第1話 色が消えた町

 怯えるようなエンジンの唸りが、無人の町に溶けていく。気が狂いそうな静寂のなか、絹木きぬぎカレンはふと、ウミネコの声をきいた気がした。

 車窓から空を仰ぎみる――こめかみに装着するCCDカメラがその視点を追うが、ウミネコの姿は映らない。彼女とカメラが見上げる空には、世界が終わってしまったような曇天が渦を巻いているだけだった。

 灰色であるのは空ばかりではない。まるで色覚が死んだかのように、町にも一片の色をも見つけることは叶わない。深い亀裂が走り、いびつな形に隆起したアスファルトが地平線の涯まで続き、その両脇には夥しい灰色の廃墟群が朽ち果てている。割れた窓ガラス、褪せたポスター、黒い重油をかぶったような不気味な雨だれの跡。

 国道を走る車はただ一台――白装束のふたりを乗せて揺れる、特別製の白ワゴンだけ。

「草木も生えない――とはよくいい表したものですね」

 運転席の茂楠もくすが、息を切らしながらいう。

「絹木さん――あと十分ほどで着くはずです」

 ハンドルを握る茂楠は、助手席まではみ出しそうなよく肥った大男だ。冬眠前の熊のような巨体で防護服と防護マスクをかぶっているのだから、苦しくないわけがない。

 カレンは肥った男があまり好きではなかった。帰還不可能区域入域前に、息を乱しながら防護服を着る茂楠は、そのときすでに人のよさそうな丸顔を、たっぷり汗にまみれさせており、見目爽やかとはとうていいえない光景だった。

 茂楠は、カレンの助手として急遽、下請け会社から派遣された男である。名まえ以外の、素性は知れない。もともとカレンは仕事で接する人間とは極力個人的な関係をもたないよう距離を置いている。茂楠の場合は特にそのほうがいいだろう――詳しい素性を互いに知り合うには、今回の任務はあまりに危険すぎた。お互い、もしものことがあったとしても悲しまないで済むよう、情を移さない、乾いた関係でいるほうがいい。

 車窓の向こうを見据える――余人には説明もできないほど、複雑な心持ちで。

 無人の町。色褪せ、生気を失った、無惨な光景――だけど、それでもカレンにとっては、眼に焼きつけておかなければならない光景だった。

 いまやこの町は、そのすべてがまるごと廃墟なのだ――地獄のような地下火災が収まらないペンシルバニアの炭鉱町セントラリアをも上まわる、超巨大規模のゴースト・タウン。地獄の闇に向かって伸びるような、長く不気味な一本道。

 十年前、東日本を揺さぶった大震災の傷痕は、いまも至るところで生々しく残っている。道路脇には粉々に倒壊した建物の瓦礫が積もり、そのそばには錆びついた小型の重機が復興をあきらめたように打ち捨てられている。もっと奇妙なのは、津波に打ち上げられてビルに突き刺さった小型漁船の姿である。港から数百メートルも離れた建物屋上に船首から突き刺さりながら朽ちるその異様さは、まるで悪い冗談のようにも、この町のための不気味な墓標のようにもみえた。

 深すぎる静寂のなか、エンジンの音だけが鳴り響く。

 やがて煤けたアーチ看板がふたりを乗せる白ワゴンを出迎えた。


 ――原子力 灯せ未来に 希望の火

          ようこそ黒草町へ――   


 町が作ったその標語の皮肉さに、白い放射線防護マスクの下、カレンの華やかな美貌が歪む。

「絹木カレン、黒草町ポイント二三五に到着」

 腕時計を〈通信モード〉に切り替え、彼女はくぐもった声で作戦本部に報告する。

「鋭意、目標の探索を続けます」

「ひどい――光景ですね」

 運転席の茂楠がぽつりという。絹木カレンは、無言でうなずく。

 まるでモノクロ映画のように町から色が失せている最大の理由は、いっさいの草木が、残らず枯れ果てているからである。いまやこの町の植物はタールが溶けるようにどす黒く朽ち果て、花の彩りはおろか、青々とした葉の一枚さえみることはかなわない。

 はあきらかだが、植物の黒化のメカニズムは不明――現在の町の荒廃が黒草町という不吉な町名に、すでに予言されていたかのようだった。

「特にさっきの標語の看板――皮肉というかなんというか。未来だとか希望だとか――この黒草町には、すべて失われた言葉じゃありませんか」

「それ以上は、なにもおっしゃらないほうがいいわ」カレンがさえぎる。「茂楠さん、原発推進愛国者法についてはよくご存じでしょう? 反原発的発言は、国家にそむく退廃思想とみなされ、逮捕もありえます」

