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「何か動きがあれば、私やロイズがすぐに動くことになっている。だが細君の身に危害が及ぶことが全くないかと言われれば、そうとも言い切れない。第二師団マクスウェル副団長とジェネラル部隊長がそれぞれ細君の近くにいるはずだから、動きがあった場合は彼らに知らせてくれ」
燃えるような赤毛を礼式用に固めたエミーディオが、夜会が始まる前にティーナがいる控室へやってきた。既に第二師団の精鋭たちが別室には控えているし、第一師団も王太子からの命が下り次第直ぐに動ける手はずになっている。近く国を継ぐリーズバルド王太子は、父親の直轄である第一師団を既に自由に動かせるようになったようだ。
「私とロイズは目立ちすぎる。申し訳ないが、第二師団の連中と共に別室待機だ」
エミーディオのその言葉に、ティーナの瞳がわずかに揺らぐ。頼りのロイズがいないのはやはり心細いのだろう。絹手袋越しの手が、少しだけ動いてそっと体の横に納まった。黒地の軍服を着込んだロイズとエミーディオは装飾用のレイピアを既に鋼の刀剣に取り換えていたし、軍人特有の鋭い視線は臨戦体制そのものだった。
一方でティーナは藤色の上品なドレスに銀で彩られた小物を纏っている。華美な装飾でないのは珍しく彼女の服装に意見を出したロイズの趣味だ。バルレンディアのある地方では、銀には護りの意味があるという。迷信を信じるのはロイズらしくもなかったが、恐らく自分が傍に付けないことに対しての気休めだろう。
「一度、呼んで下されば。すぐにでも駆けつけます……既にエヴァンジェリン公の方で入室できる部屋を制限してありますので、気兼ねなく」
静かにそう言ってから、ロイズは剣の柄に手を掛けた。
既にその表情は不器用だが優しい夫ではなく、厳格で律された軍人のものになっている。
長く話したところでロイズの邪魔になってしまうだけだろう――ちらりとロイズの顔を見ると、ティーナは長いドレスの裾を少しだけ持って頭を下げた。エミーディオが申し訳なさそうに眉を顰めるが、ロイズの表情は変わらないままだった。
「ティーナ」
使用人に呼ばれてティーナが部屋を出ようとした時、一度だけロイズが口を開いた。面立ちは緊張したものだったが、声はいつもの優しい彼のものだ。
「あなたは俺を、信じてくれると言った。だから何も心配しないでください。確かに会場は広いが、あなた一人を見つけ出すくらいなら容易にできる」
力強い言葉に笑顔で頷いて、ティーナは部屋を出た。後からロイズがエミーディオに小突かれたのは、言うまでもない。
*
広い会場で、ティーナは愕然としていた。
肝心のバルトロメウがどんな人間かを、ロイズから聞くのを忘れていたのである。
ボニールンゲン男爵がそうロイズとは似ていなかったことから、バルトロメウとロイズが似ているという可能性も低いだろう。恐らく、彼は母親に似たのだ。
「どう、しましょう……」
流石にロイズに聞きに戻るわけにもいかず、ティーナは頼りなさげに会場の中を見回した。もしかして向こうがティーナを知っている場合もあるから下手には動けず、監視の軍人たちが訝しげに眉を顰める気配だけが漂っている。
とりあえず備え付けられてある椅子に座ったまま会場を眺めているが、出席者は壮年の貴族たちばかりである。老エヴァンジェリン公が主催しているのだから仕方がないのかもしれないが、ちらほらと見える若い男性は殆どが配備された軍人であるようだ。
恐らくこの顔触れの中でそれらしい人物がいれば、直ぐにティーナも気がつくと思っていた。しかし会場は広く、人も多いのだ。
だが、その時はさほど待たずして訪れることになる。細身の燕尾服を着た男が一人、入り口から入ってきたのだ。
神経質そうな顔立ちはロイズとはさほど似ていなかったが、濡れた鴉羽のような黒髪と切れ長の瞳が、よく似ている。
「あ、……」
思わず声を上げそうになって、ティーナは必死に自分を律した。
初めて会うのに、何の脈略もなくこちらから話かけるのはまずい。まずは時間をおいて、何処から会話を始めるかを考えよう――そう決意したティーナの視線が、僅かに凍り付く。
底の見えない暗い瞳が、絡みつく様にティーナを見詰めていた。
ロイズのように鋭く射抜く視線とはまた違う、独特な緊張感が体に走る。
ゆっくりとゆっくりと、一歩ずつ歩み寄ってくるその男にティーナは椅子の上から動けなくなってしまった。
「失礼、ロスガロノフ公女ティーナ・ワイズマン様ですね?」
どれほど経っただろうか。
静かに笑うその男が、明朗な声でそう告げた。完璧な所作で腰を折ると、椅子に座るティーナの手を取り、手袋越しの甲に唇を落とす。
「ボニールンゲン男爵子息、バルトロメウ・ジーザと申します」
穏やかに笑う姿は、誰の目から見ても良家の好青年という感想が得られるだろう。けれどもその瞳の深淵に隠された激情の炎は、猛々しく燃え盛っているようだった。
唇に薄い笑みを張り付けたまま、バルトロメウは続ける。
「兄がお世話になっております。本来でしたら俺の方からご挨拶に向かわなければならないところを、このような場所での無礼をお許しいただきたい」
「バ、ルトロメウ様のことは、ロイズ様から聞いています。事情が事情でしょうし、その、仕方がないと……」
慎重に、一つずつ言葉を選びながらティーナは会話を続ける。何か一つ選択を間違えれば、恐らく証拠は何もつかめないだろう。
目の前で微笑む男は、権力の為にロイズを襲った人間だ。
「ロイズ様も、バルトロメウ様に会いたがっておりましたが……本日は軍部での任務だそうで、こちらこそ申し訳ありません」
「彼も大変ですね、折角実力を認められて中央に戻ってきたのに、小間使いや雑用の真似ばかりさせられて」
明らかな憐憫が込められた言葉だった。
暗に後ろ盾を持たないロイズのことを言っているのか、その言葉尻には優越感がにじんでいる。
彼は、知らないのだろうか。国内屈指の大貴族であるアイザック・ロスガロノフが、王の後見を務めたフレリック辺境伯マディンが、彼を息子と呼んでいることを。
「一度、あなたともしっかりお話してみたいと思っていたんです。兄の話も聞きたいし、あぁ、ユリウスはどうしました? 兄について屋敷を飛び出して以来会っていなくて」
優しげな言葉に、ティーナはつい彼が悪い人間ではないのではないかと、そう思えてきた。
けれどバルトロメウが先ほどロイズに対してはなった言葉は、ティーナとしても許されるものではない。心中で首を大きく振りながら、出来るだけ気丈な声を出す。
「ユリウスは、我が家の優秀な執事ですわ。……一度、場所を変えてお話致しません? ここでは人の目があるし、中々ゆっくりお話しできないような気がして」
「嬉しいお誘いですね、では何処か空いている部屋がないかを聞いてきましょう――あぁ、そこの君。少しいいかな」
僅かに、周囲の気配が張りつめた。
自分としてはうまくいったと思いたいが、少しわざとらしかっただろうか。プリメラのような威圧はできなかっただろうが、ほんの少し参考にしてみた節はある。
ティーナはドレスを直す振りをして、そっと自分の肩を抱いた。
きっと大丈夫、ロイズはすぐに来てくれる。それまで、たったそれまでの辛抱だ。
上機嫌で部屋を聞きだしたバルトロメウには、やはりどうしてもロイズの面影を見出すことはできなかった。
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