い腫瘤のなかに埋没しており、視力がほとんどないことがわかる。異様に膨らんだ腫瘤のため、手足の形さえ、さだかではない。ただ、大きく開いた口だけが旺盛な食欲と凶暴さを示していた。

 哄笑を上げたのは、鞠木医師である。

 老女医はその知的な顔立ちをゆがめ、さげすむようにカレンをみやった。

「そういえば、あんたも黒草町の生まれだったそうだね。わたしとおなじように、十年前、この町で被曝している」

 鞠木医師の声には昂奮がまとわりついている。

「妊娠していたとは。――しばしば腫瘍と誤診されるわね。癌と妊娠は初期症状が酷似しているから――まさか、この黒い怪物が、あんたの子供とは。原発ピグミーどころじゃない怪物を、よくもまあその可愛らしいお腹に孕ませていたものだ」

 子……供――?

 カレンの顔からみるみる血の気が引いていく。

 あの黒ずんだ腫瘍のような肉塊が――、

 胎児――?

 靄のかかった意識のなか、茫然とカレンはその怪物を凝視する。

 蠢いている。まるで、慣れない世界に戸惑っているように。

 醜く異形ではあったが――それはすでに生きようというたしかな意志を宿していた。

 人間の大人ならすぐ胸に広がる諦念も、絶望も、その新しい命にとっては、無縁であるようにみえた。

 ただ、原始的な欲求ただひとつ――かれは、生きようとする意志だけで、蠢いているのだ。

 奇妙だが、とても奇妙なことだが――じぶんを裏切った侑梧との子を、人としての原型を留めないほど凄まじい畸形の子を、カレンはなんの抵抗もなく――いとおしい、と思った。

 しかし、その感慨も、長くは続かない。

 鞠木医師は血走った眼でX‐レイ・マグナム“ヴィルヘルム”を構えていた。白いプラスチックと黒い樹脂、銀色に光る金属で構成されたライフルの照準は、すでに黒い忌み子に合わさっている。

 やめて――ほとんど無意識に、反射的に、その言葉がカレンの口をついて出た。

「最大出力」鞠木医師は、応えることもなく無慈悲に嗤う。「人間だろうが怪物だろうが、生身の生き物だというなら“ヴィルヘルム”の敵じゃない」

 トリガーを引いた瞬間、手術室の闇を、青白い稲妻が切り裂いた。

 X線のパルスによって電離した空気が基底状態に戻る際に蒼いスペクトル光を放つ――原子炉や核施設での臨界事故の際にはしばしば散見できる現象だが“ヴィルヘルム”による青い光は火花程度の光量ではない。一瞬、原発ピグミーたちの醜い笑みを残らず闇のなかから引きずり出すほどの強烈な閃光。

 それは一五〇〇〇グレイもの放射線が、黒い肉塊を無惨にも焼き貫いたことを意味する。

 鞠木医師は狂ったように笑いだした。

「喰らった! 喰らったぞ! 絹木カレン――醜いわが子の無惨な最期を眼に焼きつけるといい!」

 カレンは息を呑んだ――黒い怪物が、苦しむように身をよじる。

 黒い怪物は完全に被曝している――致死量以上の放射線を。

 鞠木医師は哄笑を上げる――しかし、その笑みは一瞬で凍りついた。

 黒い怪物が突如、音を立てて膨らんだのである。それはまるでタイヤのゴムチューブに空気を吹きこんだように。

 ひとまわり――ふたまわり。

 よりおぞましく、より禍々しく――その黒い生物は闇にまぎれたまま、しだいに姿を変えていく。

 それは太い手足だった。顔面の中央に巨大な口が。短い尾、全身を覆う鱗のような黒い腫瘤――、

 まるで、大山椒魚のような異形の怪物。

 手術室の闇が、この世のものとは思えない号哭に慄える。

「いったい――なに? なんなのよ、この化け物は?」

 鞠木医師には事態が把握できない――しかし怪物が致死量を超える放射線を浴びてなお、死に向かっていないことだけは明らかだった。

 怪物の動きは、今際の際のそれではない。その唸り声は、断末魔のそれではない。死の町といわれたこの黒草町の真ん中で脈打つ、圧倒的な生きようとする意志――あふれ出るような、生命力。

