第21話 足らざる者たち
かつて黒草病院には、
二十四歳の美しい女性だった。東京の音大を卒業し、音楽教師として働くべく黒草町に帰ってきた。朗らかな笑顔とおっとりした物腰、わけ隔てのない細やかな授業を実践し、だれからも慕われる憧れの的だった。生徒たちいわく「音楽の授業のときにしか会わないのに、二度めの授業の際にはもうクラス全員の名まえを憶えてくれていた」という。
当然にして、若い男性教員からの人気も高かった。だけどあいにくそれらはすべて叶わない恋だった。浪江には高校時代から交際していた同級の恋人がいたからだ。ハンサムとはいえなかったが、地元黒草町で腕のいい漁師として知られていた。ふたりをよく知らない者からみれば、不釣り合いなカップルにみえただろう。だけど、ふたりをよく知る共通の友人からは「理想のカップルだ」と賞賛する声が大多数だった。
ふたりが結婚することになったときも、浪江が妊娠したときも、同僚たちは心から祝福の言葉を贈ったという。たとえじぶんのものにならなくとも、彼女こそこの世でもっとも幸せになるべき女性だと、だれもがそう考えていたからである。
しかし運命は残酷だった。妊娠七カ月め――小高浪江が黒草病院の一室でわが子との出会いを楽しみにしていた矢先――その事故は起こった。
今世紀最悪の悪夢、F1原発事故である。
観測史上最大といわれるマグニチュード九.〇、震度七の大震災と津波による壊滅的な打撃で、病院と外部の連絡が断絶。
まもなく、海岸側上空にF1原発が水素爆発を起こしたとみられる煙が噴き上がると、放射線被曝を恐れた病院スタッフたちが患者を見捨ててわれ先にと逃亡した。
薄暗い病院に患者たちがすすり泣く声が響く。スタッフたちも消沈した。人員も物資も足りない未曾有の混乱のなか、浪江を新たに受け持つことになった医師こそが、
軽症の患者たちは派遣されたバスでなんとか避難できたが、動かすことができず病院内に留まらざるを得ない患者の数も多かった。放射線を恐れてのことだろう、被災地への物資の供給もやがて不規則に滞りはじめた。電気やガスといったインフラに続き、交通アクセスまで断絶すると、黒草病院はまさに陸の孤島と化した。
被災から二週間、ついに患者のなかから死者が出始めたとき――小高浪江の陣痛が始まったのである。
鞠木医師の専門は本来、放射線科医。産科医の領分たる分娩に携わるのは、そのときが初めてのことだった。だけど、弱音を吐けるはずもない。
当時の黒草病院に残った患者やスタッフは、みな世界に見放されたような絶望的な雰囲気に包まれていた。
新しく生まれてくるこの命――それはこの死の町に残された最後の希望なのだ。
難産だった。分娩時間はじつに十三時間に及び――乏しいスタッフたちも浪江も、気力・体力の限界などとうに踏み越えていた。
会陰切開し、吸引――懸命なる努力の末、ようやくの思いで赤ちゃんを取り上げる――そのとき、空気が止まったような感覚が、分娩室を覆った。
スタッフたちの顔からは、みるみる血の気が失せていく。
「顔をみせてください」
力なく微笑みながら、浪江はいう。
「わたしの赤ちゃんの顔――わたしの赤ちゃんの顔!」
スタッフたちは蒼ざめた顔を見合わせる。凍りついたように、みな微動だにしない。
まるで昼から夜になったように、院内の雰囲気が塗り替えられていく。
それに気づかない浪江ではなかった。
「いったい――なにがあったんですか?」
「気の毒だけど――みないほうがいいわ」
そういったのは、赤ん坊を取り上げた鞠木医師だった。
その赤ん坊の異形――あまりにも、あまりにもふつうではない。
その男児には、まるで生まれながらに世をすねたような三つの灰色の眼があった。ふたつの鼻があり、口は裂け、鼻の孔と一体化していた。下顎がまるでブルドッグのように突き出ており、全身にまるで刺青のような青紫の血管が浮き出ていた。なによりも、全身を覆う疣――その正体は、指。全身に、爪の生えた無数の指先が蠢いているのだ。
