第13話 逃亡劇
闇のなか、荒れ果てた階段を懸命に駆け下りる。瓦礫やガラス片が、カレンの足もとで派手な音を立てて砕け散った。
ドタドタと滑稽な足どりで、茂楠もカレンのあとに続く。
踊り場を旋回しながら、上階のようすをふと見上げる。
背すじに冷たいものが走った。
ちいさな怪物たちの群れは、階段を駆け下りようとさえしない――驚くべき身軽さと跳躍で、踊り場に立ち止まったふたりに向かってつぎつぎに飛びかかってきたのである。
カレンをかばって茂楠が立ちはだかった。体重にものをいわせ、原発ピグミーの群れを太い腕で薙ぎ払う。
階段に叩きつけられたピグミーたちは、すかさずむくりと起き上がり、奇声で互いに呼び合った。爛々と光る灰色の眼が、闇のなか、みるみる数を増していく。
「きりがないわ――走りましょう」
階段を駆け下り、ふたりは地下一階の廊下をひた走る。
原発ピグミー――恐ろしい相手だ。息を切らしながら、カレンは思う。
腕力があるわけではない。が、サルが飛び跳ねるように異常な動作でこの闇のなかを平然と駆け抜けてくる。どういう理由かはわからないが、闇のなか〈彼ら〉ははっきりとカレンたちの姿を視認しているのだ。それどころか、廊下や階段に散らばるガラス片や障害物までもを巧みに避けるほど、視界は明瞭らしい。
夜目が利く――ということなのか。闇のなか、不気味な奇声と哄笑を上げながら追いすがる〈彼ら〉は、まるでブチハイエナの群れのようにみえた。
カレンの身長は、一六七センチある。女性としてはかなりの身長であり、足も長い。歩幅の大きさに関しては、赤ん坊のような体格の原発ピグミーたちとは比較にならないだろう。男性である茂楠でさえ、カレンに後続するのがやっとの状態である。
しかしこの廃病院のなかにあっては、カレンの身長がぎゃくに仇となった。廊下に投げ出されたストレッチャーや配膳車、それらにどうしても足をとられるのだ。一方、原発ピグミーの群れは、ちいさい躰を活かしてストレッチャーの下をかいくぐるような思いもよらない動きをみせる。歩幅がちいさいとはいえ、その身軽さからくる敏捷さと跳躍力は尋常でない。メキシコのプロレス、ルチャリブレにはミニ・エストレージャと呼ばれるミゼット・レスラーたちがいるが、そのトリッキーさを髣髴とさせる動きである――しかも、それらを何倍も上回るほどの。
この廃病院は〈彼ら〉の巣なのだ。
一見荒れているようにみえるが、それは〈彼ら〉の生活の痕跡。
〈彼ら〉の居住性、快適さのために、最適化された配置なのだ。
廃病院に足を踏み入れたのは軽率だった。〈彼ら〉の胃袋に、みずから呑まれたようなものではないか――。
「絹木さん」
後続する茂楠が息をきらす。
「やつら、速すぎます。追いつかれる。数が多すぎる。やみくもに逃げても――」
「やみくもじゃないわ」カレンは答える。「冷静よ。地下一階の裏口――出入口になるのは、あそこだけのはず」
一階の窓を破って出るという策もあった。だが、そのための余裕がない。一瞬でも足を止めれば、即座に捕まってしまうだろう。足を止めずに廃病院を脱出するには、この建物に入ってきた、あの裏口しかない。
だいじょうぶ――相手の動きは、たしかに速い。小回りもきく。だけどこの直線距離なら、歩幅の大きさを有利に生かせる。逃げきれる。
自信の笑みを浮かべたとき、背中に不気味な衝撃が走った。
心臓を掴まれた思い――原発ピグミーが一匹、背中にしがみついていたのだ。
