39
「それで、あなたは俺に何をお聞きになりたいんですか?」
軽やかな質問が、二人きりの室内に響いた。
エヴァンジェリン公が用意してくれたという『空き部屋』に通されたバルトロメウは、案内の使用人が去ってしばらくした頃に話し出す。少し砕けた敬語は、少しだけロイズに似ているような気がした。
「お聞きしたいことは、沢山あります……その、まずはロイズ様のお母様のこと、とか」
「あぁ、ティーナ様はお会いになったことはありませんでしたね。ロイズの母の名前はライラ。ライラ・ワイズマンと言います。元は新興商人の令嬢でしたが、爵位は持っていませんでした。もっとも父との間に彼が出来て、彼女は勘当同然で家を放り出されたようですが」
何故だろうか、うっすらとバルトロメウが嗤っているように見える。
きっと、神妙な面持ちでティーナに語っているのだろうが、話を聞かされている本人から見ればどこか違和感があるのだ。
注意深く観察を続けながら、ティーナは頷いた。
「父は、黒髪の女性が好きでしてね。あとは黒目ですか……東の国で黒髪は吉兆の象徴と言われているらしいです。バルレンディアではそのような迷信はありませんが、ライラも黒髪の美しい女性でしたよ。無論、俺の母親も同じ色合いでしたが」
歌うようにそう言っているバルトロメウに、ティーナは少し納得したように目を瞬かせた。
なるほど、バルトロメウとロイズの色合いが似ているのはそのせいか――しかし黒髪が好きだというのは分からない嗜好ではないが、妻から愛人までをそれで揃えるというのも、何処か奇妙な話ではある。
「まあ、父は既に母と結婚していましたから。それにあの男、あぁ、父ですが、あの男もロイズをボニールンゲン男爵家に入れるつもりはなかったようです。俺の母は子爵家の末娘でしたから、妻を蔑ろにすればその後ろの子爵家が怒るとでも思ったんでしょう。まったく、器の小さな男だ」
あの男と男爵のことを言い直す様も、またロイズと同じである。顔だちは殆ど似ていないが、確かにこの二人は兄弟なのだろう。どんどんそんな風に思えてきて、ティーナはだんだん目の前の男が哀れに思えてきた。
彼は一体、どんな思いで権力を欲しているのか。それを考えたことは、一度もなかった。
「母は最期までロイズとライラを憐れんでいました。心の優しい母でしたから、あんな男に嫁がせられなければもっと幸せになれたでしょう。……俺も、兄が羨ましいとずっと思っていましたよ」
浮かんでいた嘲笑が、ふっとなりを潜めた。
バルトロメウの絡みつくような視線が、ティーナを射すくめる。ひきつったような笑みを唇に浮かべたまま、滔々と話は続いていく。
「ロイズは、地方で目覚ましい戦果をあげました。中央は全く平和なこの国の中で、時折現れる反乱分子は殆ど彼が潰したと言っていいでしょう。その度に国王陛下や王太子殿下からお言葉を賜る姿を、俺は貴族の末席から覗き見ていたんです。……何故、生まれついての貴族である俺が陛下の御前に跪いていないのか、何故、お褒めの言葉を賜るのが平民の子供であるロイズなのか――何度も、自問しましたよ」
言葉の端々に、歪みが現れ始める。
兄が羨ましいと言ったその口で、彼は容易にそのロイズを貶め始めたのだ。ころころと急変するその態度についていけなくなって、ティーナは思わず目を細めた。
夫に対する悪口は、出来れば聞きたくはない。
けれどバルトロメウはそれに気付かないのか、まくしたてるような口調で話し続けた。
「ロイズがフレリック辺境伯に好かれていることも知っています。地方での上官だったというが、まったくどんな方法でのし上がったものか。中央に凱旋して、第二師団の師団長にまで召し上げられて! 爵位すら持たない、準勲士のあいつが! それに、しまいにはあなただ。ロスガロノフ公爵令嬢、国一番の大貴族を、ロイズは親と呼べるんだ。俺には、力のなくなった子爵家と薄汚い男爵家の血が混じっているというのに、あいつは――」
