第11話 群れ

 懐中電灯の灯りに応え、金属製のドアが、手招きするように揺れている。

 ドアノブをそっと握り、高く軋む音を立てながら、絹木カレンは食糧貯蔵庫のドアを開け放った。


 ――……


 鼓動が高鳴り、ふいに視界が赤く点滅する。

 幻聴だ――声を払うように、カレンはかぶりを振る。

 そして、そっと貯蔵庫の薄闇のなかを覗きこんだ。

 闇がしだいに濃さを増す――しかし、人影らしき姿を、彼女は見開いた両の眼で、たしかに認めた。

「ボク、なぜ逃げるの? だいじょうぶ――わたしと安全な町へ――」

 懐中電灯の光を、そっと食糧貯蔵庫に射し入れる――ひと呼吸のあと、貯蔵庫の奥に潜む人影の正体に、カレンは悲鳴を呑み込んだ。

 。貯蔵庫の壁に、若い男が、もたれながら死んでいた。顔面の右半分、眼から頬にかけて黒ずみ、ほとんど腐り落ちており、眼窩と黄色い歯が剥きだしになっている。しかし一方で、左半分はまるで生前そのままのような生々しい表情で、恐怖に慄える断末魔の叫びを上げようとしているようにさえみた。

 だれだ――?

 これは、いったい、だれの死体なのだ?

 右半分だけ腐るという奇妙な死体であるがゆえに、死んだ時期の特定がしづらいが、年齢と性別の特定は難しい話ではない。

 男性――二〇代――身の丈はおそらく一八〇ゼンチ前後、筋肉質でかなり鍛えられた体格をしている。

 なぜ、こんなところに、男の死体がある?

 わからない。

 だけどこの厨房は、なにかが怪訝おかしい。なにか呪わしい闇が巣食っている。

 雨音を縫うように、幽かに奇妙な音がきこえた。

 …………

 小枝でも折れるかのような音。

「だれか、いるのね?」

 返事はない。ただ、……と奇妙な音が応えるのみ。

 乱れる呼吸を必死で整えながら、カレンは食糧貯蔵庫の奥へ、懐中電灯の灯りを這わせた。

 不吉な感じがした。開けられた缶詰と、残滓が床に転がっている。

 闇の奥――たしかにもうひとつの人影が、ちらついていた。

 ちいさい。背丈は五〇か六〇センチほどだろうか。

 やがて、枯れ枝のように細く蒼白い足を、懐中電灯の光が捉えた。裸足だ――そして奇妙なことに――ひどく薄汚れてはいるが、

 亡霊ではない。幻覚でもない。

 生存者は、たしかに存在した。

 信じがたいことだが――たしかに、幼い子供だ。

 しかし――ガラス片や瓦礫が散らばるこの廃病院の闇のなかをあれだけ駆けまわって、なぜ、傷がひとつもないのだろう?

 懐中電灯の光を、すこしずつ持ち上げる。舐めるように光が人影の上半身を照らす。ダボダボの擦り切れたTシャツ――光に照らされるのを厭うように、その人影は身をよじらせ、唸り声をあげる。

「逃げないで――ここは危険なの――わかる?」カレンは、声を慄わせた。「あなたを捜しにきたのよ――助けるために。怖がらないで――わたしたちは味方――」

 ――ちいさな悲鳴が、カレンの言葉をさえぎった。

 ちいさな人影が、手づかみで口に運ぶなにか――黄色い脂肪と赤黒い肉の隙間に、白い骨が幽かに覗いている。

 ちいさな人影がかじっているもの――

 …………

 喰っている――カレンの全身が、怖気をふるった。

 喰うために、死体を貯蔵庫に入れているのか。

 闇を幽かに震わせるちいさな音の正体が、懐中電灯の光に浮かび上がる。

 その人影はまちがいなく、彼女が追ってきたダボダボのTシャツに痩せこけた素足の子供だった――しかしその顔貌の異様さは、カレンから、すべての言葉と体温を根こそぎ強奪していった。

