第4話 約束

「どうしたの? 元気ないよ?」

 エプロン姿の侑梧ゆうごが穏やかな笑みを浮かべながらティー・カップに温かい紅茶をそそぐ。

「わたしにもいろいろ悩みがあるのよ。子供には、わからないでしょうけど」

 皮肉を意にも介さないようすで微笑みながら、侑梧は手慣れた手つきでテーブルに料理を並べていく。ふたつ年下の優男との同棲は、もう半年を迎えていた。

 バゲットにトマトやアンチョビーをのせたブルスケッタ。

 サーモンのカルパッチョ。

 蛸のグリーンソース和え。

 カレンの好物ばかりだ――というのも、当たり前の話なのだが。

 ふたりが知り合った場所は、イタリア料理を供するダイニング・バーだった。食べ物の趣味は、お互い知り尽くしているといってもいい。侑梧はカレンの食が細いことをよくわかっている。だから、すこしでも食欲をそそるように、彩りのバランス、見栄えのよい料理を作りたがる。そのささやかな気遣いが、彼女には嬉しい。

 ひと口食べると、沈んだ気分のなか、食欲がわずかに顔を覗かせる。もちろん罪悪感がないわけではない――十年前の原発事故以後、放射性物質は風に乗って拡散し、土壌も海も広範囲にわたり汚染された。特に事故現場周辺の農家や漁師への打撃の大きさは惨憺たるものがあった。追いつめられた小売り業者による産地偽装が横行するのも、無理からぬ話である。まるで十キロのスピード違反に対してそうするように、国もやがて産地偽装を黙認するようにさえなった。この国において、安心して口にでき、子供に与えられる食品は、ほとんど消えてなくなったといえる。

 しかし、大東亜電力の社員だけは別だった。大東亜電力とその家族だけが買い物できる専用スーパー「JOYOジョーヨー」には、厳格で高精度な検査により放射性ヨウ素およびセシウムが不検出とされた食品ばかりが安価で並んでいる。大東亜電力の手厚い福利厚生の一環である。

 向かい合って座る、侑梧の笑顔がわずかに翳った気がした。

「カレンさん、きょうはすこしへんだよ。なにかあったよね? ぼくにもいえないことなの?」

 男なのに観察眼が鋭いのは、職業柄、目配りができるというわけだろうか。憂いがよぎるカレンの表情に気づかないほど、鈍感ではいてくれないらしい。もっとも――じぶんがどれだけの痛みや苦しみを抱えていても、それより優先して相手を気遣える男だからこそ、パートナーに選んだのだが。

 危険な任務への不安からだろうか――体調が芳しくない。妙に躰がだるいし――時折、意識が飛んでいるような気がする。集中力が、確実に、落ちて――いる。

「――出張に行くことになりそうなの」

「出張?」

 侑梧は落ち着かないしぐさでそうくり返す。そのまなざしは、まるで仔犬のように慕わしい。

 侑悟は何処か、父親に似たところがある。カレンはときどき、そんなふうに思うのだ。カレンの父親も、侑梧とおなじような柔和な雰囲気の優男だった。変わり者で、娘に対しても「カレンさん」と呼ぶのがふつうだった。いま思えば、幼い娘をひとりの淑女として扱うことで、その扱いにふさわしい育ち方をしてほしかったのだろう――その思惑の結果は、ともかくとして。

 思い出すたびに、苦しくなる。父は、家族への愛情が、とても深い人だった。侑梧とちがって料理はまるでだめだったけど――それでも、父親の作る不器用な卵焼きが、カレンはとても好きだった。

 恋人を安心させるように、カレンは笑う。

「出張といっても、すぐに戻るわよ――すぐにね。それに、この仕事がうまくいけば、ボーナスも出るの。そうなったら、もっと広いマンションに引っ越そうか。キッチンの設備が整ってるとこなんか、侑梧もうれしいでしょう」

 安心したように、侑梧は微笑む。

「すぐ帰ってきてくれるなら、いいんだ。ごめんね、ぼくの稼ぎが悪いから、カレンさんにばかりむりをさせて」

 むりなものか――阿藤社長に渡された特製のデジタル腕時計に眼を落としながら、カレンは想う。必死に、涙を堪えながら。

 入社以来これまで、カレンは出世のことばかり考えて生きてきた。複雑な生い立ちのせいだろうか、彼女の上昇志向はひととおりでなかったといえる。仕事が終わってからも、まるで気が休まらないのだ。いつも焦燥感に追われ、余裕がなく、夜中まで勉強に勤しんだ。周りと競い、そうすると疎まれて、気がつけば敵ばかりになっている。そういうコミュニケーションのとりかたしか、できなかった。まいにち理由もなく神経がささくれだち、なにをやっても楽しめない。だれにも心を開けない。夜の街を飲み歩く癖がついたのも、そういったストレスの反動だったにちがいない。

