第5話 遭遇
防護マスクの下、息を乱す。マスクに締めつけられるためか、放射線の影響かはわからないが――意識が、すこしずつ、混濁していく。
五感が朦朧と揺らめくなか、針で刺すような頭痛と眼の痛みだけが、やけに鋭さを増していく。
廃病院の階段を昇る足どりがやけに重い。流れる汗が、とめどなく眼に沁みる。
任務は、まだ、始まったばかりだった。だというのに、疲労はすでに、限界近くまで蓄積している。たいした距離を歩いたわけではないが、この精神状態、肌にまとわりつく防護服の重さ、不快さに、体力はみるみる底をつく。
任務をまっとうできたとして、無事に帰るだけの体力は残るだろうか――やっとの思いで二階まで昇り詰めたカレンは、大きく息を吐いた。
病室が並ぶL字型の廊下を見渡す――記憶を辿り南病棟の見取り図を頭のなかに3Dで組み上げていく。南病棟二階――人影をみた病室の位置を確認。
跫音を殺しながら廊下を進み、問題の病室の前に立つ。
ドアの陰から、そっ――となかのようすを窺う。
ベッドが並ぶだけの、無機質な部屋。壁に掛けられた美しい海の絵はかたむき、いまとなってはなおもの悲しい。
人の姿はない。気配もない。窓辺のカーテンが、ただむなしく強い風に揺れているだけだ。
――引き返して……
ぎくりと背を縮め、カレンは周囲に視線を走らせた。
病室にも廊下にも、だれの姿もない。
だけど――またも、
鼓動が早まる。幻聴にしては、耳に直接ささやきかけるような、生々しい声だった。そして――そう、たしかに子供の声だった。
不気味な符合が頭をよぎる――記憶によれば、南病棟二階は産科のフロアなのである。
ふいに物音が高く響いた。
防護服の下で全身が総毛立つ。
音を辿り、カレンは隣りの病室をそっと覗いた。
無人の病室である。見まわせど、人の姿はない。
だからこそ、なお不気味だった――無人の病室の真ん中に、ボールがてんてんと転がっているのだ。
そんなことが、あるだろうか?
カレンはボールを凝視する。古ぼけた、幼児用のサッカーボール。アニメチックな虎の絵がプリントされており、子供の字で名まえが書かれている――ふるさわ まるお。
乱れていく呼吸を、カレンは必死に整えようとする。
鋭く、重い、金属音に似た耳鳴りがした。
この廃病院への滞在は、砥石で神経を磨がれるような気分になる。
なにかを感じてゆっくりとふり返る――磁石に吸いついたように足が止まった。
防護マスクの下で、表情が凍りつく。
廊下になにかが落ちていた。
窓から漏れる薄明かりに応え、たしかに金属らしいなにかが不穏に光っていた。
しゃがみこみ、それを拾い上げ――ウッと彼女は声を上げる。
手術用のメス。
しかも――真新しい血に濡れている。
「まちがいないわ」
カレンのその声は、じぶんのそれだとは思えないほど、
「ここには――たしかになにかがいる」
ズリッ……ズリッ……
なにかを引きずる不気味な音が廊下に響いた。息を殺し、眼を凝らす。反射的に壁を背にして、廊下の先、薄闇の奥を見据える。
それは、人影のようにみえた。
まちがいない――猿や野生動物のたぐいではない。
信じられないが、人間だ。
背丈は小さい。子供だ――それも、ごくごく幼い子供の後ろ姿。
薄汚れたダボダボのTシャツを着ている――ズボンは履いていないようだ。靴も履いていない。痛ましくも素足で、ガラス片まみれの廊下を歩いていく。
引きずっているものは、腕に抱える、血のような染みがついた白クマのぬいぐるみである。まるでそのぬいぐるみが、唯一の肉親だとでもいうような、もの寂しい雰囲気で。
カレンは息を乱しながら、その信じがたい光景を見届けていた。
いた――生存者は、たしかにいた。
それも子供。
得体のしれないものへの恐怖は吹き消された。じかに姿がみえたいまとなっては、恐怖よりも、母性本能が先に立った。
相手は子供だ――保護しなくては――なんとか保護を。
「待って! 坊や!」
くぐもった声を、廊下に響かせる。
瞬間、子供の後ろ姿が駆けだした。
思いのほかすばやい――追わなくては。
必死に足を動かすが、鉛入りの防護服にゴム長靴姿では、限界がある。しかも廊下にはガラス片が散乱し、引き斃された調度品が、障害物になっているのだ。ガラス片や飛び出た釘に防護服を引っかけてしまえば、そこから死の灰が入りこみ、あっという間に被曝してしまう。
一方、あの生存者の子供の走りかたに、恐怖や躊躇いは感じられない。障害物となったストレッチャーの下でも、小さい躰をくぐらせて、平気で駆け抜けていく。
皮肉なことに――相手はちいさな子供なのに、駆けっこで容易に追いつけない状況が、そこにはあった。
子供の跫音は、あっというまに廊下を駆け抜け、風のように階段を駆け下りていく。
〈通信モード〉のボタンを押し、カレンは腕時計に向かって声を上げた。
「黒草病院南病棟の二階にて、生存者を確認。子供です――子供。ただちに保護に向かいます」
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