――彼は」

 神の託宣のように、カレンの口を感嘆がついて出た。

 鞠木医師は怯えたように狂ったように“ヴィルヘルム”を乱射する。

 青い閃光が闇を切り裂くたび、手術室の白い壁に血みどろの地獄絵図が浮かび上がる。

 原発ピグミーたちの甲高い悲鳴が、引きつった叫びが響き渡る。

 黒い怪物が、原発ピグミーたちに襲いかかったのである。水槽に鮫と小魚を入れるようなものだ――逃げ場もなく、なすすべもなく、原発ピグミーたちがつぎつぎと、黒い怪物の餌食になっていく。両棲類は動くものなら同種であろうと容赦なく襲いかかり捕食するというが――この怪物も、まさにそれだ。

 原発ピグミーは柔らかい腹を食い破られ、内臓と凄まじい悪臭をまき散らしながら、つぎからつぎへと死んでいく。

 黒い怪物は放射線の乱射をその身に浴びても、なんら動じることはなく、むしろそのたびに壮健さと獰猛さを増していくようだった。

 喰うたび、血をすするたび、悲鳴が響くたびに、さらに禍々しく大きく成長していく。

「わたしの子が」粘りつくような熱い脳漿と血を浴びながら、鞠木医師が蒼白な顔で叫ぶ。「わたしの大事な子供たちが――」

 その場で落ち着いていたのは、カレンだけだった。耳をつんざくような凄惨な阿鼻叫喚を前にして、彼女だけが不思議なほど、冷静だった。

 わが子のことをいちばんよく理解しているのは、いつだって母親なのである――たとえそれが怪物だとしても。

「鞠木先生――あなたも医者なら知っているはず。あなたが使う“ヴィルヘルム”――もともとは癌に対する放射線療法で使う装置だったのよね? 放射線を照射することで癌細胞を死滅させる治療法――その用量は、じつに七〇グレイにおよぶ。人間が全身に浴びれば即死する致死量をさらに何倍も上回る高線量よ――だけど、その高線量を浴びても、けっして死なない癌がある」

 鞠木医師はハッと息を呑み、いまや原発ピグミーよりひとまわりもふたまわりも大きく成長した黒い怪物を睨みつけた。

――!」

 鞠木医師が忌々しげに声を上げると、カレンは満足げににやりと笑った。


 人間の皮膚は長時間、紫外線を浴びるとコラーゲン繊維が損傷し老化、さらには皮膚癌を発症することがある。それゆえ、人間の生体には生来、太陽光から皮膚を保護するためのバリア機能が備わっている。それがメラノサイトと呼ばれる細胞による、メラニン色素の生成である。

 メラニン色素には紫外線を吸収し、それ以上の深度の浸透を防ぐ性質があり、人間の体表を構成する髪や皮膚の色は、褐色を示すメラニン色素によって形成されているのだ。

 このメラニン生成細胞が癌化したもののうち、良性のものは俗にほくろと呼ばれ、悪性のものは悪性黒色腫メラノーマと呼ばれる。

 その最大の特徴は、メラニン色素が密集し、また多層化しているため、紫外線への耐性同様、放射線にも強靭きわまる耐性を示すこと――、

 すなわちメラノーマは通常の癌治療できわめて有効な治療手段とされる放射線療法をいっさい受けつけない。人間の致死量の数倍の放射線を用いても、効果は絶無とされている。

 余談ではあるが、チェルノブイリ事故原発の原子炉から作業用ロボットが持ち帰った新種の細菌についても触れておかねばなるまい――この新種の細菌は本来あらゆる生物が生きられるはずもない原子炉のなかで採取された。

