第20話 絶望

 ――カレンさんのことは、ぼくがずっとそばにいて、守ってあげるから――


 何度も胸のなかに反芻し、心の支えにしてきた侑梧ゆうごの言葉が、指の隙間から、砂のようにこぼれ堕ちていく。

「会社に――売られた、ってわけ――?」

 手足からみるみる力が抜け、手術台のそばにへたりこむ。

 この世でただひとり信じ、ただひとり頼りにしていた恋人、侑梧が、社命を受けて接触してきた人事観察者アセッサーだったとは。

 バーでの出会いから、いままでの暮らしまで、すべてが仕組まれた幸福だったなんて。

 蔑むように、憐れむように、鞠木医師が立ち上がった。原発ピグミーたちが闇のなかで、耳障りな濁った嗤い声を立てる。

 だれにも頼れない。だれも味方はいない。たったひとりぼっち――一人なのではなく、独り。

 カレンはかぶりを振り、必死に心が折れるのを堪えた。

 上等だ――いままでずっとそうだった。少女時代に母を亡くし、父は刑務所に入れられた。それからたった独りで生きてきたのだ。ほかのどんな女が心を折るような場面でも、わたしだけは絶対に折れない。最後の瞬間まで、生きることをあきらめない。たとえ癌に冒され、余命がわずかだとしても、死ぬときはじぶんで決めたい。だれかに殺されるのも、だれかに生かされるのもまっぴらだ。

 どんなに不幸で惨めな人間にも意地がある。

 いや――

 手術台のベルトは切断したが、睡眠薬の効果は消えていない。朦朧たる意識のなか、必死に足に力を入れる。

 薄闇に包まれた手術室をみまわす――深手を負わせた者を含めて、闇に蠢く原発ピグミーの数は十三。

 さらに放射線発生装置“ヴィルヘルム”で武装した鞠木医師が、幽鬼のような表情で立っている。

 出口となる観音開きのドアは、彼らの奥。ドアの明かり窓から、わずかに青い光が漏れている。そして躰の奥を揺らすような雷の音。ひどい雨音が、不快なBGMのように、闇を覆っている。

 病院の見取り図なら記憶している――手術室ということは、ここは中央診療施設棟の四階だ。

 逃げられるか?――この足で。

「驚いたわね」鞠木医師はあきれたように声を漏らす。「すべての希望を失って、おとなしくなってくれるかと思ったら」

「残念ね。わたしは最後まで足掻くわよ。あんたたちの自由にはならない」

 ふう――と鞠木医師は溜息を吐く。

「お嬢ちゃん、最後の希望を断っておくわ。いい? あなたは絶対にこの廃病院から逃げられない。この病院から出たら――それこそ、あなたは死ぬことになる」

「ご親切にどうも――でも、それはじぶんで試してみるわ」

「車がないのよ」鞠木医師は語気を強めた。「あんたが乗ってきた車――あの白いワゴン。放射線防護能力を備えたあの移動シェルター。あれはもう、外に停まってはいない。どういうことかわかる? 仮にあなたがわたしたちから逃げられたとして、病院の敷地外に出られたとして、あなたは放射線防護服もない状態で、車できた長い道のりを歩いて帰ることになる。この黒い雨が降る、死の町をね。帰還不可能区域を徒歩で脱出するまでに、いったいどれだけの放射線に被曝すると思う? それこそ、自殺行為だわ」

「車がない?」カレンが反駁する。「どういうこと? どうせあなたが何処かに隠したってだけでしょう? みつけだして、みせるわよ」

 鞠木医師はふんと鼻で嗤い、灰色の放射線防護服のポケットから無線機らしきものを取りだした。

 スイッチを押し、何者かと通信をしたかと思うと、無線機をカレンに差し出す。

 カレンは無言でそのデジタル簡易無線機を見つめていたが――やがて意を決し手に取った。

 そっと耳に当てると、無線の向こう側で、ノイズまじりに音がきこえていた。

 エンジンの音――地面をタイヤが跳ねる音。

 やがて、くぐもった男の声がきこえた。


 ――お疲れさまです、絹木さん。すみません、最後にせめて謝っておきたくてぇ……。でも絹木さん、おっしゃった。先に帰ってくれても怨まない……ってたしかにいいましたよねええええ……


