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 それまでティーナは、男性用の夜会服というのはどれも細身のものだと思っていた。彼女が知っている限りではアイザックもトーマも体ががっしりタイプではなかったし、そもそも周囲に軍人という職種の人間がそういなかったせいもあった。

 けれど、その予想をロイズは真正面からひっくり返したのだ。


 髪をかきあげて後ろへ撫でつけているのは普段通りだが、夜会用の燕尾服を着ているというのにその佇まいは軍服を着ているときと大差がない。

 ただ、それが似合っていないわけではなかった。体躯がしっかりしていても、ロイズは上背もある。細身とはいかないが、それである程度の均整はとれていた。


「これはワイズマン師団長。本日は警備ではなく、奥様と御一緒ですかな?」


 まるでにやつく表情がそのまま声になったかのようだった。

 じっとロイズを見詰めていたティーナが、声のする方へと振り向く。カイゼル髭の男が頭を下げた。誰かはわからないが、恐らく貴族だろう。


 ベルモンド子爵主催の夜会にはロイズとともに出席出来たティーナであったが、二人してそこまで交友関係は広くない。会話を交わす相手は、自ずとロイズの部下や軍部関係の人間が多くなっていた。


「……スペルガー伯爵閣下、ご無沙汰しております」

「いやいや、こちらこそ碌な挨拶もせんで申し訳ない。なに、師団長閣下がロスガロノフ公の養子になられたとお聞きした時は驚きましたぞ。娘も残念がっておりましたわ」

「小官は、別に養子になったわけではありません。――こちらが、妻のティーナです」


 下あごにたっぷりと肉を付けたスペルガー伯爵が品定めをするような目でティーナを見回した。

 爵位を持ち、名目上はロイズよりも立場が上であるスペルガー伯爵は、確かに今彼を「師団長閣下」と呼んだのだ。明らかな侮蔑と攻撃的な態度に、思わずティーナの体が竦む。


「ティ、ティーナ・ワイズマンです。ご挨拶も出来ず、申し訳ありません。伯爵閣下」

「いやいや、あのロスガロノフ家の姫君に頭を下げられては、我がスペルガー伯爵家が不敬の罪に問われてしまう。想像していたよりお若く見えるが……」


 肉に隠れた細い目が、無遠慮な視線を投げつけてくる。好奇心に満ち溢れたこの視線が、ティーナは何より苦手だった。


 やはり、先日の十七公家の会合とは違う。出席している貴族の人数も違うが、ティーナとロイズに向けられる視線が何よりもそれを物語っていた。公爵家同士という特殊な空間を体験した後だと、それを顕著に感じる。


「失礼、スペルガー伯爵閣下。妻はあまり体調がよくないのです。一度外の空気を吸わせて参ります」

「ほほ、それはそれは……お体を大切になされよ」


 最後に伯爵が視線を落としたのは、ティーナの下腹部だった。

 あからさまな態度に、思わずロイズが鋭く舌打ちをするのが聞こえてしまった。

 抑えるようにと顔を上げたティーナの左手を取って、ロイズは大股で会場を横切っていった。


「ま、待ってくださいロイズ様! いた、痛いですっ!」

「……っ、失礼」


 会場を出たところで、ロイズは申し訳なさそうに手を離した。強い力で握られた左手が、うっすらと赤くなっている。


「その、申し訳ありません。外に出よう」


 赤くなった部分をそっと撫でて、ロイズはティーナの少し前を歩いた。会場から少し歩くとバルコニーがあるが、そこにはあまり人もいない。一人警備の為かボーイが一人立っていたが、二人がやってくると一礼して席をはずしてくれた。


「あなたに不快な思いをさせるつもりはなかったが……その、スペルガー伯爵は以前護衛任務を頼まれたんだ。中央に来る前だが――申し訳ない」

「そんな、旦那様が謝る必要はありません。私の方こそ、伯爵様に不快な思いをさせたのでは」

「あの場合、無理もないでしょう。前からあまり得意だとは思っていなかったが、まさか娘のことまで出してくるとは」


 眉をひそめて舌打ちするロイズの表情は、中々に迫力がある、

 アラテアナ伯爵の顔が怖いと言ったディートハルトの気持ちがちょっとだけわかったような気がして、ティーナは少しだけ肩の力を抜くことが出来た。

 しかし、どうして彼は自分の娘のことを引き合いに出したのか。


「あぁ……以前縁談があったんです。俺ももういい年でしたし、相手はスペルガー伯爵令嬢。その頃にはすでにあなたと結婚することが決まっていたので、断りはしたが」

「あ、その、なんだか申し訳ないです」

「何故あなたが謝る? 俺は望んであなたと結婚したのに。最初から、伯爵令嬢とは会う気もなかった。どうせ、軍部で幅を利かせたいだけだったんだろう。アラテアナ伯爵は既に結婚していらっしゃるからな」


