第16話 悪夢
混濁する意識のなかで、時間の感覚が狂いはじめる。
時計が歪んでいくように、時系列の繋がりが崩壊する。
過去と現在が交錯する――なのにただ、未来だけがすこしもみえないのが、ひどくもどかしかった。
「トーネスは? トーネスは連れて行けないの?」
駄々をこねるカレンに、母、チカはただ狼狽する。父、
十六歳のカレンは、黒い毛並みの洋犬に抱きついた。温もりが少しずつ、肌に伝わる。おそらくじぶんが問題の俎上に上がっていることを自覚したのだろう、愛犬トーネスはただ居心地悪そうに、ことの成り行きを見守っていた。
玄四郎が彼女の肩をそっと抱く。ふだんの柔和な顔つきはすっかり影を潜めていた。眉間に皺を寄せ、いいきかせるように、玄四郎はささやいた。
「カレンさん――よくおきき。F1原発からはすでに大量の放射性物質が漏れている。地域のみんなと避難しなくちゃいけない。犬は連れて行けないんだ――だけど、避難警報が解除されしだい、すぐに家に戻る。約束するよ。餌をたくさん置いていこう、鎖もはずしておけば、じぶんで餌も探せる。だいじょうぶ――ラブラドール・レトリバーは利口な犬種だ。それにトーネスは男の子で――とても、強い子だ」
「父さん、本気でいってるの? トーネスも家族っていってたじゃない! 逃げるなら、この子もいっしょだわ!」
カレンは涙を流して泣きわめいた。だけど、その訴えがけっしてきき届けられないだろうことを、少女ながらに彼女は知っていた。
贖罪が必要だった。愛犬を見捨てることに最後まで抵抗したという、罪悪感を軽減させるための、じぶんを善人だと思いこむための、安っぽい芝居が、彼女には必要だったのだ。
いま思い出せば――愛犬を見捨てたこと以上に、あのときのパフォーマンスじみた抵抗こそが、なによりも醜かった。あのときのトーネスの穏やかなまなざしは――忠義を誓った飼い主の心の醜さを、きっと看破し、軽蔑さえしていたことだろう。
人間の本性は、極限状態に曝されて、はじめて露わになる。
だとすればじぶんの本性は――きっと、この世のなによりも醜いにちがいない。
胸に浮かび上がるつぎの記憶は、避難先で過ごしたまるで夏のような秋の日のことだった。そのアパートにはエアコンがなく、彼女は扇風機で暑さに耐えていた。ぬるい風に頬を舐められながら、彼女は勉強に勤しんだ。避難先の学校の授業についていこうと必死だったのだ。人付き合いの苦手な彼女は、優等生であることでしか、じぶんを守れなかったから。
だけど、じぶんのことよりも、彼女は父が心配だった。
母、チカが死んでから、父はすっかりおかしくなってしまった。仕事を失い、かといってなにをするでなく、昼間はテレビにうつろなまなざしを向けていた。夜になっても寝ようともせず、台所で包丁を眺めながら、じっと座りこんでいる。カレンが作った食事にも、手をつけようとさえしない。まるで、妻であるチカの料理以外は、食べたくないとでもいうように。
ある夏の日のことだった。玄四郎が鼻唄を唄いながら、ネクタイを締めていた。鏡に向かい、髭も剃っている。じぶんで髪を切り、不器用ながら小ざっぱりと整えていた。
「父さん、出かけるの?」
カレンは声をはずませた。長い間、ふさぎこんでいた父が元気をとりもどしてくれたのだ。嬉しくないわけがない。
