第19話 最悪の現実

「いったいどういうことですか、阿藤社長!」

 黒縁眼鏡の位置を整え、東副社長は声を荒げる。

「通信をおききになったでしょう? 『交渉は決裂』――絹木くんからの救助要請の合言葉です。特殊部隊PLTプルートを、向かわせる手筈でしょう?」

「必要ない」阿藤社長はかぶりを振った。「すでに『交渉は成立』している」

 阿藤社長は東副社長の顔を見上げた。

「まだわからないかね? 捨て駒なのだよ――彼女は。鞠木医師に、くれてやったのだ。子を産む機械の受け渡し――これが今回のプロジェクト、暗号名コード・ネーム『トリニティ』の全容なのだよ、東くん」

 東副社長は言葉をのんだ。どういうことか、まったく掴めない。

 阿藤社長は葉巻のアロマとともに苦々しげな言葉を吐き出した。

「きみには話していなかったがね、あの廃病院にわが社のスタッフを潜入させたのは、絹木カレンが初めてのことではないのだ。いまからちょうど一年前――PLTの精鋭を送りこみ、あの廃病院で生存者の捜索に当たらせた。しかし、建物のなかに突入した隊員たちは、一瞬で全滅してしまっている」

「PLTの精鋭が――一瞬で、ですか? いったいなにが――」

「あの女医――そう、鞠木まりき百合ゆりだったか。なかなか抜け目のない女でね、廃病院の建物周辺に高線量の放射線を発生させる装置を罠として張り巡らせていたのだ。みえもせず、触れもしない鉄条網さ。突入したPLT隊員は致死量の放射線に被曝し、ほとんどが一瞬で即死している。当然、原発ピグミーどもは放射線耐性があるから無傷。鞠木医師もシェルターとして機能しているX線診療室にいれば安全というわけだ。侵入者だけを残らず抹殺できる、凶悪な罠――十三名の隊員のうち、じつに十二名が急性放射線障害で死亡した。その遺体は放射線を帯びすぎて、回収することもできなかった。絹木くんが廃病院の食糧貯蔵室でみた死体は彼らのものだ――」

「そんな話は――まったく――」

「F1原発事故に関して、死人はひとりも出ていない。これからもひとりも出ない、。公表なんて、できるものか――」

 阿藤社長は忌々しげに吐き捨てる。

「たったひとり生き残った隊員の前に、鞠木医師はその姿を現した。まさに地獄で魔女に遭ったようだったと、その隊員は回想しているよ。そしてまさに、悪魔も慄くような取引を持ちかけられた――」

「取引ですって――」

「あの女医は、原発ピグミーを一匹実験用に引き渡してもいい、といってきた。その代わりとして、連中が要求してきたものが――」

 ひと呼吸を置く阿藤社長から、東副社長が話を引き取る。

「あらたな母体の――提供」

「そのとおり」東副社長に向き直り、阿藤社長は片眉を吊り上げた。「やつらはあろうことか、見捨てられたあの汚染された廃墟の町で、繁殖して王国を築くつもりだったのだ。ふつうの人間なら、だれも近寄ろうともしないあの黒草町に。今後数十年、やつらは安全に数を殖やせる。原発ピグミーにとっては、パラダイスだ」

「その取引を、お受けになったのですね……」

「そう、受けざるを得なかった。忌々しい話だが、鞠木医師は放射線を利用した武器を持っている。そして彼女と協力関係にある原発ピグミーどもは、放射線を無効化できるのだ。つまりやつらは、一方的にわれわれを放射線の恐怖に曝すことができる。それに原発ピグミーどもはあの体格だ、日本じゅうで稼働する原発に潜入することも容易だろう。その気になれば日本じゅうを死の大地にして、丸ごと手に入れることも、彼らにとってはけっして難しいことではない。いや、遠からず連中はそうやって領土を広げるつもりでいるだろう。われわれにとって、これ以上恐ろしいテロリストはない……」

「それで、絹木社員をお選びになった理由がわかりました。彼女の身の上ならばこの任務を忠実に受けることはわかっていた。そして彼女はわが社では退廃主義者と呼ばれる反原発思想の持ち主だった。取引にも応じ、未来の敵を早めに処分できる。大東亜電力にとっては、一石二鳥の人選だ……」

「彼女が癌を患っており、余命が少ないことも一因だ」阿藤社長は嗤った。「交渉はのんだが、原発ピグミーを繁殖させてみすみす大東亜電力の仇敵を強大にすることはできない。絹木カレンを母体として引き渡して取引は成立させた。だが、どうせまもなく彼女は死ぬ。それでもうやつらは数を殖やすことはできない。如何に放射線耐性を備えた新人類だろうとも、雌がおらんのでは、絶滅する以外の道はないではないか……。東くん、わたしは合理化と効率化を念頭に、常に一石三鳥の方策を考えてきた。だからいま、この椅子に座れているのだよ――きみではなく、このわたしが」

 東副社長は言葉をのんだ。そう――東副社長と阿藤社長は、かつて社長の座を争った。競り合いに敗北した東副社長の人生は、ひどく惨めなものだった。副社長という飾りの肩書が与えられただけで、経営に深く関わることもできず、閑職に追いやられてきたのだ。

 黒縁眼鏡の位置を直し、東副社長は吐き捨てる。

「しかし、それではあまりに絹木社員が憐れです。なんて、惨い……ことを……」

「いいや、慈悲深いさ。彼女はあの黒草町で死んだほうが幸せなのだから」

 阿藤社長はくっくと低く嗤った。

「帰ってくれば、を思い知ることになるからね」

「最悪の――現実?」

 阿藤社長はドア前に立つ警備員を指さす。

 目深にかぶった警帽を脱ぎ、警備員はその端正な顔立ちを覗かせた。

「東くん、紹介しよう――彼こそが一年前、黒草町からただひとり生還したPLT隊員にして今回の作戦『トリニティ』の立案者――賀来かく侑梧ゆうごくんだ」

 東副社長は、茫然とその場に立ち尽くす。

 青い制服を着た優男、賀来侑梧は能面のような顔を薄く歪め、不敵に会釈をしてみせた。

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