第2話 都市伝説
「原発ピグミー――という都市伝説を、きみは知っているかね?」
東京都千代田区に燦然とそびえる宮殿のような本社ビルの最上階、ヴィクトリアン・スタイルで統一された社長室で、大東亜電力社長、
純金製の鷲を象る電気スタンドに飾られるデスクを挟み、革張りのソファーにゆったりともたれる阿藤社長は、慣れたしぐさでパルタガスの葉巻に火をつける。オールバックにまとめたロマンス・グレーの髪、脂ぎった浅黒い肌、彫の深い精力的な顔だち――輝くような光沢の生地で仕立てたダブルのスーツを脱いだとしても、かれの威風は微塵もそこなわれないだろう。
絹木カレン――眼鏡の奥の切れ長の眼、通った鼻すじ、両端がわずかに上がるすこし厚めのセクシーな唇、艶のある長い黒髪――均整のとれた肢体をスーツに包んだ彼女――幼少のころより絶えず才色兼備と謳われ年上の男でさえかしずかせてきた彼女にとって、これほどのプレッシャーをしいられる相手は初めてだった。
「原発ピグミー――ですか」
眼鏡の位置を整えながら、無機質な声でカレンは答える。
「インターネットで見聞きした程度の知識なら、じぶんにもありますが――」
原発ピグミー――十年前のF1原発事故以後、インターネット上を中心に盛んにささやかれるようになった、一種の都市伝説である。
二〇××年三月十一日に起こった史上最悪の原発事故、F1原発事故。炉心溶融から水素爆発を引き起こし、大気中に大量の放射性物質が漏出した。発電所の半径二〇キロ圏内は高濃度の「死の灰」に汚染され、帰還不可能区域に指定、住民たちはひとり残らず強制退去を余儀なくされた。
そんななか、ゴースト・タウンと化した帰還不可能区域の中心たる
それは一見、もの悲しく荒んだ廃墟の町並みが写されているだけの、なんの変哲もない遠景写真だった。
だが、画像加工ソフトである民家を拡大してみると――だれもが戦慄を禁じ得なかった。
だれも棲まないはずの廃屋の窓に――どういうわけか、人影らしきものが写りこんでいたからである。
しかも、その人影は、不気味なことに、グローバル・ホークのカメラに向かってピース・サインをしているようにみえた。
黒草町といえば、二〇××年三月二十日、重機を区域外に運び出そうと入域した女性数名がこぞって体調不良を訴え、わずか二時間後に全員死亡するという凄惨な事件も起きた、いわくつきの超危険区域である。欧州放射線リスク委員会が掲げる年間の許容被曝放射線量は〇.一ミリシーベルトといわれているが、黒草町の空間放射線量を一年ぶんに換算すると八〇〇〇ミリシーベルトを上まわる。この線量は、短時間で被曝すればどんな人間でも生きてはいられない危険な数値なのである。
そんな地獄のような廃墟の町に写った謎の人影――この写真をきっかけに、インターネット上では虚実ないまぜの怪情報が錯綜した。
まさか、あの危険区域に生存者がいるのか?
いや、考えられない――どうやっても人間の生活できる環境ではない。新種のUMAか心霊写真と考えたほうが、まだ現実味がある。
画像加工ソフトによるだれかの悪戯では?
