30

「どうして、何も仰って下さらなかったんですか」


 震える妻の声に、ロイズは何も言わなかった。きっと言えなかったのだろう。

 泣いてしまうのは卑怯だ。そう思って歯を食いしばり必死に涙をこらえていたティーナだが、支えられながら馬車に戻った途端にその涙腺は決壊した。後から後から溢れてくる涙に邪魔されて、ティーナも言葉を口に出すのがやっとだった。


「ティーナ、何があったんだ。言ってくれなければ、俺にはわからない」


 問いかけるロイズに、ティーナは何度も目元をぬぐってようやく息を整えた。きっと、明日には目元が赤く腫れ上がっているに違いない。リリア辺りに氷嚢を持ってきてもらわなければ。


「ロイズ様、私、ボニールンゲン男爵にお会いしました」

「……男爵に、ですか。では、俺の出自のことも」

「男爵家の、庶子であると。それは、本当ですか」

「ええ、よくある話です。俺の母は男爵家の侍女だ。あの男に手を出されて俺を孕んだ。確かに年からいけば嫡男になれたかもしれないが、そのつもりはなかったんでしょう。平民上がりであると嘘をついたことには謝ります。俺は、卑しい妾腹の子だ」


 静かな馬車の中に、重たい沈黙が流れた。

 ロイズは、笑っているのだろうか。語尾に含まれた感情は嘲笑のそれだった。

 最初から、あまりに彼はティーナとの身分差に拘っていた。軍人であるから、男性であるから、それは仕方がないのだと彼女は自分を納得させていたのだ。

 ひきつったように不格好なロイズの笑顔が耐えられなくて、ティーナは身を乗り出した。


「ロイズ様は、男爵のことを憎んでいたのですか?」

「それは、そうですね。母はあの男のせいで酷く苦労をしましたし、何度もあの男のせいで死地に追いやられた。今でこそ回数は減りましたが、十年くらい前までは国境でも小さな反乱が多かったんだ。俺も、十三で初めて人を斬った。斬って斬って、十六で隊を一つ任されるようになりましたが」


 ロイズが、自分でかつて言っていた。自分の手は人を殺した手である。それに対してティーナは、守るための手だと言ったはずだ。

 けれど、澱のように濁った黒い瞳は既にティーナを見ていない。どこか遠くを見ながら、苦痛に耐えるように眉を顰める。


「どうして、仰ってくれなかったんです。あなたが一人で悩んでいるところを、私は見たくなかったのに」

「俺は、あなたを利用しようとしていたんだ。ボニールンゲン男爵は王宮の腐敗を固めて出来たような男だ。あの男を排除しなければ、他の官吏たちにも悪影響が出る……私怨も含めて、いつか罰を与えようと思っていた」


 その時、ティーナはおもむろに席を立った。揺れる馬車の中で危ないと身を乗り出すロイズの、対面ではなく隣に座る。

 会場にいた時と同じように、ティーナはロイズの右手を両手で包んだ。温かく武骨な手だが、ティーナはこの手をひどく気に入っていた。


「続けてください」

「……公爵、義父上が声をかけてくださったのは、その時だった。既に政界の第一線を退いてはいるが、ロスガロノフ家は古い貴族たちの中でも別格視される存在だ……義父上は、それを全て見抜いていたんだろう」


 暗に、父の持つ権力を利用しようとしていたとロイズは呟いた。

 ティーナはそれに対して怒ることも、悲しむこともしない。アイザックは人を見る目に長けている。だからこそリリアやトーマといった有能な使用人を召し抱え、ティーナにはロイズという夫を当てたがってくれた。

 そんな父が彼の目論見を見抜けない訳がないのだ。


「義父上は、王太子殿下から依頼を受けていたらしい。どうにかして、ご自分の即位前に王宮の腐敗を正したいと打診があったらしいんです」

「それを、お父様が? なんだか、信じられません」

「能ある鷹は、その爪を人には見せないものです。――とにかく、俺たちの利害はそれで一致した。だがこれだけは、信じてください。誓って一度も、あなたを道具として見たことはない」


 信じろという方が無理な話かもしれない。ロイズは請うようにそう言ったが、ティーナの方は何度も何度も悩んできた種が一気に解消されて心なしかすっきりしたようだった。


 どうして彼がこんな斜陽公家の娘と結婚したのか。

 ボニールンゲン男爵とは何なのか。

 言ってもらえれば、笑顔で受け入れることはできなかったかもしれない。けれど、苦しみながら必死に自分を愛してくれようとした不器用な男のことを、きっと嫌いにはならなかっただろう。


「旦那様が信じろと仰るなら、信じます。そんなことを仰られなかったとしても、きっと私は信じています」

「……人が良すぎて世間知らずだと、言われませんか」

「言われているかもしれません。でも、旦那様だからですよ」


 二人で笑おうとして、体が揺れた。

 ゴトンと音を立てて揺れる馬車の中に、ロイズが御者めがけて鋭い声を放つ。


「何があった、襲撃か!」

「も、申し訳ありません旦那様! 馬が、馬が突然言うことを聞かなくなって……!」

「……ティーナ、出来れば体勢を低くして、何かに捕まっていてください」


 上着を脱いだロイズが、御者と入れ替わろうと扉を開けて身を乗り出すと、強い風がティーナの頬を叩いた。馬車の速度自体はそこまで速いわけではなかったので、ロイズが一気に御者台へ飛び移る。


「旦那様、一体何をなさるおつもりで――」

「暴れ馬くらい、地方ならそこらに掃いて捨てるほどいたさ。おい、邪魔はするな。ティーナが無事かどうかだけ、確かめておけ」


 短くそう御者に命令すると、ややしばらくして確かに揺れは治まった。ティーナの座っている位置からは泣きそうな御者の顔しか見えないが、恐らくロイズは本当に馬を鎮めたのだろう。


 ともかく、ワイズマン邸までは結局彼が手綱を握ることになった。


「お帰りなさいま――旦那様!? 一体どうなさってんですか、お嬢様は!」

「ティーナは中だ。驚かせてしまってすまないが、ティーナを頼む。この馬は少々気が立っている」


 そのまま厩舎まで馬を戻しに行くと言ったロイズに、リリアは慌てて馬車に駆け寄った。目を回しているわけではないが、少し驚いた表情のティーナが座っている。


「なにがあったんですかお嬢様……」

「えぇっと、いきなり馬が暴れ出して、ロイズ様が運転してくださったの。そしたら、馬も大人しくなって」


 リリアの手を借りて馬車から降りるティーナに、控えていたニンフェから上着がかけられる。屋敷まではもう距離はなかったが、春とはいえ夜はまだ冷えた。

 驚いてまだ少し目を白黒させているティーナを見て、リリアは長い長い溜息を吐いた。


「旦那様の疫神、健在ですわね……しばらくなりを潜めてらっしゃると思ったのに」

「あら、そんなことはないわ。今日はとても有意義な一日だったもの」


 色々あったけれど、ロイズと過ごせてよかった。

 そう付け加えるとリリアはもとよりニンフェまで呆れたような顔をしたのだが、この際それは見なかったことにしておく。

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