34
執務室の中は、静かだった。副官のカインが自邸に行っているが、いたって普段通りの日常である。
午前はロイズが新人に稽古をつけ、午後には書類仕事。その書類の中にあるロスガロノフ公から送られてきたリュリュカ川の書類以外は、仕事内容すらも全くいつも通りだ。
だがイレギュラーなその書類を眼の前にして、ロイズの眉間には稲妻が走っていた。
いつもの不機嫌そうな顔が、さらに三割増しで凶悪なものに見える。
「団長、少しよろしいでしょうか?」
「どうした、入れ」
ロスガロノフ公アイザックの署名が入った書類を咄嗟に仕舞いこんで、ロイズは入室の許可を出した。執務室に入ってきたのは、赤毛でニキビ面の少年である。人数が多いとは言えない第二師団ではあるが、ロイズはカインにその人員把握を任せっぱなしである。燃えるような赤毛を思い出したロイズは、眉を片方だけ上げた。
「何があった」
「その、ジェネラル部隊長が演習中に負傷しまして。カイン副師団長はまだお帰りになられないのですか?」
「ジェネラルが? 珍しいな、何処をやった」
「手のひらをざっくりと……一応処置はしましたが、報告をしておくようにと」
おどおどと報告する彼の顔は、可哀想なほどに青ざめていた。出血がひどかったのだろうか、斬り合いを体験したこともないであろう若い下士官は今にも倒れてしまいそうなほど憔悴している。
「貴様が驚いてどうする。前線で戦ったら、手のひらが切れたどころで驚いていたら話にならんぞ」
「そ、れはその通りですが……」
「衛生兵に見せておけ。ジェネラルなら明日にはまた剣を握るぞ」
「はい……」
ジェネラル部隊長はロイズよりも十歳ほど年上だったが、如何せん血気盛んでよく怪我をさせる側であった。
実力も折り紙付きなので、恐らく入隊したての少年は初めて彼が怪我をしたところを見たのだろう。強い人間ほど、傷つけば周りが驚くものだ。
「貴様も一度休んでいるといい。それでは訓練に支障をきたす」
「申し訳、ありません……」
普段よりも不機嫌そうな上官の雰囲気に圧倒されたのか、哀れな少年はふらふらとした足取りで部屋を退出しようとした。今にも倒れてしまいそうなほどで、腰に携えた二本の剣にすら振り回されているようにも見える。
そこでロイズは、一度その少年を呼び止めた。
「おい」
「は、はい? なんでしょうか?」
「……貴様、何故剣を携えている?」
「は、何故、でございますか?」
がさりと自分の懐で手紙が音を立てるのを、ロイズはどこか遠くで聞いていた。もとより鋭い目つきをさらに尖らせて、漆黒の視線で相手を射抜く。尋問をするにしても、大抵の人間はこれで要らないことまで吐き出してしまう。拷問をしなくてもいいだけ気が楽ではあったが、ロイズが目つきの悪さで得をしたのはこれくらいだ。
「その、先程まで訓練をしておりましたし……私が剣を携えていることに、な、何か問題でも?」
頬のあたりが赤くなっているのは、恐怖からか羞恥からか。
足にだけは力を込めて、ロイズはさらに詰問する。
「貴様の持っているそれは、式典用の刀剣だな? バルレンディアの流儀を知らん様だから教えてやるが、我が王国の式典用刀剣はレイピアだ。殺傷能力もないに等しい……この国は地方ならまだしも、中央は欠伸が出るほど平和だからな」
吐き捨てるように冷たい声は、普段彼がティーナや家人たちに向けるものとは全く違う。侮蔑すら含んだその声に、哀れな少年兵は目を剥いた。
それまで小刻みに震えていた体が揺れるのをやめ、ひきつるようだった口元が本当に吊り上がった。
咄嗟に、ロイズは傍らに置いてある剣を取って立ち上がった。
重い執務机が、蹴り上げられて音を立てる。
「御礼参り、というわけでもなさそうだが。妻を狙わなかったことだけは評価してやろう。……俺も正直、カインは相手にしたくはない」
鞘を投げ捨てて、抜刀する、切っ先を向けたまま間合いを計っていると、相手が跳躍した。