その赤ん坊こそがのちに〈指まみれ〉と渾名される、さいしょの原発ピグミーだった。
そののちに起こる不吉を告げるようなその禍々しい雰囲気の赤子は、泣きもしなかった。乳をねだりもしなかった。
ただ、おぞましい三つ眼を睨むように蠢かせながら、低い唸りを上げるだけだった。
「待ってくれ」
東副社長が声を挟む。PLT隊員、
「当時、二十八歳、だって?――その、鞠木医師の年齢の話だが」
「ええ。そのとおりです」
「つまり現在、三十八歳?」東副社長の声は
「女性の年齢を詮索する趣味はありませんが」賀来隊員はにやりと嗤う。「まちがいありませんよ」
信じがたいその情報は、おそらくたしかなのだろう。PLTの情報収集力はCIAを凌ぐとさえいわれる。じっさい、賀来隊員は鞠木医師の十年前の写真や詳細な経歴データを入手するまでに至っていた。
十年前、F1事故以前に撮影されたそれらの写真をみると、鞠木医師がもともと非凡な美人であったことがわかる――モデルのように痩身で、顔はちいさく、黒髪は艶やかに伸び、またその憂いを帯びた表情も彼女の魅力に深みを与えていた。
しかし十年の廃病院暮らしは、無惨にも、彼女の美貌と若さを限界まで毟り取っていた。
資料に添付された鞠木の現在の写真に眼を落とす。真っ白な髪に皺だらけの干からびた躰。七十歳をも過ぎたようにみえる彼女の容貌からは、その実年齢をとうてい受け入れることはできない。
放射線の影響もあるかもしれない――しかしなにより、それは原発ピグミーの子の連続出産を強いられたことによるものだろう。
ペットショップで売られる仔犬たちの母犬も、機械のような無理な繁殖をしいられるが、その多くは体力を失い、子宮を擦り切れるように伸ばしきらせ、歯もぼろぼろに抜け落ちるという。十年間――十年間、繁殖を続けさせられた鞠木医師の躰への負担は、想像を絶するといえるだろう。
「〈指まみれ〉の原発ピグミーは――やはり原発事故の影響で――」
「いえ、関係がないとはいえませんが、妊娠七カ月めの被曝でそこまでの異常は起こらんでしょう」賀来隊員が能面のような顔に薄笑みを浮かべる。「彼女の夫の経歴を調査しました――詳しくは申しませんが、問題はむしろそちらにあるようで。いずれにせよ、神の意志のようなものを感じますね――新人類のアダムが、十年前のあの廃病院で生まれたというのは」
「しかし彼女は――鞠木医師はなぜ、〈指まみれ〉と廃病院に残ったのだ?」東副社長は、胸につかえた疑問を吐き出す。「陸の餓島と呼ばれるあの見捨てられた黒草病院にも、二カ月後には捜索と救助の手が伸びている。その際に、鞠木医師も廃病院を避難することだってできたはずだ。〈指まみれ〉とともに、廃墟の町に残る理由がない」
「わたしには、わかるような気がするがね」
口を挟んだのは、ソファーにもたれる阿藤社長だった。
「〈指まみれ〉の母親、小高浪江は出産後すぐに首を吊ったそうだ――あのようなおぞましい畸形児を産んだとあっては、母親の悲しみは想像するにあまりある」
東副社長は、顔をしかめる。
阿藤社長は構わず問いかけた。
「東くん――ときに女の最大の幸せとはなんだと思うね?」
阿藤社長は葉巻に火をつけ、おもむろに紫煙を吐いた。
「富か? 権力か? 名声か?――それらはすべて男の幸福だ。女のではない。女の幸福とは、人より抜きんでることではないのだ。人とおなじであることなのだよ。人並みに進学し、人並みに恋愛し、人並みに就職し、人並みに結婚して、人並みに子供を産み育てる。みんなとおなじであることが、女の最大幸福なのだ。主婦同士の付き合いでは、まわりと横並びであるためにあえて高額なブランドものを身に着けないなどという暗黙のルールがあったりする。男に頼らないキャリアウーマンという生き方はあるが、実質のところ、こういった女性は陰では憐れまれているものだ。流行は女が作るというが、まさにそれは女性の持つ同調圧力の強さ、いい換えれば彼女らの思考力の欠如を端的に表している。周りとおなじような服を着て、ベストセラーになった小説を読み、全米第一位の映画を観、テレビで覚えたチャート一位の音楽に夢中になる――そこに彼女らの個人的な意思はない。ただ周りと同調し、流されているだけだ。女性に見受けられるこの非常に高度に規格化された画一的な幸福観というのは、女性の最大の特徴のひとつであるとともに、同時に最悪の悪徳であるといっていい。