 行きつけのバーで彼――賀来侑梧かく ゆうごに出会ったのは、一年まえのことだ。彼は新人スタッフで、暴走族上がりのチーフにいつもどやされていた。だけど、たどたどしくも一所懸命な給仕と接客には、ずいぶん癒されたし、救われたものだ。

 いつしか、カレンは侑梧に会いたくてバーに通うようになっていた。カウンターにカクテルや料理を供する、かれの細くて白い指が好きだった。かれの料理をする手つきが、まるで楽器を演奏しているかのようにみえた。

 カウンター越しの会話をかさね、やがてナイーブな話題にも踏みこむようになった。

 侑梧はまるで罪を告解するように打ち明けた――自分はF県黒草町の出身だ、と。

 F県黒草町――原発事故に見舞われ、高濃度の放射線に汚染された、見棄てられた町。

 かつて美しかった町を、侑梧はやがて懐かしそうにぽつりぽつりと話しだした。故郷を追われ、避難民として見知らぬ土地に棲むことを強いられたこと。被曝者として差別されてきたこと。そういったナイーブな過去が、彼の繊細な表情に陰となって顕れていた――笑顔なのに何処か悲しそうな、その表情に。

 渇ききった母性本能ゆえだろうか――カレンと侑梧が一緒に暮らし始めるまでに、そう長い時間はかからなかった。

 いま、こんなに穏やかな温かい気持ちで暮らせるのは、侑梧のおかげだ――心の底から、そう思える。

 だけど、そのちいさな幸せには、あまりにも早く、大きな亀裂が走ることになる。


 ――本人にはまだお伝えしていないんです……。侑梧さんには、おそらくショックの大きな病気でしょうから。絹木さん、恋人であるあなたにまず、お話しましょう。


 侑梧の主治医は溜息を吐き、カレンにいった。初老を迎えるその表情を、物憂げに歪ませながら。


 ――――痛ましい話です。彼は故郷を失った。運命は、彼からまた大事なものを奪おうとしている。カレンさん、どうか――侑梧さんがどうなろうと、最後まで支えになってあげてほしい。わたしには、ただそう願うことしかできません……。


 カレンは言葉を失った。世界からあらゆる音がやみ、色が消えていった。

 彼女はあわてなかった。狼狽したりもしなかった。ようやく掴んだ幸せが、指の隙間から、砂のように零れ落ちていこうとしているのに。

 そんな気がしていた――

 悲しいことばかりの人生のなかで、彼女はすべての不運を静かに受け入れる、あきらめにも似た人生観を育んでいた。

 かつてのF県の避難民に、いまになって時限爆弾のように癌の発症が続発していることは、新聞やテレビでも取り沙汰されている。カレンもそのことは、よく知っていた。事故当時、侑梧は十四歳だった。細胞分裂が活発な成長期に被曝すれば、癌発症のリスクはさらに高くなる。

 呪われた当たりくじを、彼は引き当ててしまったのだ。


「ぼくも、もっと稼げるようにがんばるから。カレンさんのことは、ぼくがずっとそばにいて、守ってあげるから――」


 食卓をはさみ、侑梧が笑顔でそういうのを、カレンは腕時計にじっと眼を落としながら聞き届けた。

 時計のディスプレイに浮かぶデジタル数字が、みるみる切り替わっていく。

 それはまるで、時間が生き急ぐように。そしてまるで、爆発の迫る時限爆弾のような不穏さで。

 

 不運続きの人生だった。あきらめてばかりの人生だった。だけど――このうえ侑梧まで失いたくはない。

 この任務だけは、絶対に成功させなければ。たとえどんなに危険であっても、ほかに方法がないではないか。

 そして、原発ピグミーと渾名される生存者。放射線の影響を受けず生き続ける彼らの特異体質の謎を解ければ、ひょっとすると、侑梧の癌治療の糸口になるかもしれない。

 わずかな希望だったが、それに賭けるしかなかった。女が命を賭けるには危険すぎる任務だったが、受けるしかなかった。彼女には、ほかに、すがるべき救いなどひとつもなかったから。


「すぐに帰ってくるから――侑梧。ほんと、すぐに帰ってくるからね――」


 頬を伝う涙をみせないよう、彼女はぎゃくに侑梧に顔を近づけて、かれの蒼白い頬にキスをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る