「その声」

 ドクン――心臓が、大きく脈打った。声が自然と荒くなるのを抑えられない。

 PTTスイッチを乱暴に押し、送信モードに切り替える。

「茂楠さん――生きていたの?」

 ジイジイと蟲が鳴くような機械音とともに、無線機は受信モードに切り替わる。


 ――嬉しいですねえ、名乗らなくってもわかるなんて。おれたち、通じ合ってますねえ、運命の赤い糸ってやつかもしれませんねえええ……生きてますよ、おかげさまで。しかも最高にいい気分でね……

 疑問にお思いでしょう、絹木さん……いっしょに仕事したよしみです、説明だけはしておきますよ……

 おれ、以前、黒草町で農家やってましてね……十年前のあの事故で、土地も仕事も失ったんですわぁ……。親父なんかは最後まで避難をしぶりましたよ。農家はね、土地がなきゃあなにもできないんだから。でもね、若い役人がいうんです――この汚染され尽くした土地で農作物をつくっても、そりゃ食べ物じゃない、核廃棄物だ、ってね。親父ももうトシでね、土地を失ったら働けない。おれぁ仕方なく、原発労働者になって、事故収束の手伝いの仕事に就いたんです……。

 原発労働者の年間被曝限界量――ってご存じですかァ……? 平時は一〇〇ミリシーベルトですが、いまじゃ緊急事態だってことで、一〇〇〇ミリシーベルトにまで引き上げられてますよねぇ。莫迦にしていやがる、エライさんの都合で十倍にまであっさり引き上げやがってよお。現場は死んでもかまわねえってことですかァ……。

 でもねえ、おれ、積算でその一〇〇〇ミリにさえもうすぐ達しちまうんですよォ……。そうなったら、強制的にお払い箱です。現場から離されちまう。あしたっからまた仕事もねえって状況です。おまんまの食い上げだぁ……莫迦にしやがって、莫迦にしやがってよお、てめえら……。被曝で死ぬか、飢え死にするか選べってかよ! ああ? 大東亜電力さんよ!

 ――でもねえ……、おれぁラッキーでした。第三の選択肢を与えてもらったんです。阿藤社長に札束掴まされましてね、一も二もなく引き受けましたよ……。表向きには絹木さんの助手ってことになってましたけど、おれのほんとの任務ねえ……絹木さんを鞠木センセイのもとに責任もって送り届ける……ってことだったんですよ……。ひとりで病院に潜入するとかあんたがいいだしたときは、さすがに肝が冷えました。あんたを最後まで見張れませんからねえ。いやあ、騙した形になってしまって、申し訳ない……。でもねえ、しかたないじゃないですか……。

 被曝で死ぬか……飢え死にするか。

 選ぶかよ! そんな糞みたいな二択……莫迦にするんじゃねえ。

 おれは三つめの選択肢を選んだ。選んでやったよ、あんたを騙して化け物どもに引き渡して大金を掴むって選択肢を……。

 かまわないでしょう? おれだってそろそろ、他人を利用する側にまわったって。すこしぐらい、いい目をみたって。だって、いままでさんざんカネも土地も健康も未来も、あんたたちに搾取されてきたんだからよ……!

 ――絹木さん。あんた、きれいごとばかりおっしゃった。事故は大東亜電力の責任だからじぶんが行く、これ以上下請けを巻きこめない、とかなんとか。莫迦にしてもらっちゃ困りますよ、いまさら。こちとらもう限界まで被曝してるんだ。十年後のじぶんが心配でヨォ、夜もおちおち眠れねえ……。ひとりで苦しみぬいて死ぬのかよ……。あんたもけっきょく、おれたちのことを見下してんだろ、心のなかでは……。安全圏からよォ、原発は安全だ安全だって連呼して、危険な仕事は貧乏人に押しつけて、事故のリスクは地方に押しつけて、じぶんは好き放題に電気を使って、うまいモン喰って、のんべんだらりといい気になって生きてきたわけでしょう? あああああああああ?

