31
しばらくの間、ティーナは穏やかに毎日を過ごしていた。二度ほど顔を出した十七公家の会合でも大きな失敗は見られなかったし、なんだかんだとディートハルトや他の公爵たちとも上手くやっていくことは出来たと思う。
その日も、ティーナはパルムークス公都邸に足を運んでいた。彼女に出来ることと言えば領土の特産について話したり、カインから今でも出されている宿題についてそれなりに知恵を求めたりする程度だが、それで何とかやっていけているらしい。
「では、また夕刻に迎えに参ります。お嬢様、お気をつけて」
「えぇ、ありがとうトーマ」
恭しく一礼したトーマに見送られて、いつものようにパルムークス邸に足を踏み入れる。今日はアーロンではなく、若い使用人がティーナの上着を預かってくれる。慣れた手つきで上着を受け取る使用人のすぐ手元で、何か乾いた音がしたのは気のせいだっただろうか。
「……ティーナ様!」
老執事の鋭い声が飛んだのは、その瞬間だった。
信じられないほど強い力でティーナの体を後ろへと引っ張ると、好々爺然とした老執事は俊敏に手元を翻し若い使用人を突き飛ばした。
強打を受けた使用人はしたたかに床に打ち付けられ、浅く空気を吐き出している。
「ア、アーロンさん!?」
「お下がり下さいませティーナ様! この者は、我がパルムークス公爵家の者ではございませぬ!」
声を上げたアーロンに、ティーナだけではなく周囲にいた使用人や公爵家の人間も空気を震わせた。パルムークス家の者ではないということは、彼は侵入者ということだ。何よりも安全をもって行うべき十七公家の会合において、それは許されない。
やがてその侵入者は私兵たちに取り押さえられたが、アーロンは決してその光景をティーナに見せようとはしなかった。
ただ、ちらりと視界の端に映ったそれは、確かに鋼の輝きをともしていた。あれが何であるかくらい、ティーナにだって予想はつく。
「何があったんだアーロン、随分と騒々しい」
「旦那様……は、申し訳ございませぬ。どうやら何者かが使用人に変装し、会合に潜入した模様。すぐに情報を吐き出させます故、しばしのお待ちを」
「侵入者? 被害はあったのか」
「ティーナ様があわや、というところでございました。私を含め、他の使用人も気付くことが出来ませなんだ……申し開きのしようもございませぬ」
平身低頭して詫びるアーロンに、騒ぎを聞きつけてやってきたアレッセイはやや驚いていたようだった。警備は万全で、主に許された公爵家の人間や使用人たち以外はこの屋敷に入ることすらできないのだ。
しかし、侵入者があったことは紛れもない事実だ。驚いたまま固まっているティーナに一度視線を落として、アレッセイは丁寧に腰を折った。
「諸卿、驚かせてしまって申し訳ない。先ほどの闖入者の処断は、我がパルムークス公爵家の名誉にかけて、私に任せてほしい」
「し、しかしアレッセイ殿、あの者はこの家の使用人ではないのですかな? それで処断を任せろというのも……ただでさえ、パルムークス家はこの会合の主催側であるというのに……」
誰か一人が、そう声を上げた。
公爵位にある人間にとって、この会合を成功させることこそが一年に一度の大仕事ともいえる。しかしアレッセイは今しがた、その面子を真正面から叩き割られたのだ。冷たさすら感じる灰色の瞳が、僅かに燃え上がったような気さえした。
「でしたら、俺も立ち会わせていただいてよろしいですか?」
「……ベリーハット公、まだ若い公が見るようなものでは、ないと思われるが」
「後学の為にも是非。俺が駄目だというのなら、如何でしょう、被害者であるティーナの夫、ワイズマン第二師団長を立ち会わせるというのは」
優雅に片手を上げて進み出たのは、ディートハルトだった。
挑戦的ともいえる視線をアレッセイに向けながら、決して怯むことはない。それどころか、処罰の場にロイズを立ち会わせろとまで提案してきた。
厚かましいとすら言えるその発言に周囲の公爵たちはざわめいたが、当のアレッセイは無感動に頷いただけだった。