 光で照らすと眩しそうに手をかざしながら、その子供は醜い顔をゆがめて唸りを上げる。

 いや――もしかしたら、子供ではないのかもしれない。

 五〇センチばかり、四頭身ほどのその体格は、まぎれもなく子供のそれだった。

 だが、その異様な顔貌は、まるで老人のような狡猾を、皺として刻みつけている。

 白く異様に大きな頭には髪が生えず、蒼白い静脈が、まるで刺青のような不気味な紋様を浮かべている。灰色に曇った斜視ぎみの大きな眼がぎょろぎょろと動き、ふいに憎しみにゆがむさまは、おぞましいの一語に尽きた。魔女のような鉤鼻、骸骨のように痩せた頬。並びの悪いひどく汚れた黄色い歯は、ところどころが抜け落ちている。

 心臓を掴まれたような衝撃――カレンはその場に身を凍らせた。

「――茂楠さん」

 カレンはようやくの思いで助けを呼んだ。窓を打ちつける雨音のなかに、うわずった声は溶けていく。

「お願い――来て。なにかが奇妙なの――」

 カレンはふり返る。

 そしてその瞬間、蒼い稲妻が厨房の闇を切り裂いた。

 稲光に浮かび上がった悪夢のような光景に、カレンは茫然と立ちすくんだ。

 立ち尽くす茂楠の背後で――いくつもの小人の人影が、こちらをみつめていた。

 調理台の上に、食器棚のなかに、大鍋の陰に、壁際に、まるで無数の溝鼠が群がるように〈彼ら〉はいた。

 その異様な人影の数、ざっと十あまり――。

 爛々と警戒の光を湛えながら、〈彼ら〉の大きな眼がカレンの一挙手一投足をみつめている。蒼い稲光が、その異様な顔貌の陰影を、闇のなかに濃く刻みつけていた。

 そんな莫迦な――ふたたび闇に覆われながら、カレンは声を失った。この放射線量のなか、こんなにも生存者がいるなんて。

 防護マスクで窺えないが、カレンの顔も茂楠の顔も、血の気を失っていたことだろう。

 驚くべきは、闇のなかに浮かび上がる〈彼ら〉の不気味な相貌である――生存者たち、というよりは、闇に隠れて生きる怪物たちの群れ、と形容するほうが、よほど実態に適っている。

 懐中電灯の光で、恐る恐る〈彼ら〉の姿を追う。

 調理台の上、ふたりで肩を組んで腰かける子供の人影があった。しかし眼を凝らすと、それは肩を組んでいるのではない――ふたりは、肩の部分で繋がっていたのだ。ひとりは呆けたような笑みを浮かべ、もうひとりは敵意と憎悪にみちた表情でこちらを見据えている。

 畸形だ――カレンはそこでようやく理解した。

 結合双生児――彼らは重度の畸形者フリークスなのだ。

 壁の隅で膝を抱える人影は、眼、唇、鼻が異様に腫れ上がっている。

 蟷螂のように異様に首の長い者もいる。

 手足が象のように異様に肥大した者。

 骨格や眼鼻の位置がいびつな者。

 顔面が潰れた者――。

 驚くべきことには、顔面の中心に大きな眼がぎょろりと動く単眼の畸形までもがいる。本来、単眼症は前脳の分化が正常に行われないため、そのほとんどが死産か生後まもなく死亡するといわれているのに――。

 しかしそのなかでもひときわ異彩を放つ、ひとまわり躰の大きな異形がいた。

厨房奥の食器棚に腰かける、禍々しい雰囲気の畸形者である。

 その怪人は、ほかのどれともまったくちがう凶悪な雰囲気を醸し出していた。ほかの畸形よりもでっぷりと肥り、力もかなり強そうだ。全身が疣で埋もれ、闇にまぎれる影からでさえ、その異形がわかる。潰れたようなちいさな吊り目が横に三つ、並んでいる。豚のような潰れた鼻がふたつあり、歪んだ口の上辺が傷痕のように大きく裂け、口腔と鼻腔が一体化していた。そしてまるでブルドッグのように、下顎が前に突き出している。