 ……いいか。おれはあんたを地獄に突き落としたけどよォ、心なんか痛まないね……。むしろ、胸のすく思い、ってやつだ……。

やりとげた。やりとげましたよォ、責任もって、きょうの仕事も……気分いいぜ! 最高だ! きょうのビールも、きっとうめえだろうなああああああ!


 PTTスイッチを押しながら、カレンはたったひとこと、そう答えた。

 ――は? なにいってんですゥ……?

「生きててよかった――茂楠さん」

 カレンの白い頬を、涙が伝う。それは止まることなく――つぎからつぎへと溢れ出る。

「わたしのせいで、死なせてしまったのかと思ってた――」

 カレンは手の甲で涙をぬぐい、無線機に向かって訴えた。

「でも――ひとつお願いがあるの、茂楠さん。生還した人間には、生還した人間の義務がある。あなたはこの黒草町の真実をみた。それをみんなに伝える義務がある。記事にするか――演説をするか。なにかの方法で、みんなに伝えなくちゃいけない」

 ――……あんた、いったいなにいってんだ? 無線機の向こう側で、茂楠は鼻で嗤う。――おれはただの日雇い労働者で……

「できるわ」

 ――あのな、原発推進愛国者法――あんたも車のなかでいってただろ。反原発の発言をすこしでもすると、いまの世の中じゃカンタンに処罰の対象に……。

」カレンは語気鋭くいった。「彼らが愛しているのは、じぶんだけよ。じぶんの既得権益だけ。原発を続けていれば無限に莫大な金を得ることができる――彼らはその立場を愛しているだけなの。愛国ってのは、そんなことじゃない。

 茂楠さん――わたしは故郷の町が好きだった。失ってはじめて、そのことに気づいたの。風景の美しさが好きだった。陽に焼けた顔で笑う農家の人たちが好きだった。近所の人がお裾分けに持ってきてくれた桃――甘くて、おいしかった。日本の農作物の安全性は世界一だって自慢を、笑いながらきくのが好きだった。それは世界一努力して、世界一細やかに、世界一誇りを持って仕事に励んでいるってことなんですもの。そんな町に、そんな国に住めることだけで、わたしも誇らしい気持ちになれたの。

 あのころは子供だから、ただその話を、うれしく思いながらきいているだけだった。でも、いまはちがう。大人になって、じぶんの役目に気づいたの。この先、生まれてくる新しい世代にも、この国の美しい風景をみてもらいたい。親の世代、もっと前の世代が大事に守ろうとしてきたものを、わたしも大事に守りたい。

 茂楠さん、元農家のあなたならわかってくれると信じるわ。。あなたがお金を手に入れたことも、わたしを出し抜いたことも、ワゴンを持ち去ったことも、わたしは怒らない。怨まない。ただ。生き残ったことの意味を、これからじぶんがやるべきことを、もういちど考えてほしいのよ――!」


 不愉快そうな沈黙が流れ――無線機の向こうからチッと舌打ちの音がきこえた。

それを最後に、無情にも通信は途絶える。

「ご高説ね、お嬢ちゃん」薄闇のなか、鞠木医師が皮肉な口調でいう。「でも、あの男には通じなかったようね――無駄なことだわ」

「ちがう」

 カレンは涙声で答える。

「無駄なんかじゃない。それだけははっきりといえるわ。絶対に無駄なんかじゃない。たとえわかってもらえなくても、伝えることが大切なのよ、鞠木先生。いまは理解してもらえないかもしれない。でもわたしは伝えた。たしかに伝えた。何年後か――何十年後か。いつか理解してもらえるかもしれない。わたしのいった言葉を、思い出してくれるかもしれない。いつか、心を動かしてくれるかもしれない。その可能性が大事なのよ、鞠木先生。わたしは種を撒いたの――この草木も生えない黒草町に、いま、可能性という種を撒いたのよ。それはけっして、無駄じゃないッ!」