「よろしい、ワイズマン師団長を召喚しよう。だが、まずはティーナ。お前は別室で少し休みなさい。誰か人をつけよう」
「私は大丈夫です、アーロンさんに庇っていただきましたし、それに」
「ティーナ、ここはパルムークス公の言うとおりにしよう。もう会合が開ける雰囲気でもないしね。君のところの家人を呼ぼうか」
それから、他の公爵家の人間も三々五々控室に戻っていった。ただ、ティーナの傍には相変わらずべったりとディートハルトがくっついている。恐らく狙われたのは彼女自身であろうというのが、アレッセイと彼の推理だった。
「あの、お兄様も別室に戻られては……すぐに家の者が来ると思いますし、それに旦那様だって」
「ワイズマン師団長は尋問のために呼び出されるんだ、君を連れて帰る暇はないと思うよ。……ねえティーナ、小耳にはさんだんだが、君ボニールンゲン男爵に喧嘩売ったんだって? あれほど気を付けるように言ったというのに」
尋問という言葉がやけに耳についたが、聞かないことにしておく。あまり深くまで突っ込んではいけないような気がした。
咎めるような口調ではないにしろ、氷の瞳を向けるディートリッヒにティーナは身を小さくさせた。喧嘩を売ったつもりはないのだが、彼がそう聞いているということは他の貴族にもその噂が出回っているのだろう。諦めて、ティーナはコクリと一つだけ頷いた。
「お兄様は、旦那様のことを御存じだったのですか? その、なんといいますか」
「貴族院の記録を見れば、彼がボニールンゲン家の血筋であることはすぐにわかるよ。もっとも、最近はそれを誰かさんが握りつぶしてしまったみたいだけれど」
「貴族院の記録を、握りつぶす? 国王陛下でもないのに、そんなこと……」
そこまで言って、ティーナはハッと口元を押さえた。
貴族院の出生記録は、血筋さえ繋がっていれば庶子でさえ登録される。家の断絶を防ぐために作られた予防線的なものであるが、それを握りつぶすというのはよほど高位の貴族、もしくは王族ということになる。
ティーナの言いたいことに気が付いたのか、ディートハルトは薄い唇の端をぐっと吊り上げた。どうやら、思っている通りでいいらしい。
「君の旦那様は本当に人に恵まれているようだ。若い頃からひたすら戦ってきた最強の『疫神騎士』に、殿下やロスガロノフ公が報いたいという気持ちはわからないでもないけれどね」
「お、お兄様は意地悪です。どうしてそんな風に旦那様のことをおっしゃるんですか……」
悪意があるわけではないのだが、ディートハルトの物言いはどこか棘がある。
すっかり彼に怯えきっていた少し前なら聞けなかっただろうが今なら聞けるだろう。勧められた椅子に座ったまま、ティーナは壁にもたれるように立つディートハルトを見上げた。
「お兄様ほど有能な方が、出自であの方を差別なさるとも思えません」
「人の貴賤は血筋にあらず、確かにその通りだ。俺が彼に辛く当たっているとしたら、原因はたった一つだよ」
体を起こして、ディートハルトはそっとティーナの髪を撫でてやった。部屋の外から、彼を呼ぶ声が聞こえる。恐らく、ロイズが到着したのだろう。
「怯えきった君の表情も捨てがたくはあったけれど、今の方がずっといいね。幸せそうで満ち足りていて、本当だったら君のその
淡く纏った香水の香りが、ふわりとティーナの鼻先をかすめた。キョトンとした表情のままディートハルトを見詰めると、アイスブルーの瞳が氷解したようにも見える。何とか口を開こうとしたところで、更に扉の前から声がした。
「あぁ、すまない。今行く……勿論、今は君に寄り添うのがワイズマン師団長でよかったと心から思っているよ。癪って言ったら、癪だけどね」
そのまま何も言えず、ティーナはディートハルトが扉の向こうに消えていくのを見送った。
それからしばらくして血相を変えたユリウスとトーマが扉をノックした時も、ティーナはしばらく呆けていたのだった。
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