第17話 覚醒

「眼を醒ます――いつだって、それがすべての悲劇のはじまりなんだ、お嬢ちゃん」

 薄闇のなか、鞠木医師は、舞台で唄うようにいう。

「どうして人間はいつも目を醒ましてしまうんだろうね? 醒まそうとしてしまうんだろうね? え? ずっと眠っていればいいじゃないか。夢だけをみていればいいじゃないか。目を醒ましていいことなんてなにひとつありはしないのに、どうして人間はみんな瞼を開けてしまうんだろうねええ?」

 無機質な手術室跡地に、鞠木医師の声が反響する。巨大な無影灯は、不気味さを演出する照明のようだ。頑丈なベルトに胸部と腹部を圧迫されるように拘束されたカレンには、ただ、ひとりの無力な観客のように、鞠木医師を睨むことしかできない。

「どういうことか、知りたいって顔してるね? お嬢ちゃん」

 鞠木医師は冷やかにカレンを見下ろす。十三人の原発ピグミーたちの歪んだ異様な笑い顔が、闇のなかにいくつも蒼白く浮かび上がった。

 カレンは眼を瞠る――例のダボダボのTシャツの裾を引きずる痩せこけた原発ピグミーの手もと――あろうことか、その原発ピグミーは、カレンの腕時計型ガイガーカウンターを弄んでいる。逃走劇の際に、奪われたもの――カレンは原発ピグミーの灰色の眼をきっと睨みつけた。

 鞠木医師は得意げに顎を上げる。

「さてお嬢ちゃん――この子たち原発ピグミーは、さっきわたしにX‐レイ・マグナム“ヴィルヘルム”で撃たれたはず――なぜこうしていまここに平然としていられるのか? あんたはそう不思議に思っている」

 カレンは答えない。必死に気丈を装って、息を整えようとする。

 鞠木医師は勝ち誇ったように微笑んだ。

「教えてあげよう、お嬢ちゃん。さっきあんたはこの子たちの特性、幼体成熟ネオテニーが放射線耐性の正体だと看破した。だけどそれで八五点――残りの一五点が解けてない。彼らの体質の秘密にはまだ奥がある。食糧貯蔵庫に捨て置かれた死体――憐れな犠牲者。奇妙な腐りかたをしていただろう? そこで気づくべきだった。そう、ここいら一帯には、もはや鳥も飛ばないし犬もうろつかない。草木さえも生えないが――死体が腐るということは、死体を分解する細菌だけは生きているということさ。そう、――それがヒントだった。

 ディノコッカス・ラディオデュランス――という細菌をご存じ? 通常の生物は放射線を浴びてDNAを数百に寸断されると絶命する。だけどラテン語で『放射線に耐える奇妙な果実』という名のこの細菌は、DNAを寸断されても二十四時間以内に修復し、結果として一五〇〇〇グレイの放射線にも耐えられるという。どうもねえ――この子たちもその細菌と類似のメカニズムを持っているらしい。PprAなどのDNA修復タンパクやRecAなどの組み換え修復タンパクなどはもちろん、名まえさえついていない新種のDNA修復促進タンパクを多種類、体内に有していることまではあきらかなんだが、ま、このへんはまだまだ研究途中さ。複雑にいろんな要素が絡み合っていて、この廃病院の設備では完全には解明しきれていない。だけどたしかなのは、この子たちは出力を抑えさえすれば“ヴィルヘルム”で撃たれたところで意識を失うぐらいで死にはしないってこと――スタンガンを喰らった程度にしか、効果はないのさ」

「やっぱり――あんたたち、グルだったのね」

 冷やかな口調で、カレンは吐き捨てた。あくまで冷静だったが、静かな怒りがこもる声で。

「やっぱり?」鞠木医師は鼻で嗤う。「どんな負け惜しみよ、それは?」

「いいえ――わかっていたの。いまはもう死んだわたしの父さん、心を病んでいてね――精神病院への通院歴があるのよ。だから、わたし、知っているの。みたことがあるわ、X線診療室にあったあの銀色のパッケージの医薬品――あれはトリアゾラムの錠剤よね? 即効性の睡眠薬。素人だと思って甘くみすぎじゃない? あんなものを堂々とみえる位置に置いておくなんて迂闊ね、詰めが甘いのよ。あれじゃあ、あなたの差し出した紅茶を警戒しないほうがおかしいわ。傲慢な性格が命とり――のみ干さなくて正解だった。いい? 鞠木先生、いっておくわよ――わたしはあなたを最初から信用してなどいなかった」