つまり女性というものは規格化された価値観を信奉するあまり、狭量な価値観しか育まず、規格からはずれた者に対し言語を絶する苛烈な差別感情を抱くものなのだ。いや、こういうときみは否定するかもしれん。じぶんの妻や娘は差別感情など持たない聡明な女だ、とね。女というものはいくらでもきれいごとを吐く――話だけをきいていれば、世の中はナイチンゲールとマザー・テレサであふれ返っているかのようだ。女というものはみな、完全無欠の善人なのだ、話をきいているだけのうちはね。ただ、彼女らの持つたったひとつの欠点は、ご立派な物いいにじっさいの行動が伴わない、ということなのだ。
彼女らは“異質な者”“足りない者”を本能的に嫌悪するようにできている。身長、体重、容姿、経済力、血統、健康、知能、ありとあらゆる基準を当てはめ他人を評価し、人間集団内で線を引き、〈足りない者〉を本能的に遠ざけようとする。異質な者を嫌悪するというのは、優れた遺伝子を選別して受精するために進化の過程で発達した女性特有の心理なのだ。女というものは、先天的な差別主義者なのだよ。
では、ぎゃくに考えてみたまえ。周囲とおなじであることが最大の幸福と考える彼女らの、最大の不幸とはなんだろう? 最悪の悪夢とはなんだろう?
それはなににもまして――異形を産んでしまうことだよ、東くん。生まれついての差別主義者である彼女らがもっとも恐れ、嫌悪するところの〈異質な者〉を、じぶん自身が産んでしまうことだ。小高浪江は畸形児を産んだことで自殺した。鞠木医師はおなじ女として、そんな小高浪江に同情したのではないか? だから彼女に代わって〈指まみれ〉の母たろうとした――それがわたしの推論だ」
阿藤社長の壮絶な話に、東副社長はゴクリと唾をのむ。
「わたしの意見は、すこしちがいますね」
そう口を挟んだのは、賀来隊員だ。
「鞠木医師は小高浪江ではなくむしろ〈指まみれ〉に同情したのではないでしょうか? 〈指まみれ〉は社会に溶けこんで生きていくことが困難であり、だからこそ廃墟の町を根城とした。鞠木医師もまた、運命を共にした。というのも、鞠木医師――彼女もまた、畸形の怪物だったからですよ」
「どういうことだ?」
阿藤社長は首をかしげる。
賀来隊員は、得意げに答える。
「鞠木百合の経歴および通院歴を調査しました。F県有数の進学校に通っていましたが、二年のとき不登校に陥って、その後、一年間の空白期間があります。通信制の高校に転校して、高校を卒業したのが十九歳――成績は、優秀だったにも拘わらず」
「原因は?」
「当時の鞠木医師は、登校はおろか外出さえもままならなかったといいます。夜中のコンビニに買い物に出るのが関の山。そのほかは自室にこもって暮らしていたそうです。素手で鏡を叩き割り、手に血まみれの大怪我を負ったことで、皮肉にも彼女はようやく外に出られた。精神病院に入院し、ついた診断名は身体醜形障害――」
「シンタイシュウケイ障害? なんだね、それは?」
「俗に醜形恐怖症――一種の強迫性神経障害のひとつです。じぶんの容貌を過度に醜いと思いこみ、外出や対人関係に障害をきたす精神疾患。日本ではまだ歴史が浅く理解は低い傾向にありますが、たび重なる整形に走ったり引きこもるなど自滅的な行動をとるケースも多く、自殺に至るケースも少なくない。統合失調症に発展するケースもあり、精神疾患のなかでは摂食障害と並び看過できない根深い病といえるでしょう」
「写真をみる限りじゅうぶん美しいようにみえるがね――十年前の話だが」