 逮捕されるだけなら、まだいいほうなのだ――退廃思想者は氏名・住所・電話番号がインターネット上に公表されるという罰則により、近所での白眼視や職場での苛烈ないやがらせ、全国から殺到する非難の電話を受け、自殺に追いこまれる者も後を絶たない。

「でも――いま、ここにはぼくらふたりしかいませんよ」茂楠は気楽そうに笑みを浮かべる。「絹木さん――あなたがぼくを密告すると?」

「わたしにも立場というものがあります――以後、慎むように願いします」

 機械音声のように冷やかなカレンの物言いに、茂楠はふてくされるように答えた。

「ご立派です――絹木さん、あなたはほんと、ですよ」


 絹木カレン、二十六歳――彼女は日本の電力供給を一手に担う一大企業、大東亜電力株式会社、原発事故補償相談室に籍を置く若手社員である。

 無人の町。死の町。ゴースト・タウン。

 あらゆる負の修辞が試されたであろうこの黒草町に、彼女はこの上なく皮肉な任務を負ってやってきた。

 すなわち、生存者の捜索――それがどれほど狂気じみた任務か、彼女自身がいちばんよく理解しながら。

 十年前――二〇××年、観測史上最大といわれるマグニチュード九.〇、震度七の未曾有の大震災と、それにより引き起こされた津波でF県F1原子力発電所が崩壊。冷却システムが作動せず炉心は制御を失って燃料棒が溶融、いわゆる炉心溶融メルト・ダウンを発生させた。さらには、圧力容器に溜まった水と超高温の燃料棒が接触、水蒸気爆発を引き起こし炉心は完全に露出。甚大な量の放射性物質「死の灰」が、大気中に漏出したのである。

 事故原発から二〇キロ圏内はまもなく政府によって帰還不可能区域に指定された。住民は強制的に避難させられ、該当区域は高圧電流フェンスと鉄条網で厳重に仕切られることになった。

 いま、帰還不可能区域の現実について、国民たちはなにも知らされていない。検問が置かれ、入域は禁止され、報道規制が敷かれ、「原発事故については完全に収束した」という大本営発表以外の情報は、完全に、封鎖されている。

 もちろん、民衆の反発もあった。デモもあった。しかしそれらの声は原発推進派によって根絶やしにされた。いわく、原発は国策であるのだからそれに異を唱える不穏分子は非国民だ、原発がなければ日本経済が崩壊し、野蛮で無法な石器時代に戻ることは明白である、反原発は思想テロにほかならない――ついには原発推進愛国者法が制定され、反原発的思想を持つ疑いがあるだけで裁判所の令状なしに家宅捜索と証拠物品の押収、逮捕・拘留ができるなど、緊急時であることを理由に人権に過分の制限が加えられるようになったのである。

 絹木カレンと茂楠――彼らふたりこそ、この帰還不可能区域の現実を眼にする、数少ない民間人なのだった。

 突きつけられる残酷な光景に、ふたりは言葉を呑まざるを得なかった。

 有体にいえば――そう、十年経ったいまでさえ、事態はなんら収束をみせないでいた。

 それはまるで、時間が止まってしまったかのようである。人の制御から離れた原発は、夥しい放射性物質を、気まぐれに、大量に垂れ流しながら、ただ、この廃墟の町が神域であるとばかりにあらゆる人間を寄せつけないでいた。


 ふたりを乗せた白ワゴンが走る黒草町は、その帰還不可能区域のじつに中心部であり、大東亜電力が極秘裏に調査した結果では、一帯の土壌に沈着したセシウム量は一平方メートルあたり七億ベクレルにも達する。本来、人間が生活できるような環境でないのは、だれの目にもあきらかだ。

 カレンの脳裏に、戦慄と不安が渦を巻く。

 かつて、原発事故を収束させるために大量の日雇い労働者がこの町に連行されてきた。日本各地のドヤ街から、騙され、煽られ、放射線の危険について知識の乏しい者ばかりが集められ、危険な業務の最前線に大量投入されたのだ。夥しい量の放射線を被曝した彼らは、安い賃金を渡されて最後に頼るべき国からも見放された。

 彼ら日雇い労働者と絹木カレンには、大きなちがいがひとつあった。彼女は名の通った大学を首席で卒業した才媛である。鉛のプレートを仕込んだ特製防護服を纏い、ヨウ素剤を服用して甲状腺への放射性ヨウ素の蓄積を防いでも、放射線被曝の危険を完全に防げないことを知っている。この危険地帯で活動できる時間が、ごくごくかぎられていることを知っている。不妊。脱毛。白内障。放射線を浴びることによる人体への影響を、だれよりも正確に認識している。