 鞠木医師の顔から、さっと笑みが消えた。小娘は拘束されている。その周囲には原発ピグミーの群れ。そして自分は“ヴィルヘルム”で武装までしている。優位に立っているのは、じぶんのはずだ――だというのに、この生意気な小娘の物いいは、いったいどういう意図があってのことなのか。

 闇のなか、老婆の蒼白い肌が幽霊のように浮かび上がる。三白眼が冷やかな視線でカレンをみやった。

「ふうん――お嬢ちゃん、よくいうわねえ。そのわりにこのザマってのは、どういうこと? あなた、じぶんの立場を理解できていないようね?」

「ワザとよ、鞠木センセイ」

 身動きひとつできないカレンの口調は、それでもなお挑戦的だった。

「あなたに同情したのよ――おなじ女として」

「ふざけるな!」

 鞠木医師が激昂する。小娘ごときに憐れまれるという最大の屈辱に、プライドの高い女医の表情は、痙攣するようにこわばっていく。

 構うことなく、カレンは果敢に言葉をついだ。

「鞠木センセイ、いまのあなたの反応で確信したわ。この場にいる十三人の原発ピグミーたち――最初から不審なところがあった。いい? 放射線は生きている人間に健康被害をもたらすだけでなく、もっとも恐ろしいことに、精子や卵子、胎児のDNAを破壊することによって新しく生まれてくる世代にも容赦なく牙を剥く。じっさい、チェルノブイリ原発事故の後には、動植物にも人間にも放射線の影響と考えられる大量の畸形が発生した。ここにいる原発ピグミーたちも、放射線による先天的な遺伝子の変異によって、こんな怪物じみた姿になった――そうよね? それと引き換えに〈彼ら〉は放射線耐性を持ち、この地獄のような環境の黒草町に唯一適応して君臨する新人類となれた。だけど、これだけの人数が同時に同様の遺伝子変異を起こして同様の放射線耐性を獲得するなんて考えにくい。つまり、最初に放射線耐性を獲得した、原発ピグミーにとってのアダムとイヴがいるはずなの。その繁殖によって、放射線耐性という遺伝的特徴を持った同種を殖やし、群れを作るに至った――そう考えるのが自然。

 わたしが抱いたつぎの疑問はこう――では、原発ピグミーのアダムとイヴはだれか? アダムがだれかはわからない――興味もないわ。だけど、イヴはわかる。

「やめろ」鞠木医師が顔を引きつらせ、怒声を上げる。

 カレンは語気鋭くいい放った。

「あなたはじぶんの意志でこの廃病院に残ったといった――だけどそれは事実ではないんじゃなくて? 可哀想に、あなたは単に〈彼ら〉に拉致されていただけなんじゃなくて? あなたはじぶんが賢い人間のつもりでいる――だけどじつのところ、X線診療室に囚われた家畜に過ぎないの。飼われていたのよ、〈彼ら〉怪物たちに。

 性奴隷とされ、発情した二十日鼠みたいに近親交配をくり返して子供を殖やし、〈彼ら〉の繁殖のための機械扱いされて、すべての尊厳を失ってそれでもなお命惜しさに〈彼ら〉に従った。そしていまも〈彼ら〉のいいなりとなって、このわたしまでもを拉致して〈彼ら〉にささげようしている。わたしを代わりの性奴隷として〈彼ら〉に差し出せば、じぶんは解放されるから。この町を出て、自由の身になれるから。あなたの心はいまや悦びにうち震えている。じぶんとおなじ奈落の底に、わたしを落とせるのが嬉しくてたまらないってね。女としての尊厳はおろか――惨めなもんだわ、人の心までもなくしてしまったのね、鞠木センセイ?