莫迦め、シミュラクラ現象も知らないのか――人間の脳は逆三角形に配置された点を視ると自然に人間の顔を連想して誤認してしまう。火星の人面岩も、一時期さわがれた人面魚や平家蟹も、すべての心霊写真も、これでぜんぶ説明がつく。今回の件もまさにその好例なのさ――云々かんぬん。
テレビの特集番組で、超常現象に否定的な立場をとる物理学者がこう語った。
「ピース・サインをしているというくだんの人影の身長を、周囲の建物と比較して試算してみました。せいぜい五〇から六〇センチ――これはね、みなさん、乳児か新生児の身長とおなじ数値です。そんな幼い子どもがあの放射線にみちた廃墟の町で生き延びている? まして、カメラに向かってピース・サインを? ひとことでいえば、ありえない。ふたことでいうなら、ありえない上に、莫迦げている」
しかし、すでに大衆の間に燃え広がったこの写真への関心は、容易に収まることはなかった。
ほどなくして、果敢にも帰還不可能区域に不法入域し、撮影した映像をインターネット上の動画サイトに投稿する輩が続出。
砂浜に真新しいちいさな足跡をみただとか、何処からともなく子供の声がきこえただとか、缶詰などの真新しい残滓をみた、といった奇怪な目撃例が相次いだ。
高線量の放射線で汚染され、本来なら人間が生きられるわけもない超危険区域で、どういうわけかたくましく生き続ける謎の生物がいる――そんな都市伝説のあらたな主人公、それが原発ピグミーである。
「反原発を唱える連中の、姑息ないやがらせかとも思っていたんだ――さいしょはね」
阿藤社長は皮肉めいた笑みを浮かべ、オーク材の書斎デスクに数枚の写真を並べてみせた。
カレンはウッと息をのみ、それらの写真を喰い入るようにみやる。
それは瓦礫にもたれかかるように息絶えた、異形の死骸の写真だった――絹木カレンが、これまでにみたこともないような、謎の生物の。
血と傷にまみれた全身に体毛はいっさいなく、頭は異様に大きい。肌は蒼白くぶよぶよしており、顔といわず手足といわず全身に紫色の血管が刺青のように不気味に浮きあがっている。生まれたての雛鳥のような不気味な顔貌は、幼いようにもみえるが、ぎゃくに年老いているようにもみえた。指の数は五本――手足の形状をみるに、イヌやブタではなさそうだ。ついいましがた死んだばかり――そう思わせる生々しい、真新しい死体だった。
「社内で調査班を組んで、帰還不可能区域を調べさせた結果がこれさ」
阿藤社長は、さも不愉快そうにいった。
「絹木くん。それがいったいなんの死体だと思うかね?」
「サル――でしょうか。それとも、まさか――」
人間。
それも――ごくごく幼い子供。
いや、そんな莫迦な――カレンは眼鏡のブリッジを指でずり上げ、懸命に動揺を押し殺そうとする。
ありえないことだ――黒草町は、人間が、まして子どもが生存できる環境ではない。
しかし、死骸を捉えた写真の説得力は、胸に迫るものがあった。
「きみもおなじ考えらしいな、絹木くん。まさか――とは思う。しかし、人間の死体であるようにもみえる。謎の生物の死骸――まるで、モントーク・モンスターさ」
二〇〇八年にニューヨーク州モントーク岬に打ち上げられた謎の生物の死体は、その正体についてさまざまな議論を呼んだ。くちばしがあるようにみえ、体毛のないこの奇怪な生物は、発見現場付近に軍施設があったことから遺伝子操作で実験的につくられたキメラだという説までぶち上げられた。じっさいのところは、疥癬に罹り体毛を失ったタヌキであるという結論がもっとも有力視されているのだが――。
「モントークの怪物のように、真相は、なんでもないようなものかもしれん。しかし、そうでないかもしれないのだ。無責任な放言であるとはいえ、あの一帯には生存者がいるらしいと、ネット上に目撃証言まで挙がっている。調査をしないわけには、いかんだろう?」