 すなわち、過酷な放射線環境に耐え、それだけでなくほかの有機物に依存することなく放射線から直接エネルギーを獲て成長する性質を持つ――ということである。

 生命の神秘を感じさせる話だが――その新種の細菌の表面もまた、メラニン色素で覆われる構造をしていたという。


「新しい人類なんだわ」

 カレンは力強く言葉をつぐ。

「全身を黒色腫で覆われた人間――あんたの子供、原発ピグミーとおなじように、この汚染された黒草町を生き抜くために進化した、新種の人類――」

 そして進化上、この黒い怪物と原発ピグミーとでどちらが上位の存在か――それはこの血まみれの光景をみればあきらかだった。

 片や放射線への耐性のために「成長する」という生物の特性を放棄した原発ピグミー。

 片や放射線を吸収して成長できる、黒色腫で全身を形成する新種の怪物。

 パワーにおいても獰猛さにおいても、原発ピグミーなど問題にしない。

「化け物め――」

 鞠木医師が顔を蒼ざめさせながら、X‐レイ・マグナムを乱射する。

 高線量の放射線を吸収するたび、黒い怪物は呻きながら膨張し、その体長は、ついに一メートルを悠に超えた。

 大きな口を血で濡らし、強靭そうな黒い両足で死体を踏みにじりながら、猿がそうするように前屈の姿勢でついに立ち上がる。

 手術室に緊張が走り、すべての音は闇のなかに溶けた。

 怪物の血まみれの牙が並ぶ口からは、異様な息遣いが漏れている。地獄の炎に焼かれたような黒い怪物は、粘液を床に滴らせながら、じりじりと鞠木医師に歩み寄る。

 鞠木医師は悲鳴を上げて後ずさる――しかし、狭い部屋では逃げようもない。

「あんたが作ったその自慢の放射線銃――たしか“ヴィルヘルム”とか、しゃれた愛称をつけて呼んでいたわよね」

 意識が朦朧となるのを必死で堪え、カレンはつぶやく。

「わたしも名づけるわ――わたしが作った、わたしの子に。黒草町に降った黒い雨――“放射性降下物フォール・アウト”、それが名まえ。そう呼んで頂戴、鞠木センセイ。化け物だなんて――心が痛むわ」

 鞠木医師はなおも“ヴィルヘルム”の引き金を引く。

 意に介さぬようすで“フォール・アウト”は、鞠木医師の細腕を掴んだ。

 その太い腕に宿る信じがたい怪力で、鞠木医師の腕を、まるで粘土細工のようにねじ曲げ――“ヴィルヘルム”の銃口を、鞠木医師自身に向けた。 

 青い光が、手術室を突き抜ける。

 カレンは悪夢の続きのような光景に、しばし見入った。

 生身の人間が、ひとたび一五〇〇〇グレイもの凄まじい放射線を一瞬のうちで浴びれば、いったいどうなるのか?

 細胞が壊死し、躰の内側から死んでいくのか? 黒く焼け焦げるように死んでいくのか?

 否――!

 凄まじい放射線量は、大脳と中枢神経系を一瞬で破壊し尽くし、死ぬよりも速く人格を奪う。

 鞠木医師は、白眼を剥いた。まるでパソコンがすべてのデータを失って強制終了するように、彼女もまたそれまでの人生すべてを一瞬で消し飛ばされたのだ。

 そして立ったまま、口、眼、耳――躰じゅうの穴という穴から夥しい血を噴いた。

 その無惨な姿も――さいわいにして長くは続かない。

 つぎの瞬間には、鞠木医師の顔面が木ッ端微塵に吹き飛んだ。

 黒い雨のように降り注ぐ血と脳漿を浴びながら、それでもカレンは眼をそらすことなく、その凄絶な光景を見届けた。

 首のない痩せた老女医に、大型犬ほどにも成長した“フォール・アウト”が大きな口で喰らいつく。

 骨が砕ける音が、闇のなかに不気味に響いた。

 雷鳴とともに鳴り響くこの世ならぬ咆哮がしだいに遠のいていく――途切れゆくカレンの意識は、やがて、やさしい夕靄のなかに包まれていった。

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