瞬間、天井を見上げ、カレンは眼を瞠った。
天井が崩落し、穴が開いている。
ピグミーは天井裏を這うように伝い、天井の亀裂から飛び降りてきたのだ。
さらに四匹のピグミーが、天井裏からこちらを覗いていた。障害物だらけの廊下や階段を選びもせず、その小柄さを利して、配管だらけの天井裏を先回りするという狡猾。
原発ピグミーの恐ろしさを実感させられた瞬間だった。神出鬼没とはまさにこのこと――移動方法も追跡経路も、こちらの予想のななめ上をいく。中国新王朝時代の農民反乱軍、赤眉には、纏足の要領で作出された人工の小人「小頭児」がいたという。どんな場所でも猫のように忍びこめる無敵の暗殺者集団である。彼ら原発ピグミーも、まさに、生まれついての暗殺者なのだ。
しかもあろうことか、背中にしがみついた奇怪な顔貌のその小鬼は、カレンの防護マスクに、血管の浮き上がる手を伸ばそうとしていた。
恐怖に叫び、身をよじる。両腕で怪物のちいさな手をふり払い、カレンはじぶんの背中ごと、原発ピグミーを壁に叩きつけた。
呻きを上げ、ピグミーがようやく手を放す。床に叩き伏せられたピグミーを、さらに茂楠が思いきり蹴りつけた。まるでサッカーボールのように、小鬼が廊下を跳ね転がる。
「じぶんが囮になります」
茂楠の大きな躰が、廊下に立ちふさがる。
「その間に早く病院を出てください。ふたりとも逃げていたんでは、いずれ追いつかれる」
「でも――」
「だいじょうぶ。やつら、腕力はさほどではないようです。むしろ、背中を向けているほうが危険だ――防護服やマスクに手をかけられたら、被曝は免れないでしょう。帰還不可能区域の放射線量は、ふつうじゃあない。恐れるのは、むしろそちらのほうなんです」
「茂楠さん――」
「早く行ってください。なに、すぐに追いつきます。車のエンジンをかけて待機をお願いします!」
「――あなたがいてくれてよかった」
カレンはそれだけ口にして、ふり返ることなく駆けだした。
背なかで不気味な嬌声が響く――正体不明の、奇怪きわまる、闇に蠢く化け物たちの。
あの畸形たちは、いったい何者なんだろう?
なぜ揃いもそろって、小人のように躰が小さい?
なぜ放射線のなかで平然と生存できるのだろう?
なぜ闇のなかでも高い視力を発揮できるのか――?
〈彼ら〉については謎だらけだ。解明したい好奇心もある。
だけど――数が多すぎる。凶暴すぎる。いったん退かなければ――。
長い廊下の突き当たり――幽かに光が漏れている。
出口に詰めかけるストレッチャーと車椅子の群れが視界に揺れる。
あとすこしの距離。視界が赤く染まる。鼓動がしだいにゆっくり大きく鳴り響く。
――此処じゃない……
まただ。また、あの奇妙な声。
此処じゃない? なにをいっているのだ?――出口はすぐそこ、すでに目と鼻の先だというのに。
かまびすしい金属音が響いた。ストレッチャーをかき分ける。廊下の突き当たりにぶつかるほどの速力で、カレンはドアハンドルに手を伸ばす。
助かった――廃病院さえ出られれば、車がある。逃げきれる!
重い金属音がむなしく響く――カレンの躰が凍りついた。
ドアの錠が、下りているのだ。
愕然と立ち尽くす。何度くり返しても、ドアはびくとも動かない。しかも、施錠された状態で、サムターンが破壊されている。
中から開錠することができない。
まさか――建物に入るときは、たしかに開いていた。まちがいなく、このドアだった。
いったいだれが、こんなことを――?