 正しい知識を身につければ恐怖を乗り越えられる、というのは牧歌的な考えだ。真実は奇妙だが逆である――知識の深さと広さが、恐怖をさらに肥大させるのだ。

「目標地点です、絹木さん」

 茂楠の声とともに、白ワゴンが正門前で静かに停まる。

 顔を上げると、風が噴き乱れる大規模駐車場のむこうに、コンクリート造りの建物が白い壁をくすませながら物寂しくそびえていた。

 乾いた咽喉のどで唾を呑み、覚悟をきめてワゴンのドアを開ける。

 白いゴム長靴が、足もとの瓦礫を踏み砕いた。

 腕時計のスイッチを〈ガイガーカウンター・モード〉に切り替える――デジタル表示の数値が、ゾッとするようなめまぐるしい上昇を始める。

 正門の前に立つ――吹きすさぶ強い風によろめきながら。

 土埃をかぶった御影石の表札には「黒草くろくさ病院」と刻まれていた。

 病床数じつに四〇〇、中央診療施設棟を囲むように四つのL字型の病棟が配置され、計五棟の病棟を擁する地域最大規模の大病院である。

 カレンはその建物に漂う不吉さに戦慄していた――ところどころ窓ガラスが割れ、なかのカーテンが風に揺れるさまは、まるで亡霊が怨めしげに手でも振っているかのようだ。

 植えこみは灰色に枯れ果て、錆びついた医療用バスが従者のように運転手の帰りを待っている。

 無人のストレッチャーが風に押され、油のとっくにきれた車輪を軋ませながら敷地内をひとりでに動く不気味さには、肝が冷えた。

 事故後十年経ったいまなお、建物は草木にも埋もれず、蔦も這わないために、在りし日の近代的な横顔と威風を残してはいる。だけど、だからこそなお、無惨だった。死、そのものに支配された廃病院だった。

 吐きそうだ――気分が悪い。

 唾を呑み、カレンは必死に嘔吐を堪える。

 息が苦しい気がするのは、慣れない防護マスクのせいだけではないだろう。

 彼女の装着する腕時計型ガイガーカウンターの数値は現在、毎時一〇〇〇マイクロシーベルトを振り切っている。

 異常な数値だ――それはじつに国際放射線防護委員会ICRPが定める積算放射線基準値に匹敵する。

 不安を煽るように強い風が噴き乱れる。壊死するように黒化した木の枝が、招かれざる訪問者を脅かすように音をたてて暴れた。

 カレンはふと足もとを見やり――ささやかな、しかし奇妙な光景に眼を瞠った。

 が落ちていた。

 背骨のねじれ曲がった、畸形の魚が、病院の正門前に落ちていた。

 海岸から何百メートルも離れたアスファルトの上に――真新しい魚が。

 そしてその魚の躰に齧られたような跡を発見したとき、彼女はアッと声を上げた。

「奇妙ですね」

 そばに立つ茂楠が、カレンに口添えする。

「無人の町なのに海から魚が運ばれて――しかも食い散らかされているなんて」

 その声は、カレンの耳には、ほとんど入ってはいなかった。

 彼女はつぎの瞬間にはすでになにかの気配を敏感に感じとり、病院の建物を見上げていたからである。

 カレンの華奢な背すじが凍りつく。

 四階建ての二階――割れた窓の間、人影がじっとこちらを見下ろしていた。

 薄暗くて、その顔までは、はっきりとわからない。だけど、みえなくても、視線というものはばっきりと感じとれるものだ。

 しかもその視線が、なにがしかのを湛えていたとすれば、なおさらである。

 鼓動がみるみる早まっていく。呼吸が乱れ、汗が頬を伝う。

「なんです? 絹木さん、どうしたんです? なにかいるんですか?」

 茂楠もカレンの視線を追って建物を見上げた。

 しかし窓辺の人影は、幽霊のようにすでにその姿を消している。

 わかっている――わかっていた。

 生存者が、この建物にいることは。

 いるはずのない生存者が――

「――

 探し人の名を、彼女は呼んだ。たしかめるような、ゆっくりと、しかしはっきりした口調で。

 瓦礫を踏み越え、病院の敷地に足を踏み入れる――そこが〈彼ら〉の領域であることを、彼女は知っていた。

 引き返せ、というように、風が激しい音を増す。

 そうしたいのはもっともだった。それでも、彼女には踏み入らざるを得ない理由があった。

 高濃度の放射線のなか、彼女に残された時間はそれほど多くない。

 女性作業員や看護婦の法的被曝限界値は五ミリシーベルト/三カ月――、

「五時間が――リミットというわけね」

 現在の時刻、午後一時――防護マスクのその下で、苦々しげに、彼女は唇を噛みしめた。

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