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「旦那様は、あまりご自分のことを話して下さらないのですね」
ほんの少しだけ言葉に毒を含めて、ティーナはロイズにそう問いかけた。先程からそれなりにロイズと談笑する人間も現れてきたが、そのどれもが彼の地方時代の知人である。
無論それに関してティーナはこれといった感想を持ってはいなかったのだが、大事なのはその話の内容であった。例えば、地方時代の彼の話をティーナに振られても、答えられないのだ。
ロイズは随分と実家に通い、またユリウスを通して彼女のことを知っていたのかもしれないが、肝心にティーナ自身はロイズのことを何も知らない。話したがらないのを無理矢理聞き出すのも悪いとは思っていたが、これでは立つ瀬がまるでないのだ。
「あー、……それについては、申し訳ないと」
「別に、謝罪が聞きたいわけではありません。先ほどのフレリック辺境伯閣下のことだって、そんなにお世話になった方なのに教えても下さらないで」
せめて、夫の恩人くらいにはきちんと挨拶をしたかった。実の息子のようだとまで言ってくれるかつての上司のことを、ティーナは何一つ知らなかったのだ。
じっとロイズの目を見詰めると、高い位置にある黒瞳がふらりと揺れた。やがて観念したように脱力したロイズは、顔半分を手で覆うと小さく息を吐いた。
「それは、確かに俺の責任です。……フレリック辺境伯マディン様は、俺が十八の時から世話になっている大恩人です。お若い頃は国王陛下の後見人も務め、俺が世話になっていた時も国境警備隊の大隊長をしていたんだが――一昨年奥様を亡くされて以来は、あまり王都に出てくることもなくなってしまった。いつかはあなたに紹介をと思って、結局できずじまいでした。母を亡くした俺に、優しくしてくれたのはマディン様が初めてだった」
後のことは帰ってからゆっくり話すと言って、ロイズは飲み物を取りに行ってしまった。遠目からその様子を眺めていると、そこで知り合いにつかまってしまったらしい。それで恐らくは、しばらく帰ってこられないだろう。
そうなるとティーナはただ壁の花に徹するしかなく、ダンスを踊る優雅な貴族たちや忙しなく動く使用人たちを目で追うことしかできない。時折彼女にもダンスの誘いがあったが、夫がロイズだと分かった瞬間に彼らは顔色を変えて引き返してしまうのだ。
(……やっぱり、向いてないのかしら)
思えば、母はこういうことが割と得意だったように思える。
なかなか表に出ない母ではあったが、来客などがあった際は進んで話のネタを振っていた。自分のように何もできずに座り込んでいる訳ではなかっただろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、また向こうから誰かがやってくる。
ダンスを誘いに来た青年貴族たちとは違い、それなりに歳を重ねた男だ。上品に笑顔を浮かべながらティーナの元までやってくると、白葡萄酒を差し出してくる。
「お美しいご婦人が壁の花の真似事ですかな? 実に勿体ない」
「夫を、待っておりまして」
「聞き及んでおります。先ほどあなたに振られてしまった男の一人が、私の倅でしてな」
「はあ……」
一応、差し出されたものは受け取っておく。
文句を言いに来たのかとも思ったが、男は笑ったままだった。うすら寒い予感がして、ティーナは心の中で何度もロイズに帰ってきてほしいと願った。しかし、話に花を咲かせる彼がティーナに気付く様子はまるでない。
「ロイズがあなたのような妻をもって、いや私も鼻が高い」
「……え? あの、フレリック辺境伯様のご親類か何かでしょうか?」
「いえいえ、私はボニールンゲン男爵オデット・ジーザと申します。ロイズの実父ですよ」
その瞬間、ティーナの世界から一切の音が消えた。
ボニールンゲン男爵。ディートリッヒが気をつけろと忠告し、ロイズがこれ以上ないほどの憎悪をむき出しにした相手だ。男爵位ということくらいしか知らなかったティーナに、一気に情報が与えられる。
顔、名前、そしてロイズとの関係。
何も言わないと、ティーナがロイズに申し付けたのはつい先ほどのことだ。
「あなたが、ボニールンゲン男爵閣下……ロイズ様の、お父様で?」
「おや、ロイズから聞き及んではおりませんでしたかな。しかし無理もない。あれは庶子でしてな、幼い頃母親があれを連れて我が屋敷を出奔したのです。しかし本来、あれこそが我が男爵家を継ぐ男」
上品だった男爵の顔が嫌らしく歪んでいくのを、ティーナはしっかり見せつけられた気がした。
庶子は、男親の承認がない限り家の相続権が認められない。しかし幾ら下級の貴族であっても、愛人の行方を探そうとすれば出来ないこともないだろう。つまり、男爵はあえてロイズを、そしてロイズの母親を突き放したのだ。
「あなた様が望まれれば、本妻の長男を廃嫡しロイズに男爵家を継がせることも可能なのです。親としても、能力のある人間に家を継がせたいと願うのは当然のこと」
そしてその上で、嫡男に廃嫡させることも可能だという。
ティーナは嫌気を通り越して、吐き気すらしてきた。政治に疎いティーナでもわかる。彼が言っているのは親心ではない。ロイズがボニールンゲン男爵を継げば、その父であるオデットは、ロスガロノフ家と直接の姻戚関係を結ぶことになる。
彼の狙いは、恐らくそれだ。
「……私に、決定の権利をゆだねられるのですか」
「無論、あなた様が望まれればの話です」
ならば、とティーナは椅子を立ち上がり、裾を払った。
没落貴族であろうが、ティーナにはプライドがある。それは家の為でも、名誉の為でもない。全てはロイズの為に捧げられる、ささやかだがれっきとした矜持だ。
「ならば、このお話は聞かなかったことに致します。既に私はロスガロノフ家を離れた身。そのお話でしたら、私ではなく父になさいませ……それに、私も彼の望まないことはしたくはありません」
珍しく強い口調でそう言い切ってから、ティーナはロイズの元まで一目散に駆けていった。言いたいことも聞きたいことも、あまりに多すぎる。
黒く切れ長の瞳がわずかに見開かれた時、思わずティーナの頬を一筋涙が伝った。
一方で、うっすら涙を浮かべたティーナが後ろも振り返らずに走り出すところを、ボニールンゲン男爵は何も言わずに見つめていた。
やがて椅子の上に置かれたグラスを下げさせると、温かさを感じられない黒い瞳が苛立たしさの炎を宿した。
「あの……世間知らずの小娘が……ッ!」
地の底から湧き出るようなその呟きを、彼以外に聞いた者はいない。
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