思わず、ティーナは首を横に振った。
違う、ロイズは決して労せずして今の地位を手に入れたわけではない。十代で初めて人を斬り殺したと言った彼の痛苦の表情を思い出して、声を上げそうになる。
それを必死にこらえて、ティーナは唇を噛んだ。
早く、ロイズの名前を呼びたい。あの大きな背中にしがみついて、泣きだしたくてたまらなかった。
「そこで、馬鹿なあの男は考えを変えたんです。貴族院の出生記録で庶子となっているロイズを、嫡出に変えようと……もっとも、誰のせいだかとっくにロイズの記録そのものが抹消されていたのですが」
それは、いつかディートハルトが言っていたことと同じだった。
恐らくはティーナの父か叔父が、殆ど行使することのないその絶大な権力を使ったのだろう。一男爵家の出生記録を書き換えるくらいならば、彼らにとっては赤子の手をひねるが如く容易なことである。
「だが、父は諦めていない。あろうことか今度はあなたにまで取り入ろうとした。帰宅して、父は怒り狂っていましたよ。世間知らずの小娘に面子を潰されたとね」
「それで、あなたはアレッセイ叔父様の……パルムークス公爵都邸に、人を差し向けたのですか。全てはボニールンゲン男爵が起こした事件だと、そう思わせるために」
――やっと、本題を聞きだすことができる。
ティーナの声は震えていたが、それは確かにバルトロメウの鼓膜を叩いたらしい。わずかに見開かれた黒い瞳が、薄い愉悦に歪んでいた。
「なんだ、そこまでわかっていたんですか。大方ロイズが勘づいたんでしょうが、全く獣のような嗅覚だ」
「旦那様を、王城にて襲撃なさったのもあなたですか」
「それを知って、どうします? ここは至極私的な空間で、あなたがそれを証言しようとも証拠になるものは何一つない」
的確な指摘をして、バルトロメウはうす笑いの表情を真顔に戻した。彼は既に、この屋敷にロイズやエミーディオの手が伸びていることを知らないのだ。
一歩後ずさって、ティーナは声を絞り出した。
「大切な、事実です。私の家族が怪我をしました」
「そうか、それならば確かに聞く権利があなたにはあるはずだ。ええ、俺ですよ……今言った通り、俺には何もない。この上男爵位までロイズに奪われたら、俺は生きていくことが出来ないんです」
「ロイズ様は、ボニールンゲン男爵家を継ぐつもりはないと仰いました。何もしなければ、あなたはそのまま爵位を継ぐことが出来たのに――」
「本当に、あなたは世間を知らない姫君のようだ。人間、権力を前にして冷静な判断が出来るとは限らないんですよ」
生まれながらに絶大な権力を持つ、あなたにはわからないだろう。
その言葉に、ロイズの声が重なったような気がした。
後ずさりヒールでバランスを崩したティーナの視界に、鈍い輝きが目に入る。ちょうど、懐に収まる大きさの短刀だ。的確に用いれば、心臓を貫く程度の長さはあるだろう。
「ロイズが動いているのなら、もう終わりだろう。俺も、父さんも、ボニールンゲン男爵家も――」
濡れた瞳には、何が映っているのだろうか。
泣きそうな顔で刃を振り下ろそうとするバルトロメウの目を見詰めたまま、ティーナは身を固くした。
情けなく縮こまってしまった声で、その名を呼ぶ。
見つけてくれると、約束したのだ。
「ロイズはもうすべて持っているでしょう。あなた一人を道連れにしたって、罰は当たらないはずだ」
左胸、人間の命の根本が宿るそこへ、冷たい刃が振り下ろされる。
ロイズの声は、聞こえなかった。
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