第9話 幻影
粘りつくような時間が流れていく。廃病院に潜入してから、すでに二十分が経過していた。残された時間は、あと四時間四十分。それを過ぎれば、致命的になる。足もとの医療器具に注意を払いながら、暗い廊下を、奥へ奥へと歩いていく。
だけど、カレンの気持ちは、さっきよりずっと軽かった。彼女の前には、頼もしい大きな背中が揺れている。
思えば、現場の原発作業者とこうまで距離を縮めるというのは、カレンにとっては初めての経験だった。それは彼らを軽蔑していたわけでも、きらっていたわけでもない。うしろめたかった――というのが、じっさいのところだろう。
十年前のあの原発事故が起きたとき、原発作業者という存在は初めて脚光を浴びた。死を覚悟でわが身を犠牲にしてでも国を守ろうとする英雄、現代に蘇った神風特攻隊といった美化された報道がなされ、国民総立ちの拍手を浴びる身にのぼり詰めた。
だけど、そうやって脚光を浴びる以前から、原発には危険を顧みず作業に当たる原発作業者は、たしかにいたのだ。人知れず被曝によって死んでいった彼らの存在は、いまなお光が当たらず、闇に葬り去られたままなのである。
原子力発電所には、年一回の定期点検が義務づけられている。原発内部の機器類、とりわけ炉心付近の高線量エリアの整備、保守、清掃。先進性を謳う原発も、なにからなにまで機械化されているわけではない。汚れ仕事に当たる労働者なくして、一日たりと機能しないのは、ほかのあらゆる産業とおなじなのだ。
被曝と隣り合わせの最前線に放りこまれるのは、大東亜電力の社員ではない。全国各地からかき集められた、下請けの日雇い労働者たちである。孫請け、ひ孫受けの過程で賃金のほとんどをピンハネされていることを、彼らは知らない。放射線の危険についても、ほとんど無知な者ばかりだ。
そんな労働者たちの苦役の上にあぐらをかいている――その罪悪感こそ、カレンが彼ら労働者たちの眼を直視できない理由のすべてだった。
大東亜電力は彼ら現場の労働者を機械の部品のようにしか考えていないが――当然ながら、彼らは人間だ。
機械の部品は、じぶんの身を危険に晒してまで、ひとりの女をこうして助けにきてくれたりはしないだろう。
ふいに茂楠が足を止めた。
身をわずかにかがめ、無言のまま彼は懐中電灯で照らす先を指さす。
汗と吐息で曇る防護マスク越し、カレンは必死に眼を凝らした。
廊下の奥、金属製のドアの陰――瓦礫とガラス片のなかに、白クマのぬいぐるみが落ちていた。
その背中には、流血を思わせる真っ赤な染みが広がっている。
「あのぬいぐるみ」カレンは小声でささやく。「まちがいない。さっきの子供が引きずっていたものだわ」
茂楠は懐中電灯を持ち上げた。金属製ドアの揺れる部屋の奥を、灯りが照らす。辺り一面、皿が割れ、スプーンが転がっているのがみえた。どうやら厨房であるらしい。
あのなかに――さっきの子供が――。
警戒させないよう跫音を殺し、ふたりはそっとドアのそばに立つ。
薄闇に覆われた厨房を覗くと、ステンレスの調理台や流しが幽かな日差しを鈍く反射させている。
スライサー、回転鍋、巨大なオーブン、十升は炊けるであろう炊飯器などの器材がまるで工場のように並び、床にはレードルや食器が投げ出され、痛ましく破片を散らばらせている。まるで、獣にでも荒らされたような光景だ。
カレンは眼を凝らす――一見、姿はみえないが、相手は小さな子供だ。厨房なら、いくらでも隠れ場所がある。捜索の価値は、おおいにあるといえるだろう。
「しかし――ほんとうにいるんでしょうか?」
水を差したのは、茂楠である。
「疑うの? たしかにみたのよ」
「いえ――疑うわけではないんです。しかし――」
茂楠は懐中電灯で厨房の床を照らした。
――此処に来ちゃいけない……
カレンは身をこわばらせた。またも、得体のしれない声がきこえたのだ。
「茂楠さん」カレンは声を
茂楠は無言で首をかしげた――なんのことかわからない、というふうに。
カレンは口を閉ざす。
まさか、この声はじぶんにしかきこえないのか――?