 どう? 想像を多分に含んでいるけど、当たらずとも遠からずってところじゃない? 無理のある想像ではないわ、十五世紀のスコットランドの殺人鬼、ソニー・ビーンはひとりの伴侶とともにおぞましい近親交配をくり返して四十八人の人喰い一族を作り上げたといわれてますものね――!」

 カレンの頬に、焼けつくような痛みが走った。

「おまえごときに、なにがわかる!」

 息を切らしながら、鞠木医師が何度もカレンの頬を打つ。

「あなたにわたしは殺せない」カレンは床に向けてぺっと血を吐き、余裕の笑みを浮かべてみせた。「あなたがわたしを拉致するために動くだろうことは、X線診療室にいるときからおおよそ予想がついていたの。だけど同時にそれはわたしの安全の保証でもあった。あなたはわたしを生きたまま性奴隷として〈彼ら〉にささげなきゃいけない――そうしなければ、あなたはこの廃墟の町を出られないんだから。

 ふっふ――薄暗い手術室に、笑い声が静かにこだまする。皺だらけの顔を紅潮させ、痩せ衰えた躰を揺らし、鞠木医師がゾッとするような顔で嗤っていた。

「まったく利口な社員をよこしたものだ、大東亜電力は。たしかに、わたしはあんたを殺さない。危害を加える気もない。だけどねえ、あんたはこれから死ぬよりもつらい地獄を味わうことになる」

 鞠木医師は呪詛のような声でカレンにささやき、鼻で嗤った。

「立派な子供を、たくさん産んでやるといい。わたしの代わりに、彼らのために、新しい人類の夜明けのために。死の町に興る王国の礎になることを喜ぶがいい」

 原発ピグミーたちが、薄闇のなかで声を上げて嗤う。

 ダボダボのTシャツを引き摺る〈鉤鼻〉が、群れのなかから一歩、前に出た。

 体格そのものは赤ん坊と大差がないが――その灰色の眼は、老人のように粘りつく情欲の光を湛えている。

 その手には、カレンの腕時計型ガイガーカウンター。原発ピグミーはそれを舐めるように不恰好な短い指で撫でていた。

「彼がいちばんはじめにあんたと会った。運命的だねえ、だから彼がいちばん乗りだ。くり返し、くり返し、躰が悦びを覚えるまで何度も何度もみんなに犯してもらいな、お嬢ちゃん!」

 闇のなか、ひたひたと不気味な跫音が迫る。

 爛々と光る灰色の無数の眼が、すべてカレンを捕えていた。

 むせ返るようなおびただしい情欲の臭いが鼻をつく。異様な雰囲気が、手術室の闇を覆っている。

 原発ピグミーが、さらにカレンに近寄った。

 防護服越しに、カレンの肢体に、そっ――と好色な老人のような手を伸ばす。

 そして痩せこけた蒼白い顔を上げ、なにごとかを濁った声でカレンにささやいた。

 乱れる呼吸を整える――カレンは恐怖をのみんだ。

 一瞬――〈鉤鼻〉の野獣のような咆哮が、手術室の闇にこだました。

 それはしだいに、痛みに震える悲鳴へと変わっていく。

 手術室が一気に静まり返った。湯気がのぼるほど熱い血が、床に滴り広がっていく。

 鞠木医師が原発ピグミーに駆け寄り、膝をつく。ヒュウヒュウと弱々しい息を吐き、〈鉤鼻〉が血まみれの指を震わせる。

 いったい、なにが起きたのだ――?

 鞠木医師も〈鉤鼻〉も、まるで理解できていない。

カレンはむくりと起き上がっていた。鞠木医師は、眼を瞠る。カレンの胴体を縛っていた手術台のベルトは、みごとに切断されていた。

 カレンは腕時計型ガイガーカウンターを握りしめていた。いまの一瞬のやりとりで、鉤鼻の原発ピグミーから奪い返したのだ――闇に蠢く怪物どもを、まんまとだしぬいてやったのだ。

 故障はない。〈通信モード〉への切り替えも問題なかった。

 鼻で嗤うのは、こんどはカレンの番だった。

「詰めが甘い――って忠告したでしょう、鞠木センセイ? アジトの掃除と整理整頓をお勧めするわ」

 カレンの手には――血に濡れて輝く一本のメスが握られている。

「南病棟二階の廊下に落ちていたメスを拾っておいたのよ。もしものときに、護身用に使えるかな、ってね――」

「長々とわたしを挑発していたのは――」老婆の顔が紅潮し、怒りにゆがむ。「隠し持っていたメスで手術台のベルトを切断するための時間稼ぎか――!」

「気づいたときには、もう遅いわ」

〈通信モード〉に切り替えた腕時計に向かって、カレンは叫んだ。

「『』――『』。PLTプルート、きこえますか――『』」

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