「客観的に美人にみえようと、彼女自身にとってはじぶんの姿が畸形の怪物のように思えているのです。運よく医師の診断を受け、抗不安剤の投薬により外出できるまでに恢復していますが、医大へ進み医師となっても、通院とカウンセリングは続いていたそうです。原因は継母による幼少期からの虐待――おまえは醜い。おまえは醜女だと、ふたりきりになると暗示のように罵倒をくり返されたそうで。たしかに、暴力ではなかった――だからこそ彼女が精神の傷をえぐられ化膿しきるまで、だれも気づかなかったのです。つまり彼女は一見、五体満足でありながら――いわば心が欠損しているんです。心の畸形、そういい換えてもよろしい」
「それで放射線科医を選んだのか――」
「そのとおりです。放射線科医の業務はレントゲン写真の読影が主で、医師のなかでは患者やスタッフとの対人接触が少ない。疾患の根深さが、窺い知れようというものですな。しかし、仕事自体は優秀で、医長への推薦の声も上がるほどだったといいます」
「順風満帆じゃないか」
「そうはうまくいかないのです。同僚の妬みを買ったのでしょう、精神科への通院歴と薬物依存について匿名で上層部に暴露され、それが原因で、医長への出世の話はなくなっている――」
ふん、と阿藤社長は鼻を鳴らす。世の人間の醜さに、落胆したかのように。
賀来隊員は、舞台役者のように流暢に続ける。
「同僚のうちだれによるリークかわからない。もともと対人恐怖のケがあるなか、彼女はさらに人間不信に陥り、精神的に非常に不安定になったそうです。そんな折、震災が起き、小高浪江に畸形の赤ん坊を託された――。
鞠木医師はやはり、だれよりも赤ん坊に同情したのです。あの〈指まみれ〉の怪物に。この姿では、きっと幸せにはなれないだろう。だれもがおなじであることがもっとも重要とされるこの国で、異質である者の安息の場所はない。それはきっと、死ぬよりずっとつらいことだ。世間につまはじきにされ、ひとりぼっちで、不幸で惨めな人生を歩むだろう――そう、じぶんとおなじように。
モグラが地上で暮らすのは無理なことです。芋虫に飛べといってもできない相談だ。同様、彼ら怪物もまた、人間社会では暮らせない。生物にはすべて、生まれたときに棲むべき世界が決まっているのです。地上六十階のオフィスで悠々と仕事をこなす者もあれば、廃墟の町で闇に隠れ、不幸を堪え忍んで生きねばならない者もいる。そんな生まれながらの悲劇を、彼女らは受け入れた。その結果が、あの廃墟の黒草町に興った凄惨きわまる怪物の王国だった――というわけですよ」
途方もない話だ――東副社長は黒縁眼鏡をずり上げ、息をのむ。
母性だの同情だのと、言葉でいうのは簡単だ。だが、鞠木医師にとっては苦難の日々だったことだろう。はじめは心中のつもりだったかもしれない。だけど、やがて〈指まみれ〉の奇怪な成長にいやでも気づく――躰が大きくならない。だけど二本足で立てる。外形的な畸形以外には、どういうわけか放射線障害の兆候がみられない。その体型のまま、ふつうの子供たちよりはるかに早く性成熟もする。
放射線に耐性を持った新人類――選ばれた子。
やがて鞠木医師は〈指まみれ〉の忌まわしい求めに従った。
産めよ、増えよ、地に満ちよ――理解し合うことさえもできないまま、社会から弾きだされた怪物ふたりがやがて求め合い、受け入れ、愛し、あらたに生まれた原発ピグミーとさらに近親交配によってその数を殖やしていく――まるで終わりのない悪夢だ。
結果、呪われた一族は十数人にまでその所帯を膨れ上がらせたのである。――
豪奢な社長室、ディスプレイの映像は途切れたままだが、あの廃病院の一室でくり広げられる陰惨な地獄絵図の音声だけは、ノイズまじりに響きわたる。
原発ピグミーたちの無数の跫音。
欲望に濡れた嬌声。
暴れまわる音。
耳を覆いたくなる金属音。
細かな状況まではわからないが――とにかく、その凄惨さだけは痛いほど伝わる。
「ふん――あんな余命いくばくもない女を、なおも母体とするとは思わなかった」阿藤社長は不愉快そうに顔をしかめる。「あの鞠木百合という女――長い廃墟生活で完全に頭がいかれているらしい。まともじゃあない――まあ、まともな人間なら廃病院に十年間も立てこもり、畸形の息子とまぐわってあそこまで数を殖やしたりもせんだろうが――なあ? 東くん」