 ぞっとしたのは、かれの全身を蝕む疣の正体を悟ったときである――まるでハリネズミのような異様な影を作りだすその疣のひとつひとつの先端に――があった。

 それは疣ではなく――――なのだ。

 いったいどんな遺伝子異常を引き起こしたのか――顔面にも、腕にも、手の甲にも、足にも、おそらく襤褸切れのような衣服のその下にも――全身から指が無数に生えている。

 用を為さないであろうその一本一本の蒼白い指が、幽鬼のように揺らめき蠢いているのだ。まるで、亡霊の群れが助けでも乞う手招きでもするように。

 ふたつの粘土細工を押しつけ強引にひとつにしたような、独特の異貌。

 無数の怨霊に憑かれたような指まみれの不気味な腕。

 しかし、その異形それ自体よりも――その三つ眼に宿る悪意、敵意、怨念、怒りが、カレンの眼を捉えて離さなかった。

 薄闇のなか浮かび上がるその光景は、まるで終わらない見世物小屋の悪夢だった。

 彼らの姿には、胸に迫る禍々しさとともに、敬服すべき神々しさがあった。このような形になっても、まだなお生きている。じぶんとおなじ生命であるのだ――敬虔な気持ちにさせる、迫真性があった。嘔吐を催しながら、嫌悪を感じながら、カレンはどうしても、その怪物たちから眼を逸らせることができないでいた――。

「茂楠さん――!」

 カレンは助けを呼んだ。度を越した不気味さに、カレンは表情をこわばらせている。

「〈彼ら〉は」熊のような巨躯の茂楠だったが、その声は、息も絶え絶えに途切れている。「絹木さん、いったい、〈彼ら〉は何者なんです?」

〈原発ピグミー〉――よく名づけたものだ。

 ちいさな人影たちは、ある者は無言で、またある者は怨めしそうに、じっとこちらを見据えている。遠巻きに、ようすを窺っている。

 畸形の種類はさまざまだが、共通しているのは、灰色に曇った眼の色だ。そして全身に浮かび上がる不気味な血管。そしてなにより躰のサイズ――まるで生まれたての新生児のような体格だが、みな二本の足でしっかりと立ち、歩いている。唸り声しかあげていないが、それによってなにがしか互いにコミュニケーションをはかっているようだ。その立ち居振る舞いには、子供のような無邪気さは微塵もなく、むしろ熟練の狩人のような老獪さがあった。

 

 ――……


 だれかの声が、耳のそばに響いた。やはり、子供の声だった。

 原発ピグミーのだれかの声なのだろうか? 見渡せど、声の主はわからない。

 原発ピグミーの群れは、まるで野犬のような唸りを上げて、カレンたちを遠巻きに囲んでいる。

 壁を背に、カレンは厨房の出口へちらりと眼をやった。

 一歩動く。〈彼ら〉は一歩、詰めてくる。

 不穏な雰囲気が、闇のなかに広がっていく。カレンは、ゴクリと唾をのんだ。

 そのときだ――身も凍る不気味な咆哮が厨房に響いた。

 声の主は、あの指まみれの三つ眼だった。

 彼こそが、おそらくリーダーなのだろう――遠巻きにカレンを囲んでいた原発ピグミーたちが、回りこむように移動しながら、カレンとの距離を詰めはじめる。

〈彼ら〉が何者なのかはわからない。だけど、話し合いが通じる相手でないのはあきらかだ。

「危険だわ」赤ん坊のような体格の相手だったが、カレンは本能でそれを感じとった。「逃げるわよ、茂楠さん!」

 原発ピグミーの一匹が、驚くべき身軽な跳躍力で飛びかかってきた。

恐怖の悲鳴が口をついて出る。

 揉みあいになるなかで、こめかみの視点CCDカメラが床に叩きつけられ、ガラスが割れる音が響いた。

 カレンは両腕で力任せに、怪物を床に叩きつけた。蛙のようにぶよぶよとした、不気味な手触りの肌だった。

 ほかの原発ピグミーたちが、警戒と怒りの唸りを上げはじめた。

 赤ん坊のような体格の相手だ――女性とはいえ、力であれば、カレンのほうがやはり強い。

 しかし、この数は厄介だった――まるで陸のピラニアだ。総勢十三もの人影が、歯をむき出しにして唸りを上げている。

「茂楠さん――車へ戻りましょう」

 一も二もないようすで、茂楠はうなずく。

 カレンは背を向け、ふたたび走りだした。

 原発ピグミーたちが背後で興奮の声を上げる。背を向けたことで野性が刺激されたのか、凶暴な本性を露わにしながら、ピグミーたちの無数の跫音が追ってくる。

 転倒させられたら、一巻の終わりだ。カレンの頬を、汗がつたう。床のガラス片で防護服にすこしでも穴が開けば、放射性物質を吸いこんで、取り返しのつかないことになってしまう。

 助けて、侑梧――、

 声にならない声で、恋人の名を呼ぶ。

 当然、答える者はない。

 巨大な廃病院を舞台にした、絶望的な逃走劇が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る