第30話 もうひとつの密命
その権現山の南麓、野田川の支流が流れる所に、鎌倉神社はある。
ここからその道を西へと進めば滝峠を越えて
桂は程々狭くなる野田川を西へ進むと、野生の
もちろんこの季節、躑躅はその鮮やかな花に変わって、濃い緑の葉を枝一杯に
ところが桂にとってはそれが、彼の行く手を阻むことにもなる。
桂は腰の丈ほどもある
再び彼の左側に野田川の支流がその音と供に見えはじめた頃、その右手には鎌倉神社へと続く小さな参道が現れた。
参道と言っても、けっして立派な鳥居があるわけでもない。二本の杉の木に
山門へと続く石段も、その注連縄がなければ分からぬほどである。
桂はなおも、
「やっ!」
桂は思わず声をあげた。
なぜなら、本殿の前には少なく見積もっても数十人の男達が、皆それぞれに立っていたからである。
皆が一斉に桂の方へと顔を向ける。その内のひとりが彼に声を掛けてきた。
「遅かったのう桂、
その声の主は、何と与六であった。
当然桂には、何故与六がここにいるのか皆目検討もつかない。桂が自分の眼を疑う暇もなく、今度は
「桂、無事であったか。心配いたしたぞ!」
我に返った桂は、義兼に一色義定が宮津城で細川方によって討ち取られたこと、稲富鉄砲隊が最後まで奮戦しながらも敵を食い止めることができなかったこと、そして弓木城が炎の中に包まれていたことなどを矢継ぎ早に語り始めた。
「では、義清殿も?・・・」
「おそらくは、すでに・・・」
桂の言葉に、義兼はそっと手を重ねた。
「ところで桂、おぬしにも届けたい荷がひとつあるぞ」
与六が神社の
母屋の前には数人の女子が、その背中に小さな荷を担いで立っている。
その誰もが小袖に
その中のひとりが笠を取ると、桂に向けて小さく微笑みかける。
里である。
桂は思わず大きな声をあげた。
「里っ、本当にお前は里なのか?」
里は答える替わりに、一歩二歩と近付いてくる。
「与六っ!」
振り返る桂。
「わしが殿より仰せつかった荷じゃ。確かにお前に届けたぞ」
両の手を広げる桂。その腕の中に里は静かにその身を
「里、本当にすまぬ・・・」
「謝らないで下さいませ。私は今、桂様の中におります」
里の眼からは、留まらぬ熱い涙が幾筋も流れ落ちる。その頬には桂の眼から流れるそれが重なっていく。
北の空に向かい、義兼がポツリと呟やいた。
「殿は最後までわしらのことを気に掛けて下さったのじゃ」
桂は里の
「里、わしはもう二度とお前を離すことはせん。生涯わしと供に生きて欲しい・・・」
里は答える替わりに、桂の前
そんな空気の中、桂の後ろより突然声を掛けてきたのは一色
今は亡きあの義定が、何時の日か一色家の再興を願って義兼と桂に託した一色家の
「そなたが
振り返る桂に、範之はあどけない笑みを返す。言葉を続ける範之。
「義定殿から聞いておる、戦国の世に
右馬三郎範之の言葉には飾りもなければ
この戦国の世にあって、世俗とはかけ離れた所で育った範之には、むしろ計略のために言葉を用いることなど頭の片隅にも無いことなのかも知れない。
桂は片膝を付いて頭を垂れる。
「範之殿の安住の地が見つかるまで、お
範之は、さらに屈託のない笑みを桂に与えた。
それから一行は足早に支度を整えると、鎌倉神社より隊を成して出立することとした。
隊の先導役は、
義兼が桂を促す。
「桂、参るぞ」
振り返る桂。
「与六、おぬしの荷駄隊は如何するのじゃ?」
「わしの仕事はここまでじゃ。ここからは範之様のご家来衆が荷駄を運ぶそうじゃ」
与六は眼の前を引かれていく荷車を見送りながらぼぞりと呟やく。
「では、おぬしはこれから如何するというのじゃ?」
「
「一人でか、与六」
にじり寄る桂。
「一人ではございませぬ。桂様、あれに」
桂の横から里が指さす方を見つめると、大きな
遠目ではあるが、桂にもそれが誰なのかはっきりと見て取ることができた。
初である。
初も
「与六、おぬし・・・」
「わしにも先のことはわからんが、今はお初さんと生きてみようと思うのじゃ」
桂は与六の大きな背中に手を回すと、その襟首をぐいと引き寄せた。与六の身体が幾分
「与六、わしらは遠く離れていても生涯の友じゃ。いつまでも
与六は答える替わりに、大粒の涙を桂の肩に落とした。
義兼も、この時ばかりは以前の
桂の
それは里にとっても初との
「いつかまた、この丹後の地で会えると良いのう」
そう言い残して、与六は与謝峠へと続く道を歩き始める。今しがたまで、あんなに大きかった与六の背中が見る見る小さくなっていく。
やがて栴檀の木の
その後、亀井与六は初と供に京へと渡った。あの下京にある
そこには十代目
一方角衛門も以前から与六の才を見抜いていたのであろう。数年もしないうち、めきめきと頭角を現した与六に彼は店の身代を譲ると供に、若狭屋十一代目角衛門を名乗らせることにしたのである。
またこの期と同じくして、与六と初は
この時、二人の為の
街の者は坂巻角衛門こと亀井与六のことを、皆親しみを込めて『
『具慈』とは京の言葉で
その愛くるしい
そんな与六を、陰日向無く初も良く盛り立てた。
その甲斐あってか、後に若狭屋は、豊臣家の城出入り問屋として栄えることにもなったのである。
しかし反面、生涯二人の間には子を授かることは無かった。替わりに戦乱で親を失った沢山の子らを養子として迎えることとした。
そんなことも、一層若狭屋の評判を高めていくことにもなったのである。
そして世は徳川の時代に移り変わり、十一代目坂巻角衛門こと亀井与六は、六十四歳でその生涯を閉じることとなる。当時畿内で流行った
そして初も、与六を
彼らの死後、若狭屋は彼らが養子として迎えた者達が、その身代を継ぐこととなったが、その中には、後に幕末
こうして、与六と初の志は末永く受け継がれていくこととなったのである・・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます