第8話 獅子身中の虫
絹木カレン――日常業務においては、彼女の一面しかみていなかった。いや、みえていなかった。
彼女に関する資料の束のうち、特に目を引いたのは
「莫迦な――信じがたいことです……」
報告書を持つ、手の
なんという、数奇な半生。
なんという、呪われた運命。
デスクを挟みソファーにもたれる阿藤社長が、ふんと鼻を鳴らす。
「大企業の人事部の連中は、じぶんには人の本性を見抜く眼がある――と声高にいう。それがじぶんたちの職務であり、それがじぶんたちのスキルなのだと。東くん、果たして彼らのいうとおりだと思うかね?」
葉巻をくわえる阿藤社長は、愉快そうに眼を細めた。
デスクを挟んで立つ東副社長は、口を歪めながら、返答を躊躇う。
「答えはノーだ」
そういい捨て、阿藤社長は鼻から紫煙を吐き出した。
「たとえば、世に経理職員の横領事件は枚挙にいとまがない。二〇〇一年発覚のA県住宅供給公社横領事件の被害額は一四億五九〇〇万。二〇〇五年に発覚した名古屋のS島製パン健康保険料横領事件の被害額は一九億。横領犯である事務長は、みずから率先して保険料を引き上げて着服していたそうだ! 二〇一二年にはゴム資材卸売商社でも横領事件が発覚。逮捕された経理係長はインターネットバンク法人口座の責任者に任命されたのをさいわいとばかり、任命直後から総額五億円の横領に手を染めていた。すべての事件で共通しているのが、横領を働いた経理マンの評判が、地味でまじめだった、信頼できる社員だった、ということ。また、キャバクラ嬢や愛人に貢いでいたというのも共通事項だな。多くの組織において、人事担当者が如何に人の本性を見抜く眼を欠いているかの実例といえるだろう。
そもそも人事部というのは、特殊な専門技術が求められる部署ではない。だから世の多くの人事部社員は、人の本性を見抜くことがじぶんたちのスキルだとじぶんにいいきかせようとしている。だがわたしにいわせれば、職場のなかでしか付き合いがなく、一面しかみえないような人間のすべてを見抜き、信頼するなどありえない。
わが社でそんな横領事件が起こることは、けっしてない。重要な業務を、たったひとりに任せるなどという愚は犯さない。互いに監視させ合い、疑心暗鬼の環境をあえて作り出す。なぜなら、わたしは人事部の人間も経理部の人間も、だれひとり信用していないからだ。けっして他人を信頼しない――それが経営というものなのだ。アメリカの心理学者ダグラズ・マクレガーはXY理論として労働者の自主性や使命感、モラルへの信頼を重んじる経営手法を礼賛したが、あんなものはくだらん机上の空論だよ。人間は互いに疑い合って、初めて道徳的な生き方ができる罪深い生き物だ。たったひとつの例外を除いて、わたしは社員をいっさい信用しない――悪いが東くん、きみのこともね。むろん絹木カレン――彼女のことも」
「たったひとつの――例外とは?」
阿藤社長の表情から、笑みが消えた。
東副社長をじっと見据えながら、阿藤社長はおもむろに答える。
「人間の本性というものは、極限状態に置かれて初めて露わになる。ふだんは紳士ぶっていてもいざ海難事故に巻きこまれたとき女性や子供を見捨ててわれ先に逃げだすような輩をわたしは信頼せん。そう、極限状態でも忠誠を誓える人材でなければ、わたしはけっして信用せんだろう」
阿藤社長は壁面の大型ディスプレイを眺めた。東副社長はあわててその視線を追う。
絹木カレンの視点CCDカメラから受信した映像によると、彼女は下請けの茂楠と、無事合流したようだ。薄暗い廊下の映像が、ときおり乱れながら揺れている。
さもおもしろいショウでも鑑賞するように、阿藤社長はにやりと嗤った。
「あの絹木カレン――人事考課では、業務に対して熱心で任務には忠実、その仕事ぶりは正確無比との判断が下っている。常にクールな態度のため、周囲との綿密なコミュニケーションに関しては減点がつくものの、それを補ってあまりある作業量をひとりでこなしてきたそうだ。氷の女だのロボットだのと、賞賛とも揶揄ともつかぬような渾名をつけられているそうだよ。ま、そんな態度こそが、男子社員からのひそかな人気の要因でもあるようだがね」
「しかし――この
「わからないものだな、東くん。入社から四年が経っているというのに、われわれは彼女のことをなにも知らなかったのだ――こうしてあらためてつぶさに調べてみるまでね」
資料の束から顔を覗かせ、東副社長は慄える口から呪詛のような言葉を吐いた。
「出身地――家族歴――彼女の、父親――」
「そうだ」阿藤社長がさえぎる。「絹木カレンの出身はF県
東副社長の頬から血の気が引いていく。その凄惨な殺人事件については、東副社長もよく知っていた。
事件の背景としてはまず、当時、原発事故被災者や原発労働者に対し、診療を拒否する医療機関が続出したことが挙げられる。放射線に汚染された被曝者を診療すれば、二次被曝や二次汚染の危険があるから、というのが彼らの主張だった。
調査によれば、絹木カレンの実母、原チカは腎臓の持病があったという。定期的な透析治療が必要だったが、事故被災者ということで及び腰になった医療機関がこぞって診療を拒否――結果として、腎不全で死亡している。
絹木カレンの実父、玄四郎はそれから精神を病み、酒浸りの生活を続けたという。精神科への通院歴も確認された。結果、一年後の二〇×△年十月二十六日、診療を拒否したF県M市の病院を襲撃。散弾銃四挺、牛刀七本、金属バットとゴルフクラブ各一本で武装して十三名の医療スタッフを死傷させている。
遺されたカレンはその後、祖父母の養子となり、母方の姓である絹木を名乗るようになった――、
紫煙越しに、阿藤社長は視線を上げる。
「そんな家族歴を持つ絹木カレンが、なぜわが大東亜電力に入社を希望したのか?――東くん、わかるかね?」
「いえ――」東副社長は、ゴクリと唾をのむ。「彼女の母の死、父の逮捕、どちらもそもそもの要因は原発事故――つまりは、われわれ大東亜電力です。話をきくかぎり、彼女にとってわれわれ大東亜電力は、両親の仇敵ともいえる存在のはず……その当の会社に入社するなんて、いったい、彼女はなにを考えているのか――」
「彼女がわれわれを憎んでいるのは、まずもってまちがいあるまい」
阿藤社長は背もたれに体重を預けた。ギシリとソファーが音を立てる。
「しかし――どうもわれわれに実際的な復讐をするというつもりでもなさそうなのだ。そのチャンスはいくらでもあったのに、そんなそぶりもない。では、いったいなぜ彼女はわが社に入社したのか?」
しばし重い静寂が流れ、やがて阿藤社長は語をついだ。
「彼女の仕事ぶりをみて、わたしはなんだかわかったような気がしたよ――彼女はこの大東亜電力で出世をし、重役に就くために業務に励んでいるのだ。だれより会社を憎みながら、だれよりも業務をこなす。そのアンビバレンツな境遇が、彼女の精神をどれほど蝕んできたかは想像に難くない。それなら、業務熱心だがなぜか同僚と打ち解けようとしない、とする人事評価表の文言も頷ける」
「ですが阿藤社長――出世していったいどうするつもりなんです、彼女は?」
「おそらくは」阿藤社長は窓の外、千代田区の絢爛たるビル街を見下ろした。「彼女はわが社の重役となり、発言権を得、そして原発事業を廃絶しようとしているのではないか? 彼女が憎んでいるのは、われわれよりも、むしろ原発そのものなのではないだろうかね?」
「原発事業の――廃絶」
東副社長は、黒縁眼鏡を指でずり上げる。
たかが小娘ひとりが、途方もないことを考えるものだ――いや、世の中についてなにも知らない小娘だからこそ、考え実行できるのか。
原発事業に関わる巨大利権は、大東亜電力だけのものではない。政界・財界・官界・学界・裏社会と、それらトップ層が幅広く恩恵を受けている。大東亜電力の政治献金や大学への研究費寄付金の総額は、国家予算に匹敵するほど巨額だ。経産省の有力官僚は審査なしで大東亜電力役員へと天下りできるズブズブの関係、監視体制などほとんど機能していない。原発技術の輸出には、日本の有名企業がほとんどなんらかの形で関わっている。原発反対を唱えることは、日本の巨大権力すべてを敵にまわすも同然なのだ。
「あっぱれじゃないか!」阿藤社長は、声を上げる。「デモで原発廃絶を訴える輩はいくらでもいたが、内部に侵入して内側から改革しようという人間はいままでひとりもいなかった。いや、いたとしても、そんな正義の意志や信念は、何年も燃え続けることはできない。わが社が掴ませる法外な給与待遇を思えば、崇高な信念など、ものの半年で溶けてなくなってしまうだろう。それでも、彼女はやろうとしているのだ。女だてらに、放射線に汚染された廃墟の故郷に潜入までしてな。皮肉なものじゃないか? 同僚たちから氷の女だのロボットだのと呼ばれるあの絹木くんが、じつはいままでずっと両親への弔いの意志を胸に秘めて業務に当たっていただなんて。あのクールな風貌で、そんな浪花節を地でいくようなけなげな女だったなんて。獅子身中の虫とはこのことだ! 迂闊なことだな、われわれは、ずいぶんと厄介な敵を入社させてしまったようだよ」
「しかし」東副社長は狼狽する。「だったら、なおさら、なぜこの任務に彼女を抜擢したのです? 危険な汚れ仕事ですが、それ以上に、信頼できる社員にしか任せられない任務でもあります――」
阿藤社長の笑みに、黒い邪悪さが増していく。
「彼女はわが社で出世することが最大の目的なのだ。出世を望めばこそ、この任務を断ることはできまい? 出世を望めばこそ、マスコミにリークするわけにもいくまい? それを見越したうえで、彼女の上昇志向を利用できると考えたのだ!」
東副社長の背すじが凍りつく。なんという悪辣な御仁であることか。阿藤社長の悪魔のような笑い声に、東副社長はいまさらながら、戦慄を禁じ得なかった。
「それに、これは彼女のプライヴェートなことだが――彼女はどうも多額のカネが入り用らしいからな。何処までも災難が続くものだ――恋人もまた、元避難民の男とは」
くっくっく――眼を血走らせる阿藤社長の笑みは、もはや狂人のようにみえた。
「彼女、眼の前にぶら下げられた出世とボーナスに対して血まなこだろうよ。いいように利用されているとも知らずにね――いいかね、東くん? 何人たりと、わが社を、つまりはわたしを利用しようなんてゆるさない。他者を利用するのは、常にわたしだ。いつだってそうさ。その役は、世界でわたしだけでいいッ」
阿藤社長はデスクに一枚の資料を差し出した。
「わたしがこの任務に彼女を選んだ理由のひとつがわかっただろう? そしてこれが彼女をこの任務に選んだ第二の理由だ」
東副社長は受け取ったそれにおもむろに眼を落とす。
健康診断結果――絹木カレン。
まるで呪いをかけられたように、東副社長の顔が老けこんでいく。その資料を持つ指から、みるみる生気が抜けていく。
「阿藤社長、これは……」
東副社長は真っ蒼に染まった顔を上げる。恍惚に血走る、阿藤社長の邪眼と、ぴたりと視線が重なった。
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