「カレンさん」玄四郎は柔和に微笑んでみせる。「いつも心配ばかりかけてすまなかったね。父さん、じぶんがなさけないよ。ご飯、いつもありがとうね。食べられなくて、申し訳ない。お母さん、きっとあの世で怒ってる。もうだいじょうぶだよ、父さん、げんきになったから。もうなにも心配はいらない。仕事だってさがすよ。父さん、まだ若いんだから。これからは、きっと、なんだってうまくいくからね――」
あの夏のように暑い秋の日、玄四郎は母の遺影に手を合わせ、笑顔のまま家を出た。
日付は二〇×△年、十月二十六日。
病院を襲撃した殺人犯としてテレビで父の名をきいたのは、その日の夕暮れのことだった。
何年ぶりに、なるだろうか――T拘置所の面会室で再会を果たしたとき、父の変わり果てた姿に、カレンはかけるべき言葉を失った。
やつれ、無精髭にまみれ、眼つきもうつろだった。色の褪せた灰色の囚人服のだらしなさもあって、身だしなみには人一倍うるさかった父の面影は、もう其処には微塵もなかった。
「ひさしぶりに会えてうれしいなあ」黄色い歯を覗かせ、玄四郎は笑った。「カレンさん、美人になったね。きっと幸せになれるよ。いや、なってくれなきゃ困る。さんざん苦労したんだ。そろそろ人並みの幸福をつかんだって、罰はあたらんだろう。そうでなきゃあ、まちがってるよ。そうさ、世界のほうがまちがってるんだ」
「就職が決まったの。それをきいてほしくて」
カレンは眼を伏せて、いった。
「それは、すばらしいことだ」
玄四郎は感激したようすでそっと手を伸ばした。だけどそのピアニストのように繊細な指は、カレンの髪には届かない。分厚いアクリル板に遮られ、其処からは一ミリだってふたりは近づくことができないのだ。
「で、いったい何処の会社なんだい? カレンさん、きみはむかしから、頭がよかったから――」
「大東亜電力――」
その名を口にしたとき、まるでそれが破滅の呪文でもあるかのように、面会室の空気が音を立てて凍りついた。
カレンが眼を上げると、父の顔からは表情が消えて失せていた。
「なぜだい、カレンさん」玄四郎は声を震わせた。「なぜよりによって其処なんだい? なぜ其処でなければいけない? ぼくたちが故郷を失ったのも――トーネスを見捨てなきゃいけなかったのも。母さんが死んだのも、父さんがこんなところに閉じこめられているのも――元をただせば……元をただせば全部ッ……!」
「父さんにはいいづらかった。だけど、誤解しないで。わたしだってじぶんのつらい過去を忘れたわけじゃない。だけど、こうするしかなかった。世界から原発をなくすには――大東亜電力で出世するしか――」
「裏切り者ッ」
アクリル板越しの父の蒼白な顔に、カレンは声を失った。ふいに眉間の皺が深くなり、ゆがみ、歯を剥きだすその表情は、まるで狂犬のようだった。
「裏切り者、裏切り者、裏切り者! おまえまでも淫売なのか、そんなにカネがほしいのか、雌豚! 悪魔に魂を売ってでも、そこまでしてでも薄汚いカネがほしいのか!」
「父さん、ちがう――きいて。お願い、話を――」
バン!
轟音が面会室を震わせる。父、玄四郎が立ち上がり、面会室を仕切るアクリル板を殴りつけたのだ。さっきまでカレンを撫でようとしてくれていた、その華奢な手を握り、こぶしを作って。
バン! バン!