ハッと息をのみ、カレンは背後をふり返った。
闇のなかでもそのぬめるような灰色の視線ははっきりと感じられた。
茂楠の巨体をかい潜ったのか――六、七匹の原発ピグミーが、ストレッチャーの影に潜み、蠢きながら、悠然とこちらの一挙手一投足を観察している。
追い詰められたカレンをあざけるような、甲高い奇声が上がった。カレンが恐怖を噛みしめたのは、ひときわ大きなあの指まみれの原発ピグミーが視界に入ったときだった。
〈指まみれ〉は、闇のなか、悪意を込めてなにかを投げつけてきた――それは金属製のドアに当たり、跳ね返る。
カレンは身をこわばらせた。それは一瞬、生首のようにみえた――放射線防護マスクである。
息が乱れる。躰が慄えた。廊下に転がるそのマスクは、ぬめるような赤い血に濡れていた――それはたしかに、さっきまで茂楠の顔を死の灰から守っていたマスクだった。
〈指まみれ〉が怪鳥のような声で合図をする――原発ピグミーたちがストレッチャーを踏み台にしてつぎつぎに飛びかかってきた。
彼らは確実に、カレンのマスクを剥ぎとろうとしていた。このマスクが命綱であることを、彼らは知っている。学習しているのだ。
両腕で必死に小鬼の群れを払いのけながら、カレンは辺りの薄闇に眼を走らせた。
咄嗟に彼女が手を伸ばしたのは――壁際に設置された小型消火器。
安全栓を抜き、銃口のようにノズルを構える。小鬼たちは訝しげに顔を見合わせたが、すぐに野犬のように牙を剥き、顔じゅうに走る血管を赤紫に染め、唸りを上げた。
消火器に詰まった化学薬品――リン酸アンモニウムの粉末で煙幕を張れば、怯ませることぐらいはできるはず。
トリガーを引く。二度――三度。
マスクの下で、汗が流れた。なにも起こらない。噴射されない。十年前から廃墟に捨て置かれ、埃をかぶった消火器だ。機能しないのもむりはない。
嘲笑うように、原発ピグミーが飛びかかる。
カレンの防衛本能に火がついた――金属製の消火器をふり回し、まるでソフトボールのように原発ピグミーを打ち返す。
鈍く呻いて吹っ飛んだピグミーに、追い討ちをかけるように消火器を投げつける。跳ねまわる金属製の消火器に、ピグミーどもが怯えるように一歩、退く。
その隙に、カレンは壁伝いに廊下を走りだした。
闇のなかとはいえ、病棟の見取り図は抜からず頭に入っている。
トイレの表札が眼に留まった。個室に駆けこみ、鍵を掛ける。木製のドアに汗ばんだ背をついて、大きく息を吐いた。
九死に一生――助かった。
一瞬でも判断が遅れれば――きっと、茂楠とおなじ運命を辿っていただろう。
「茂楠さん――」
カレンの声は、
じぶんの身を挺し、カレンを逃がそうとしてくれた。
彼は下請け労働者で――じぶんのことを負け組と呼んだ。生きている価値のない人間だ、とも。
初めて会った人間に対し、これほど尊い行為ができるのに、それを誇りにしようともせず――。
防護マスクの下で、カレンは涙を噛みしめた。
仇は討てる。最後の手段がある。
原発ピグミーたちが話し合いの通じる相手でないのはあきらかだ。茂楠もすでにやられてしまった。特殊部隊PLT――きな臭い連中ではあるが、いまは彼らだけが希望だ。
〈通信モード〉の腕時計に、合言葉を叫びさえすれば――意気揚々と、左腕をさぐる。
瞬間、カレンの顔から血の気が引いた。
腕時計が、ない。
防護服の袖に巻いていたはずの腕時計が、何処にもないのだ。
最大の命綱――ガイガーカウンターでもあり、救助を求める通信機器でもある、あの腕時計が。
カレンは防護マスクの下、息を乱す。
そんな莫迦な――何処で落とした――?
カレンは記憶を辿り、アッと声を上げた。
原発ピグミーが背なかにしがみついたとき。
防護マスクを執拗に剥ぎとろうと手を伸ばしたとき。
カレンは左腕でそれを防御した。
そのときに、腕時計を剥ぎとられたのか――。
ゾッと全身が総毛立つ。
あの小鬼どもは、防護マスクがこちらの命綱だと知っていた。それを奪うことが、こちらの最大のダメージになることを学習していた。
それならば、腕時計も狙われておかしくない。奪われて、不思議はない。
みくびっていた――やつらは連携もとれるし、効果的な戦術も使える。想像以上に狡猾だ。
カレンはハッと息をのむ。そしてゆっくり背後――ドアの向こうの気配をさぐる。
トイレの個室の外に、無数の跫音と息遣いが迫っていた。
合板製の薄い扉越しに、ヒヒヒ、と不気味な嗤い声が響く。
個室。鍵。
それらはひとまずの安心感を与えてくれたが、状況が改善されたわけではない。
隠れたというよりは、追い詰められたというほうが、表現として正確だ。
ドン!