トリッキーともいえる戦い方は東方の戦術か、ロイズも教本で見た程度で相手にしたことはない。戦いにくい相手に一歩後ずさると、少年は顔を冷淡な笑顔で二本の剣を抜き放った。
「――しぃっ!」
吐き出された呼気に、剣の一撃が重なる。二刀流か、とロイズが感心する間もなく第二撃、三撃と攻撃が繰り返される。流石に、間合いを詰められると体が大きなロイズでは小回りが利かない。
「邪魔、だ――!」
飛び上がる敵の着地する瞬間を狙って、足を思い切り振りあげる。そのまま腹部に一撃かまして剣を構えるのに十分な体制を整えたロイズは、横一文字に少年の体を斬りつけた。
相手が子供だろうが、剣を持つ以上は対等な関係だ。ましてや自分を殺しに来た相手に容赦をするほど、ロイズは優しい男ではなかった。
それでもあえて腕を引き、皮一枚切ったところで済ませてやったのは情報が欲しいからだ。結局、先日捕らえた侵入者からは何も聞きだすことはできなかった。それから彼がどうなったかは口に出したくもないが、今はとにかく何か確たる証拠が欲しかったのだ。
「けはっ……」
「言え。言えばこのまま貴様を衛兵に引き渡すだけで済ませてやろう。誰に雇われた? ボニールンゲン男爵か」
「ひっ、オイラぁ、男爵様になんて雇われてねぇよぉ」
「……何?」
赤く横一線に斬られた腹をひくつかせて、少年は嫌な笑顔を浮かべた。否、それは少年というにはあまりに壮絶すぎる表情だ。歴戦の狂戦士に似た雰囲気に、ロイズも一瞬我を忘れた。
それが、最後の決着をつけたのかもしれない。
腹部からあふれる血液を押さえたままで、少年は走り出した。長く伸ばされた手が、ロイズの首を狙う。
「ひぃっ」
息を飲む音が、ロイズのすぐ真横で聞こえた。その直後に襲ってきた衝撃に、思わず肺から空気が押し出される。窓を蹴破る音が聞こえたので急いで体勢を立て直し、ガラスを被らないように間合いを取るが、既に少年の姿はそこにはなかった。
「畜生!」
無残に割れた窓に向かって、ロイズは吠えた。中央に来て随分と生温い生活をしてきたせいか、勘が全く取り戻せなかった。
今よりも若い頃、地方を転々としていた頃ならば彼は何のためらいもなく彼を切り捨てていただろうし、捉えるにしてももっと動きが俊敏だったはずだ。
歯噛みするロイズの耳に、遠くから足音が近づいてくるのが聞き取れた。
「団長、一体今の音どうしたってんだ!」
「ジェネラル……怪我をしたんじゃなかったのか」
「ほんのかすり傷だよ――伝令頼んだ小僧が顔青くしてぶっ倒れちまって報告が遅くなったんだ。悪かった……って、だからその窓何があったんだよ」
抜刀したロイズの姿と、無残な執務室の姿を見た部隊長は傷跡のある頬をひきつらせた。
言っていることはあながちウソではなかったのかと内心独り言ちて、ロイズは小さく息を吐く。
「……王城に侵入者の疑いがある」
王城への侵入は、王族への反逆とみなされる。程度によって罪も分かれるが、武官とはいえ第二師団の機密が集まるロイズの執務室へ侵入したということは、それなりに大事にもなってくる。
或いは、それを血縁上の父が画策したのか。幾ら外道を絵にかいたような男とはいえ、貴族の末席に連なる人間がそこまで馬鹿な真似をするとは思いたくない。
視線だけで人を殺せそうなほど目つきを鋭くさせたロイズは、剣を鞘に仕舞いながら強く唇を噛み締めた。
しかし、そこでロイズはある違和感に気が付いた。
胸のあたりを探り、目を見開く。
「ない……?」
上着を脱いで探しても、どれだけ懐を探ってみても、ロスガロノフ公から届いた書類がない。
しかし、ゆっくりとその顔が天を仰ぐ頃、ロイズは憤るどころか薄い笑みさえ浮かべていた。
ようやく、手掛かりがこの手に舞い込んできたのだ。
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