「にわかには信じがたいお話です」
カレンの返答に、阿藤社長はかぶりを振る。
「絹木くん、きみの気持ちはわかる。放射線の危険についても致死量についても、きみはよく知っているだろうからね。黒草町で暮らせば被曝量は年間八〇〇〇ミリシーベルトに達するという。莫迦げた数値だ、人間が、それも子供が生きられる環境じゃないことはあきらかなのだ。わたしとて、こんな調査報告をしてきたスタッフなどぜんいんクビにしてやりたいぐらいだよ。しかしこの写真はどう片づければいい? この無惨な謎の死体は? これがネットに流出でもしてみろ――反原発派の左翼どもは、嬉々として騒ぎだすだろう。『原発に頼った結果がこれだ、生命の安全より経済やエネルギーに重きを置いた罪への警鐘だ』――大衆は単純だ、ひょっとすると、潜在的な世論は一気に原発廃絶に向かいかねない。むろん、心配するような事態ではない。だが、好ましい事態ともいえまい。原子力発電は非常に重要で安全な事業――われわれはこれまで常にそう叫んできたし、これからもそう叫ばなければならない。それについて大衆どもにわずかたりと疑問を差し挟ませてはならないのだ。それについては、絹木くん――きみもよくわかっているだろう?」
カレンは眼を伏せ、うわずった声で答える――「心得ております」
そう、原子力はほんとうに重要で安全なエネルギーなのだ――大東亜電力にとって。
日本の電力供給は独占事業であり、需要と供給のバランスを図る市場の原理が働かない。だから日本の電気料金は総括原価方式で決定する。これは電力会社の資産に報酬率を掛けることで利潤を設定し、それに沿って電気料金を決定するという、自由経済社会においてきわめて特異な方式である。
通常の企業であれば、売上のなかの利益率を高めるためにはコストを下げる企業努力をせねばならない。しかし電力会社はその真逆で、電気の供給にコストをかけるだけかけて、報酬率を掛けるべきレート・ベースたる総括原価を吊り上げれば吊り上げるほど、比例して利潤も大きくできるのだ。
だから、電力会社が利潤を最大限に膨らませるためには、もっともコストの甚大な発電方法を採用する必要がある――それが原子力発電なのである。
原子力発電所は建設費が巨額で、一基あたり五〇〇〇億円を悠に超える。研究開発のための特定投資も高額である。それらはすべてレート・ベースとして計上され、電気料金に上乗せすることができるのだ。原子力発電は低コストだと長らく喧伝されてきたが、じつのところそんなものは燃料費だけを切りだしてみせた数字の上でのカラクリのことで、開発・立地・国の財政支出などの初期投資、揚水発電などの追加設備、核廃棄物の処理、管理費用などを合算すると、発電コストは火力や水力より格段にハネ上がるのである。現在、大東亜電力が世界に名だたる大企業に躍進できたのは、原価の見積もりを甘めにどんぶり勘定してきた不正のほか、なにより超高コスト発電方式、原子力発電による暴利の搾取があったればこそなのである。
もちろん、原発最大のデメリットとして、核燃料や核廃棄物などの放射性物質の危険性、環境への悪影響などはある。しかしそれらのリスクについては、原発や再処理工場、核廃棄物埋め立て施設の立地を都市部ではなく地方に押しつけることで回避できる。都市部に本社を構える大東亜電力からすれば、地方の人間がどうなろうが、しょせんは他人ごとでしかない。
大東亜電力が巨額の広告費を投じて喧伝してきた「原発は安全・必要」のスローガンはけっして嘘ではない――大東亜電力にとってはこの上なく安全で必要なのである。
「十年前のあの忌まわしい原発事故以来、先進国を中心に欧米諸国はすでに原発に見切りをつけ、脱原発を実現しつつある。しかしわれわれとしては、ドル箱ともいえる原子力発電所を手放すわけにはいかない――絶対にだ!」