さらに大きな音が響き、面会室を震わせる。カレンは言葉もなく、ただ茫然と、そのようすに見入るしかなかった。
父のこぶしは、血にまみれていた。真っ赤なこぶしを、さらに父は振るい続ける。
当たってはいない。すこしも当たってはいない。アクリル板は頑丈で、ひびひとつたりと入らない。
だけど――心に走るたしかな痛みに、ふたりの間に入る亀裂に、カレンは胸を抑えて涙を流した。
やがて何人もの屈強な刑務官が現れて、ひ弱な父を大勢で押さえつけた。殴り、蹴り、その場に引き斃す。父はまるで、死んだように動かなくなった。
「父さん――ごめん」
カレンはただ悲痛なひとことだけを、咽喉(のど)から搾りだした。
父はなにも答えなかった。
悲しげな血まみれの顔で、独房へと戻るドアを、無言でくぐっていく。
父、玄四郎が獄中で首を吊ったのは、その翌朝のことだった。
深い闇のなか、声を上げて叫んだ――ような気がした。
朦朧たる意識のなか、彼女は思う――じぶんはいま、帰ってきた――そう、じぶんは戻ってきたのだと。
生まれ育った故郷に、いろんなもの、思い出もトーネスも幸福も希望も家族の面影も、ぜんぶ捨ててきた黒草町に、戻ってきたのだと。
こんな形で帰ってくるとは思わなかった。奇妙な、そして皮肉な運命だった。
故郷を死の町に変えた、大東亜電力の一員として。
十年前の被曝という呪いのために、じぶんも、そして愛する恋人も病に冒され、先の知れない躰となって。
放射線防護服に身を包み――原発労働者である茂楠を人柱として生き残り。
そして彼女は、いま帰ってきた――おそらくそれは――自身の呪わしい運命との決着をつけるために。
あるいは、大事にすべき人や、大切だったはずのものを見捨て、裏切ってきた、罪の裁きを受けるために。
激しい雨が窓を叩く音が響く――彼女は抗うように手足を蠢かせる。
動かない――まるで運命に縛られているように。どうやっても動かせない過去の罪に、手枷、足枷をはめられたように。
ぼんやり視界が開いていく――闇のなか、なにか騒がしい声がする。
いくつもの人影が、じぶんの周りを、囲んでいる。
じぶんはどれほどの間、意識を失っていたのだろう。
そうだ、放射線量は――積算放射線量が気になる――。
カレンの全身が総毛だった。
こみ上げる悲鳴が咽喉で凍りつく。顔は蒼ざめ、躰がこわばり、動かない。
闇に潜む人影が、あきらかにふつうのそれではなかったから。
異形の影が、ゆらゆらと揺れていた。無数の醜く歪んだ顔が、間近から覗きこんでいた。
灰色の眼。血管の浮き出た醜い躰。老人のような顔に、赤ん坊のような異形の体型。
歪んだ異貌の矮人が、ちいさな手で、そっ、とカレンの頬を舐めるように撫でた。
背すじが凍る――どういうわけか、わからない。
ダボダボのTシャツを引きずった、やつれきった鉤鼻の矮人がいた。
結合双生児がひそひそとささやき合い、単眼がこちらをじっと凝視していた。
そして――あの禍々しい〈指まみれ〉も、部屋の奥に座りこんでいる。
「原発ピグミー……!」
カレンは呻くように声を漏らす。
鞠木医師に撃たれ、トイレで斃れ伏せていた連中だ――。
「なぜ、ここに……」
動けない――カレンは闇に慣れてきた眼で辺りをみまわし、愕然とした。
天井には巨大な無影灯が据えられ、周囲に眼を配ると埃をかぶったモニターや錆びついた電子顕微鏡といった機材が佇んでいる。
眼の前の器具箱には、まるで拷問器具のように並ぶ、錆びつき汚れたメスや剪刃――背すじがぞっと凍りついた。
手術室だ――そしてじぶんは手術台に寝かされ、胴体を腕ごとベルトで固定されている。
「おや――
声の方向に、眼を向ける。
薄闇のなかから、靴音を立てながら、小人たちよりひときわ大きな人影が歩み寄った。
「あなたは」カレンは眼を瞠る。「――
薄闇のなか、いくつもの皺に深い陰影を刻みながら、女医は三白眼を蒼白く光らせた。
「目醒めないほうがよかったのに」
痩せた老婆は、魔女のように嗤う。
「ほんとうの悪夢の、はじまりだ――」
闇のなか、原発ピグミーたちが一斉に血管まみれの顔をゆがめ、あざけるように嗤いはじめた。
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