第18話 駆け引き

「逃げることを、お勧めするわ」

 カレンは身を起こしながら、必死の余裕をこめていった。紅茶に盛られたトリアゾラムの作用のためか、躰の感覚は覚束ない。意識も若干、濁っている。原発ピグミーひとりに深手を負わせたとはいえ、相手はまだ十数人いるのだ。まともに戦って、勝ち目はない。それどころか、立ち上がれるかどうかさえ、あやしいだろう。

 いまの彼女にできるのは、心理戦だけ。

 ブラフで時間を稼ぐこと。相手に、けっして手をださせないこと。

PLTプルートのことは、鞠木センセイもきいたことはあるでしょう? 機動隊から編成された、いまや大東亜電力お抱えの私兵。さっきの合言葉で、すぐにも彼らはわたしを救助するために廃病院に突入してくる手筈よ。当然、銃火器で武装した――自衛隊以上の精鋭部隊。あんたたちなんか、ひとたまりもなくやられてしまうわ」

 埃っぽい手術室の闇を、ただ沈黙が包む。烈しい雨音だけが、さらに重苦しく強まっていく。

 鞠木医師は、〈鉤鼻〉を抱きながらその場に膝をついていた。無表情のまま、うつろな三白眼で、カレンを見上げている。

 怒りの表情も、悲しみの表情も、そこにはなかった。それがぎゃくに不気味だった。感情がきわまったとき、人はしばしば、表情を失うものだから。

 原発ピグミーたちは、それぞれ闇に潜んだまま、灰色の眼を爛々とこちらに向けている。

 カレンの全身が総毛立つ――ヒタリ、ヒタリと跫音が鳴っていた。

 矮人たちは、こちらに少しずつ、歩み寄っている。距離を縮めているのだ。いまなお、劣情に憑かれたように。


 ――……


 まただ。あの警告の幻聴がきこえる。

 形勢はこちらのほうが有利なはずだ。だというのになぜ、じぶんのほうが追い詰められたような格好になっているのだ?

「鞠木センセイ? 早く、息子たちにいいなさいよ、引き下がるように。わたしに手をださないように。わかってる? 特殊部隊がすでに廃病院に突入――」

 鞠木医師が冷やかにさえぎった。そして彼女は、にやりと嗤う。

 意図を掴めないまま、カレンは言葉をのみこんだ。

 鞠木医師は薄い唇を歪め、悠然と続ける。

「お嬢ちゃん、さっきまでの洞察はみごとだった。時間を稼ぎ、隠し持っていたメスで拘束から脱出、通信機を奪い返した機転もすばらしかった。冷静にして的確。いままでどんな修羅場をくぐってきたか知らないけど――この場面で、お利口なだけじゃなく、よほど度胸も座ってなきゃできない芸当。まったく大東亜電力め、とんでもないはねっかえりをよこしてくれたもんだ」

 ふっふっふ――痩せた躰を揺らし、鞠木医師は嗤う。

「でも、詰めが甘いっていう忠告を――こんどはわたしがする番ね、

「……どういう意味?」

「可哀想。あなた、とても可哀想だわ、お嬢ちゃん――まんまとはめられたのね。グルだというなら、それはわたしと原発ピグミーたちだけじゃないのよ――あんたのとこの阿藤社長も、わたしたちの共謀者なの。ほんと可哀想――

 カレンは眉間に皺を寄せた――鞠木医師の言葉が嘘でもはったりでもないことは、彼女の落ち着きがなにより雄弁に物語っていた。

――――?」

 いまだ理解できないカレンは、ただ茫然と、鞠木医師の言葉をくり返した。

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