阿藤社長は頭を抱え、溜息を吐く。
二〇××年三月の原発事故を受け、安全性に大きな問題があることが露呈した原子力発電所は、全基、順次停止することになった。その数、じつに五十と四基。大規模な電力不足が懸念されたが、結果からいえば計画停電などいっさい起こらなかった。原発が稼働しなくとも、水力・火力発電のみで日本の総電力需要を賄ってなお余りあるという事実が広く露呈してしまったのである。
原子力発電の存在意義は、根底から一気に揺らいだ。いままで支払い続けてきた高いリスクとコストはいったいなんだったのか。避難区域の住民の苦労はなんだったのか。原発廃絶に向けて、市民活動の勢いが増すのは必然といえた。
「もちろん、わが大東亜電力はつねいかなるときでも盤石だ。仮に一部の抵抗勢力があったところで、痛くもかゆくもない。政府官僚にカネをばら撒き、強引に原発の再稼働を進め、原発推進愛国者法をでっち上げ、反原発思想家は残らず逮捕。けっきょくいまでは事故前と変わらない稼働状況になっている。批判はあった。だが、それがいったいなんになった? 彼らにはなにもできんよ、なぜなら、現代社会は電気なしでは一秒たりと動かない――そしてわれわれこそが、その電気を牛耳っているからだ。消費者どもは電気を使っているつもりでいるが、そのじつ、彼らは電気に使われているのだよ。そんな愚民どもが、われわれの経営方針を拝金主義だの営利第一だの人命軽視だの暴利だのと声高に非難したところで、手のひらの上で猿が暴れているほどのこともない。
この国を実質的に支配しているのは、われわれなのだ、絹木くん。いまや国会議員の半数はわが社の社員で占められている。官界、学会、警察、マスコミ、芸能界、裏社会に至るまで、そのトップを占めているのはすべてわが社の息のかかった連中だ。学者にカネを掴ませて『放射線なんていくら浴びても健康に害はありません。むしろアンチエイジングやダイエットに効果的です』などとテレビでいわせれば、アホな主婦どもはすぐに盲信してくれるだろう。わたしの愛人でもある子飼いのアイドルグループに『原発☆I NEED YOU』と歌わせれば、オタクたちは熱狂しながらロマンスを乱舞するにちがいない。
それでも反原発を叫ぶ者があれば、行って利権を掴ませればいい。放射線は眼にみえないが、カネは眼にみえるし手にも触れられる。将来のみえないリスクより眼の前の現ナマ、人間はそれになにより弱いのだ。
われわれは、いままでずっとそうやって儲けてきたし、これからも儲けていくだろう。いや、これまで以上に儲けなければならない。わたしの幸福な老後のため、そしてわが社の地盤をわが子の世代に受け継がせていくためにね」
阿藤社長はデスクに飾られる帆船模型を眺め、ゆったりと紫煙をくゆらせる。
「しかし、だ――絹木くん。原発ピグミーの問題は、わが社の牙城を崩すような醜聞ではまったくない、まったくとるに足りない些末な問題ではある、が――それでも目下、最大の脅威といえる。〈彼ら〉が表舞台に上がれば、わが社への非難は国際規模で鋭さを増すだろう。放射線にまみれた廃墟の町で生きる憐れなストリート・チルドレン! センセーショナルなインパクトだ! 世界のマスコミどもが飛びつくぞ。そうなればわれわれの金儲けにもいささか支障をきたしかねない。冗談じゃない、一円たりと、だれにもわれわれの荒稼ぎの邪魔だてさせてはならん! 〈彼ら〉の正体は、敵に先んじてあきらかにせねばならない。ただの野生動物の死骸だとすればなんの問題もない――だが、もしも生存者だったとすれば! 〈彼ら〉とは内々に、交渉の機会を設ける必要がある!」
「交渉――といいますと?」
「いうまでもないだろう。カネを掴ませて、わが社への敵対感情をとりはらい、また、表舞台に出てこないことを確約させるのだよ。存在自体を、完全に隠蔽させるのだよ。これは信頼できる社員でなければ任せられない重大な任務だ――わかるな? 絹木くん」