大きな音――薄い扉に激しい振動が走る。
あのちいさな躰でいったいどうやればこんな力が出るのだ? なにからなにまで、甘くみていた。
敵意あるノックの音がくり返し響くたび、カレンの心臓は縮み上がった。
ノックの音は、しだいにその間隔を縮めていく。
どうする? どうすればいい?
こちらから扉を蹴り開けて、やつらを扉ごと壁に叩きつけて逃げようか。
いや――それもきっと一時しのぎにしかならないだろう。出口の算段もつかないまま飛び出すのは、自殺行為だ。
だからといって、このまま手をこまねいていても、いずれ扉は破られる。
カレンの呼吸がどんどん荒く、鼓動がますます速くなる。
逃げきれない――!
堅くまぶたを閉じた刹那のことだった。
だしぬけに眩い蒼い閃光が一瞬、闇を切り裂いた。
瞬間、悪夢から醒めたように、ふいにノックの音がやむ。
カレンは耳を澄ました。
声はしない。音もしない。気配もない。まるで夜が明け、亡霊たちが蒸発してしまったかのように。
ドアの隙間から、外のようすをそっと窺う。
驚くべきことだった――あの忌まわしい原発ピグミーたちが、どういうわけか、床に斃れ伏せていたのである。
おそるおそる、カレンはドアを開けた。闇のなか、すこしずつ眼が慣れていく。
床に突っ伏す原発ピグミーたちは、みな、苦悶の表情を浮かべていた。死んでいるのかはわからないが――恐れるに足りないことはあきらかだった。
気配を感じ、カレンはトイレの入り口に眼をやった――そして咄嗟に身構えた。
灰色の防護マスクと防護服に身を包んだ、カレンとおなじ背格好の、ひとりの人間が立っていた。
小人にまみれた悪夢にうなされていたカレンにとって、じぶんとおなじ体格の人間に出会うのは、ひさしぶりのことのようにさえ思える。
「あなたは――」
声をかけようとしたカレンに、謎の人物は奇妙な筒状の機械を構えた。
みたこともない機械だった。白いプラスチックと銀色の金属部品、黒い樹脂を組み合わせた太い筒状のそれは、まるで巨大な注射器のようなプロポーションをしている。グリップがあり、トリガーらしき装置もあった。スコープのようなものまでついている。そして先端には発射口のような不穏な機構が確認できた――まるでSF映画に出てくるレーザー銃のような外観だ。
「撃たないで――こちらに敵意はないわ……」
カレンはゆっくりと両手を挙げる――しかし謎の人物は、無言のまま、容赦なくトリガーに力をこめた。
青い光が薄闇を貫く。カレンが眼を閉ざした瞬間、天井裏で悲鳴がきこえた。
崩落した天井の亀裂から、原発ピグミーが転げ落ち、そしてタイルの上にボールのように跳ねて斃れた。
息を乱しながら、カレンは眼を瞠る――危なかった。天井裏の死角から、襲われるすんでのところだった。
しかし――あの武器はいったいなんなのだ?
天井裏の敵を攻撃した。だというのに、障壁となる天井それ自体はまったく破壊されていない。いうなれば、弾丸が障害物を透過して減速せず威力も落とさず、障害物の向こう側に潜む標的を狙撃したことになる。
考えようによっては恐るべき武器だ――障害物を透過して攻撃できるというなら、あらゆるボディアーマーや盾もまるで用を為さない。防御の手立てが、いっさいない、ということだ。
「だいじょうぶ? 怪我は?」
謎の銃を構えた人物は、よく通る声でそう訊ねた。しわがれてはいたが、凛とした、女性の声だった。
まともな人間――言葉の通じる人間。
カレンの胸に、安堵が広がる。たったそれだけのことで喜べるほど、彼女の精神はすっかり疲弊しきっていた。
「気をつけて。何匹か、逃げられたからね」
ひとまず警戒を解いたのか、救世主は銃口を下げ、そういった。
「わたしのこと、連中のこと――いろいろ知りたいこともあるでしょう? でも、まずは此処から逃げることが先決、話はそれから――異論はあって?」
異論など、あるはずもなかった。
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