 鞠木医師は、不愉快そうにカレンを睨みつける。

「痩せがまんでも、よく吠えたもんだ――」

 闇のなか、原発ピグミーたちが距離を詰めてくる。色欲に飢えた、野良犬のような視線で。

 全身が怖気立つ――この人数は、もう防げない。

「お嬢ちゃんの高尚な物いいが悲鳴に変わるまで、いったいどれだけ持つかしらねえ――何日? 何時間?」

「わたしは末期癌よ」カレンは気丈にそういい放つ。「余命はすでに永くない。あなたもまた、阿藤社長に騙されたのよ。彼は母体を提供するという取引を果たしつつ、原発ピグミーをこれ以上、繁殖させない気なんだわ。いい気味、わたしが苦しむ時間も、あんたが思っているほどには永くなりそうにはないわ」

 手術室に、一瞬の沈黙が訪れる。

「で?」

 鞠木医師は、平然と答えた。予想外の返答に、カレンは言葉を失う。

「計算ちがいをしているのは、あなたと阿藤社長のほうよ」鞠木医師は皺だらけの顔をゆがませて薄く微笑む。「説明しなかったかしら? 原発ピグミーはX線を視覚で感知できる、って――だから、闇のなかでもあなたのことがよく視えている。あなたの躰の異常についても、すでに彼らは透視しているようよ――」

 闇のなかに潜む原発ピグミーたちの手に、ぎらりと光る鋭利な刃物が握られている。

 原発ピグミーたちが、彼女を見上げながら、距離を詰めた。

 一歩――また一歩。カレンは這うように後ずさるが、冷たいコンクリートの壁がそれを阻んだ。

「手先は器用なのよ、この子たち」鞠木医師は顔つきを緩める。「だいじょうぶ、この子たちが手術してくれるわ。開腹手術をしながら、血まみれになって犯してくれるわよ。転移したってだいじょうぶ。それもまた手術してくれるわ。切り刻まれながら、死ぬまで犯され続けなさい。くり返しくり返し犯され続けなさい。そして、ひとりでも多くじょうぶな子供を産むの――死ぬまでね。あなたならできるわ。あなたの度胸。あなたの気位。申し分がないわよ、わたし、あなたのこと、とっても気に入ってるんですからね――」

 カレンの細い脚を、好色そうな手つきで、原発ピグミーたちが撫でた。飛び跳ねるようにわれ先にと、汗に濡れたカレンの滑らかな肌に、蜥蜴のように濡れた原発ピグミーたちの手が群がる。

 上等の餌を与えられた犬のような息遣いが、耳もとに迫った。溝鼠のようにおそろしく不潔で、すさまじい悪臭を放つ怪物どもが、みるみるカレンの肢体に群がる。

 まるで情欲に紅潮する、蛙のよう。肌に這う指の動きは、色欲に憑かれた蛞蝓のよう。

 闇に浮かび上がるひとつ眼、象足、骸骨のような痩せた小頭児――百鬼夜行そのものが、彼女の躰にしがみついていた。彼らの全身に浮き上がる蒼黒い血管が、いまこのときになって淫らきわまりなく思えた。

 戦慄。恐怖。鬼胎――そんな言葉では、追いつかない。

 カレンはついに意地さえも折られ、悲鳴を口からほとばしらせた。

 闇のなか――彼女の柔肌に、メスが突き立てられる。まるでビニールでも破くような音が響いた。生温かい鮮血が、手術室の闇に散る。

 美しく艶めかしい躰を持つひとりの女に、十三人の醜い怪物が刃物と充血した陰茎を突き立てる――悪夢のような見世物小屋が、始まった。

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