「わたしに〈彼ら〉への補償を一任する――と?」
「補償ではない! 言葉には、注意を払ってもらいたい」
阿藤社長は顔をしかめ、かぶりを振る。
「帰還不可能区域で〈彼ら〉がどんな生活をしていようと、われわれ大東亜電力にいっさいの責任はない。たしかにあの町は、わが社の原発事故によって致死量以上の放射性物質に汚染されてはいる。だがねえ、われわれがこれまでずっとくり返してきたように、原発から漏出した放射性物質は『無主物』なのだ。空気や水とおなじく、だれの持ち物でもない、ということだよ。だから、われわれはその無主物たる放射性物質によって何処でなにが汚染されようが、いっさい責任など持たない。裁判官だって、そう認めている――連中には、たらふくカネを掴ませてあるからな。そう、だからもちろんわれわれに汚染についての法的責任はまったくもってない、責任は微塵たりとありはしない、が――われわれは電力の供給という公共事業に携わる気高い企業だ。高い倫理感と社会的使命感から〈彼ら〉には善意の見舞金を施してやらんでもない――そう考えているわけだよ」
阿藤社長はそう吐き捨て、頬に冷笑をにじませた。
「しかし阿藤社長――お話にもありましたとおり、あの黒草町は――」
「もちろんだ。比喩でもなんでもなく、あれは『死の町』だよ、絹木くん。危険で困難な任務になることはわかっている。だれにでもこなせる仕事ではない――だからこそ、きみを抜擢したのだよ。若手きってのエースと呼ばれるきみをね」
最大限の賛辞にも、絹木カレンは動じない――眉ひとつ。
「本来ならきみの直属の上司を通すべきだろうが、今回の案件は特別だ。この件には社内でもごくごくかぎられた人間しかタッチしていない。マスコミにでもリークされては、おおごとだからね。きみは気づいていないだろうが、入社からこれまでのきみの優秀な勤務ぶりは抜からず
阿藤社長は、声高にいう。
「いいかね、絹木くん。きみの任務はまず帰還不可能区域である黒草町に入域し、〈彼ら〉のアジトを突き止めることだ。その上で可能なかぎり〈彼ら〉の正体をさぐり、接触の機会があればすみやかに金銭交渉――」
「恐れ入りますが、意見を述べさせて戴いてよろしいでしょうか?」
カレンは鞄からタブレット型パソコンを取り出し、スリープから復帰させた。
流れるようなマルチ・タッチで画面を切り替え、ディスプレイに帰還不可能区域のマップを表示させていく。
「絹木くん――いったい、なにをしている?」
「原発ピグミーの目撃情報のあった場所、および撮影された場所をピック・アップしました。それらの位置を、赤い点で示します」
無数の赤い点は、ちょうど円状に広がっている。
カレンは無数の点に囲まれたその中央をピンチ・アウトすることでマップを拡大表示させた。
「円状に広がる目撃例の中心点――黒草町のこのエリアに原発ピグミーのアジトがある可能性が高いと推測されます。さらに候補地を絞りこむなら、わたしの予想では、もっとも可能性の高い建物がここ――」
ディスプレイに拡大表示された建物――ポップアップウインドウには『
阿藤社長の表情が、幽かに曇る。
「黒草――病院――? ここが〈彼ら〉のアジトだと?」
「阿藤社長は、もしご自身が廃墟の町にお棲みになるとしたら、どんな建物をお選びになりますか?」
阿藤社長は嗤う。「わたしなら、三ツ星ホテルの廃墟をアジトにするだろうがね」
「それも名案ではありますが、失礼ながら満点とはいえません」
カレンは指で眼鏡のブリッジを上げながら説明する。