「わたしの理解は――おふたりとは、すこしちがいます」
東副社長は、そこでようやく重い口を開いた。
「どういうことだ?」
「鞠木医師の心情です。彼女は同情ではなく、純粋に〈指まみれ〉をじぶんの息子だと思っている。おそらく心底、愛しているのです。そうでなければ、たとえ心の病だろうと、あのような異形と廃墟の町に残ろうと思うわけがない。
じぶんも娘がいますから――わからなくもありません。親は子供が生まれるまで、だれもが不安で不安で眠れない夜を過ごします。健康でふつうに生まれてくれたとき、そこでようやく安心するんです。安心できるんです。子供が生まれたら親は泣きますが――あれはうれし泣きというよりも、安堵の涙であるような気がいたします。
だけど、もし、ふつうでない子が生まれたら、親はどうするでしょうか。ふつうの人生、ふつうの幸せから、生まれたときから切り離された異形の子供が生まれてきたら。
ふつうでなくても幸せになってもらいたい――そう思うのが親なのでは? ふつうの幸せではなくとも、できうるかぎりの幸せを――そのためなら、親はなんだってするでしょう。新しい幸福、新しい価値観を築き上げていくために、古い道徳さえ捨てるでしょう。じぶんの人生は新しい世代のためにあるのだと――すべてを犠牲にしてでも。だから、彼女は、廃墟の町に留まったのです」
「彼らには、いかなる形の幸福とてないでしょう」
賀来隊員が皮肉な口調で言葉を挟む。
「いま、あの黒草町にいるのは、なにかが足りない欠損者の群ればかりです。異形の群れ、原発ピグミー。心の畸形たる狂人、鞠木医師。そして幸福な思い出も愛された経験も欠落した絹木カレンもまた、欠損者のひとりといえる。彼らはみな、あの廃墟となった故郷で、じぶんに足りないなにかを取り戻そうとしているのです――必死にね。彼らなりの幸福の形を、なんとか模索しようと。だけど憐れなことだ、人並みでない者たちが、人並みの幸福を得る道理などない」
「……心は痛まないのか」
東副社長のその声が、社長室の空気を
「絹木カレンは――かりそめとはいえ、きみの恋人だった女性だろう」
「
賀来隊員は口もとを吊り上げた。
「彼女と一緒に暮らしていたのは、すべて任務のため。
東副社長はその若者を睨みつけた。
「きみもまた心の欠損者だよ――賀来隊員。怪物なんだ、きみもまた。あの黒草町で必死に生きる、彼らのうちのだれよりもね」
賀来隊員の表情から笑みが消え、ふたりはしばらく無言で睨み合った。
「きみは狂人、鞠木をかばいだてするのか」阿藤社長が沈黙を破り、さもおかしげに嗤う。「東くん、それでは副社長の適性を疑うぞ。早めに産業医に診てもらったほうがいい」
そのときだった――ノックの音が響いた。何度も――何度も。
それ自体が、まるで不穏な報せであるように。
「失礼いたします」
必死に駆けてきたのだろう、ドアを開けた初老の男が息を切らせる。
「産業医の
「雁間先生、いいところへ」阿藤社長が冷笑する。「診てもらいたい患者が此処にいましてね」
「大事な報告なのです」雁間医師は語気を強める。「プロジェクトを中止してください――いますぐに」
東副社長と阿藤社長は、怪訝そうに眼を合わせる。
「『トリニティ』の中止?」東副社長が口を開く。「いったい――なぜ?」
「絹木カレンの、再検査の結果が出たのです」
雁間医師の顔は蒼白だった。まるでなにかに憑かれたような表情だった。
「レントゲンに写った影――腫瘍ではなかったんです。絹木カレンは――癌ではない」
にわかに事態はのみこめなかった。社長室の一同はただ、雁間医師のつぎの言葉を待つのみだった。
そのとき――静まり返った社長室に、通信機から、異様な悲鳴がかまびすしく鳴り響いた。
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