 正直ティーナには、「望んで結婚した」から後がほとんど聞こえていなかった。

 彼が何を思ってティーナと結婚したのか、その背景に何が絡んでいるのかを聞いたことは一度もなかったのだ。公爵家とはいえ没落しており、中央での権力を望まないロイズが何故自分を求めたのかが不思議でならなかったティーナは、その言葉にわずかに体を震わせた。


「あの、あ、あまり席を外しているのも申し訳ないです。会場に戻りましょう」

「だが、またあなたに嫌な思いをさせてしまうかもしれない。今しばらくはここにいた方が」

「本当に旦那様に挨拶をしたい方も、きっといらっしゃいます。それに、先程は少し驚いただけです。ワイズマン夫人としてもお父様の名代としても、覚悟はできていますから」


 本当は、そう言った声が震えていることに自分でも気づいていた。

 けれどそれを押し留めて、ティーナはロイズの目をまっすぐに見つめる。


 先ほどの様子を見る限り、やはり貴族主義の人間にロイズはあまりよく見られていないのだろう。いわゆる王太子殿下のお気に入りに、ティーナという付属品までついているのだ。自分のわがままで、彼にさらに迷惑をかけるわけにはいかなかった。


「行きましょう、旦那様。何かあってもまた旦那様が守ってくださるって、信じてますから」

「それは、……もちろんその通りだが」


 今度は、ティーナがロイズの手を引く番だった。剣だこの出来た厚い掌を包むと、ゆっくりとその手を引いて歩きだす。弱い力ではあったが、ロイズはそれを振り払おうとはしなかった。


 しかし、今度は早急にではない。時間をかけて、ゆっくり会場に戻る。

 その道すがら、二人はグレーの夜会服を着た老紳士を見つけた。にこやかに談笑していた老紳士は、二人を見つけると途中で会話を中断してこちらにやってくる。


 スペルガー伯爵とは違い、心地よく穏やかな笑顔だ。


「おや、ロイズ? 君はロイズ・ワイズマン大佐ではないかね?」

「は……? あなた、は――! フ、フレリック辺境伯閣下でございましたか! 申し訳ありませんっ!」


 急にロイズが声を上げ、敬礼の形を取った。

 眼の前の老人が辺境伯ということは、国王の後見を務めることもある有力貴族ということだ。ティーナも礼儀にのっとって頭を下げると、老人はやめてくれと笑い声をあげた。


「いや、すまないね。今は第二師団長か。いやはや時間が経つのは早い。あの時部隊を率いていた少年が、こんなに立派になって」

「その節は、ご指導ご鞭撻を賜り誠にありがとうございました。閣下のお陰で、三年前のヴェルンデッド領の反乱も無事に鎮めることが出来まして――本当に、何とお礼を申し上げて良いか」

「そんな昔の話を、若い人がするものではないよ。さて、そちらが君の奥方かな?」


 好々爺然とした辺境伯が、笑顔をティーナに向けた。自己紹介を簡単にすると、彼はなるほどと頷いてさらに笑みを濃くする。


「成程、可愛らしい奥方じゃないか。あぁ、紹介が遅れましたな、私はマディン・スタング。今は辺境伯として、妻が亡くなった後は地方で隠居暮らしをしております。ロイズは地方時代に、私の部下だったのですよ」

「マディン様……その節は、夫がお世話になりました。今まで何も知りませんで、ご挨拶が遅れたことをお許しください」

「もう何年も前の話だ、奥方殿が気にすることではありませぬ。しかし、こうして見ると中々に感慨深い。私どもには子供がおりませんでな、妻もロイズを実の子のようにかわいがっておりました」


 そんな話は初めて聞いた。それどころか、フレリック辺境伯のことすらロイズが口にしたことはなかったのだ。

 知っていたら早く挨拶に行っていたのに――非難がましくロイズを見上げると、彼はそれを見て小さく咳ばらいをした。ひどくばつが悪そうだ。


「その、奥方様の葬儀の時以来でしたか。本当に、ご無沙汰しておりました」

「君が中央に舞い戻って出世していると聞くたびに、私も妻も本当に嬉しかったものさ。どうか謝らないでくれ」


 微笑む辺境伯を前にしたロイズの表情は、本当にティーナの見たことがないものだった。

 父親に褒められた子供のような、そんなロイズの貴重な表情を目の当たりにして、ティーナは彼らの会話にしばしの間聞き入っていた。

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