「仮に原発ピグミーの正体が人間の生存者だったとして――アジトとして使われる可能性の高い建物を考えると、たしかにまずスーパーやホテルが候補に挙がるでしょう。なにせ、食糧や寝具に事欠きませんから。ですがこの黒草病院は、避難施設としてはそれ以上に適格かと思われます。じつはこの病院、原発建設の際、わが社から自治体へ礼として渡した寄付金で建設された市立病院で、地方のものとしては破格の規模のものです。病床数は四〇〇で、設備もホテルに見劣りしません。スーパーやデパート同様、食糧に事欠かないのはもちろんのこと、貴重な医薬品のたぐいも確保できる。さらには――」
カレンは病院の詳細情報をディスプレイに表示させる。
「データによれば、この黒草病院の中央診療施設棟の地下にあるX線診療室の内壁には、厚さ二〇ミリの鉛硬板が仕込まれています。通常の病院より、ずいぶん厚めですね。建設資金が潤沢だったためでしょう、こんなところにもむやみに金がかけられている。さらに診療室周辺は放射線遮蔽性に優れた重コンクリート建造になっています。これらはもちろん放射線が室外に漏れないようにという防護措置ですが、皮肉にも町全体が放射性物質に汚染されたいまとなっては、このX線診療室は逆に室外の放射線をなかに通さないシェルターとして機能しえます。もしも、この帰還不可能区域に生存者がいるとすれば――」
カレンは言葉をきり、顔を上げた。
「この黒草病院がもっとも可能性が高い――というのがわたしの見解です」
ヴィクトリアン・スタイルの豪奢な社長室に、一瞬の静寂が流れた。
やがて、阿藤社長が手を叩き、声を上げて笑う。
「すばらしい。それでこそだ、絹木くん。よりによって黒草町きってのいわくつきの廃墟の名を挙げたのはどういう意図かと訝ったが――探索の価値はありそうだな、この〈陸の餓島〉は。やはり、この任務にはきみがもっとも適任だった。絹木くん、きみの任務は原発ピグミーのアジトを探しだし、そして〈彼ら〉と接触を図ること。できるなら、交渉まで成功させることだ。それができたなら、きみには相応のボーナス、相応のポストを用意しよう。ただし、当然だが、失敗することは絶対にゆるされない。ないとは思う、ないとは思うが、もしそんなことがあれば――」
絹木カレンは、すべてを察し、息をのむ。
上昇志向の強い彼女のことだ。重要任務への抜擢を、うれしく思う気持ちはあった。しかし同時に、それ以上の危険をはらんだ任務でもある。放射線もそうだが〈彼ら〉――〈原発ピグミー〉もまた、まったく得体が知れないのだ。
正体不明の〈彼ら〉が帰還不可能区域の高濃度放射線のなかで生存できる合理的な理由――それはまさか、シェルターとしてのX線診療室の存在だけではないだろう。
目撃情報から推測するに〈彼ら〉はそれほど放射線を恐れているようすがない。シェルター暮らしにしては、廃墟の町を自由に徘徊しすぎている。
それが不気味だ。
〈彼ら〉はいったい何者なのか?
そして〈彼ら〉は尋常でない放射線量のなか、いったいどうやって生きているというのだろう――?
「それがもっとも重要な問題なのだ」
阿藤社長は葉巻を灰皿に押しつけ、カレンを見上げた。
「きみはじつに勘が鋭い。話が早くて助かるよ――見舞金の支払いなどは〈彼ら〉に接触するための表の理由にすぎない。きみは〈彼ら〉が高線量放射線のなかでなにごともないように生存できる謎を解かなくてはならない。それこそが裏の――真の任務なのだよ。だからこそ、きみを抜擢した。きみなら文字どおり、命がけでその謎に挑んでくれると期待しているからだ――どうだ? 受けてくれるな、絹木くん?」
カレンに選択の余地はない。唇をきゅっと結び、ひとさし指で眼鏡のブリッジをずり上げる。
決意にみちた表情で、彼女は力強くうなずいてみせた。
阿藤社長は、満足げに笑う。
「このプロジェクトを、わたしはひそかにこう呼んでいる」
阿藤社長は大きく眼を瞠り、アロマが臭う煙を吐いた。
「
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