茂楠は口ごもりながら、いう。
「絹木さんのお話では――生存者の子供は裸足だったとか」
そうだ。たしかに裸足だった。カレンは無言で茂楠を見上げる。
「さっきから、気になってたんですよ……。廊下には、ガラス片や医療器具の破片が、無数に落ちていましたよね? 厨房を覗いても、食器の破片がいくつも落ちているのがわかります。ですが――奇妙なことに、血の痕がひとつもないんです」
茂楠はカレンを見下ろしながら、ゆっくりと言葉を語をつぐ。
「どういうことかわかりますか、絹木さん? ふつうの人間ならこの闇のなか――破片を一度も踏まずに歩くことなんて、まして駆け抜けることなんて、できっこないんです。裸足なら、怪我をしているのが当たり前なんだ。多かれ少なかれ、血を流しているのが、ふつうなんです」
カレンは言葉をのんだ。茂楠のいうとおりだ――たしかに、本来なら血痕があるはずだ。血に濡れた足跡が残るはずだ。追跡だって、もっと楽にできたはずなのだ。
だけど、そんな痕跡は、ひとつもみつからなかった。
あの子供の弱々しい、いまにも消えてしまいそうな背なかが、脳裏をよぎる。
亡霊だから――怪我をしない?
まさか。そんなことはありえない。
さいしょから、すべて幻覚だった――?
まだ、そのほうが辻褄が合う。
そしてさっきからの――幻聴。
すべて、廃墟に成り果てた故郷、黒草町がみせた、白昼の夢だったのか。
「絹木さん――やっぱりこの放射線量のなか、生存者がいるというのは――考えにくいのでは? いや、わたしとしては、可能なかぎりお手伝いしたいという気持ちはあるんです。でも、此処まできても生存者の姿も痕跡もろくに確認できないし、あの――」
茂楠はいいよどみながら、決定的な言葉を口にした。
「絹木さん――あの、なにか不安とか、精神的な――いや、いまの時代、そういう病気は珍しいことではなくて……」
「お願い。出てきて、坊や!」
カレンは厨房に押し入り、声を張り上げた。
じぶんが狂っているだなんて、思いたくなかったのだ。
「安全な街に行こう? 温かいごはんも、ベッドだってあるのよ」
返事はない――ただ闇に包まれた厨房の金属製品に、うわずった声が反響するだけだ。
茂楠は無言だった。防護マスクのために、表情までは読みとれないが――おそらく、冷やかな眼でじぶんをみているのにちがいなかった。
「わたしを疑うの?」カレンは苛立ちの声を上げた。「みたの。たしかに、みたのよ!」
ふいに、厨房の闇のなか、すばやい黒い影が走った――ようにみえた。
カレンは視線で影を追った。
だが、すでにちいさな影は、何処かの物陰に身を隠している。
「茂楠さん」カレンは声を潜ませる。「みえた? いまのが」
「なんのことです?」茂楠は鈍重な声で答える。「絹木さん――」
防護服と防護マスクが遮断するもの――それは、なにも放射性物質だけではない。人の気配も同様だ。わずかな空気の流れ、微妙な温度の変化、幽かな物音、そういったものも遮断されてしまう。
感覚が鈍る。意識に靄がかかる。生存者を捜すためには、もっと意識を集中させなくては――。
カレンはゆっくり慎重に歩を進める。散らばる食器、錆びついたキッチンナイフを避けながら、タイル張りの厨房を踏み越えていく。
厨房の奥に、ステンレスの扉が、わずかに開いていた。
おそらく、食糧貯蔵庫だろう。
隠れるとすれば、其処だ。
危険はない――相手は子供だ。
眼を凝らす――貯蔵庫の闇のなか、たしかになにかがいるようにみえた。
――逃げて……
また、さっきの幻聴が、意識のなかに直接きこえている。
その声をふり払うように、カレンは銀色の扉にそっと手を伸ばした。
金属製の扉が、高い軋みを立てながら、ゆっくりと開く。
息をのみながらなかを覗きこみ――そしてカレンは眼を瞠った。
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