27
先日は申し訳ありませんでした。
その言葉をティーナが口にするのに、たっぷり十秒はかかった。アイスブルーの瞳を細めながらその様子を見詰めていたディートハルトは、一瞬何のことだったかと動きを停止させた。
「あの、美術館の……」
「あぁ、あの時の。別に気にしていないよ。それこそ、滅多に怒らない君の怒り顔を見られただけで儲けものさ。エミーディオにもこってり絞られたし、俺としてはそれで終わりにしてもらいたいんだけれど」
「へ、」
「エミーディオ、顔怖いだろう? 君の旦那様もそうだとは思うけど、軍人はどうしてあんなに顔が怖いのばかりなんだろうね。君の旦那様にちょっかい掛けたことも、凄く怒られたよ」
思い出したくないことを無理矢理思い出すように、ディートハルトは眉を思い切り顰めた。ティーナからしてみればあまりエミーディオの顔が思い出せないのだが、顔が怖いとか軍人とかの条件だけならば率直にロイズを思い出す。ティーナは、彼の顔が怖いと思ったことは一度もなかった。
きょとんとしたままのティーナを見下ろして、ディートハルトはその秀麗な顔を思い切り歪めた。
「それにしても、まさか君が出てくるとは思わなかったよ。中央も、ロスガロノフの姫君を一目見ようって大騒ぎだ」
「私は、あくまでお父様の名代で」
「わかってる。でも、誰もそんなことどうでもいいんだよ。君はどうあがいても、アイザック・ロスガロノフの娘なんだ。……ところで、話は聞いてるよ、イーオネイア姫のこととか、リュリュカ川の治水事業のこととか」
ふと、それまで動きの多かったディートハルトの表情が止まった。
周りを見回してから真面目な表情でティーナの耳元に唇を寄せると、小さく息を吐いてさらに続ける。
「君の旦那様から直接聞いたわけじゃないけど、あまりうまくいっていないんだろう?」
「……それをお兄様に言って、よもや邪魔をされるおつもりでは」
「ずいぶんな言われ様だなぁ。君が俺をあんまりよく思ってないのは自覚してるけど、俺は別に頭の固い前時代の貴族主義者じゃない。ここ最近のワイズマン師団長の働きは、流石に賞賛に値するものがある」
冷たい、否、ティーナが冷たいと思っていたアイスブルーの瞳が、僅かに溶けたような気がした。
ディートハルトはことさらに声を潜め、本当にティーナにしか聞こえないような声で小さく囁いた。
「ボニールンゲン男爵には気をつけろ。君だけじゃない、ワイズマン師団長にもよくよく伝えてくれたまえ。……別に彼のことを気にかけているんじゃないけれどね」
それだけ言うと、ディートハルトは直ぐにティーナから体を話して別の公爵のところへ行ってしまった。
ボニールンゲン男爵。ロイズの口から、そしてリーズバルド王太子の口からも聞いたことがある名前だ。
国土関係の部署に奉職しており、リュリュカ川に手を加えれば彼の営む商売に支障をきたすという。如何せん中央政府の中枢に居座る人間らしく、ティーナの父であっても真正面から意見を通すことが出来ないとか。
「ボニールンゲン、男爵閣下……」
ディートハルトの言葉を噛みしめるように呟いたティーナは、ゆっくりと視線を上げた。
会場にいる公爵たちの何人かが、彼女に気付いたらしい。大半は紳士的に会釈をしてくるだけなので、ティーナも曖昧に笑いながら挨拶をすることでその場をしのいだ。
アレッセイの周りには、まだ人だかりが出来ている。
しかしティーナのお目当ての人物――ヒーストレイア女公爵プリメラは、その輪の中から外れたようだ。赤いドレスに包まれたグラマラスな肢体をじっと見つめていると、やがて彼女はティーナに気付いた。
「あら、どうしたのお嬢さん。
甘い香水の香りが、ティーナの鼻腔をくすぐった。
真っ赤なドレスに、胸元にはヒーストレイア公爵家の紋章。厚い唇をルージュで彩った彼女は、女性ですらうっとりとしてしまうほど蠱惑的な笑顔でティーナに微笑みかけた。
「あ、ヒーストレイア女公爵閣下、ですか……?」
「いかにも。貴方のこと、妾はよく知っているわ。アイザック様のお嬢様でしょう」
「ティーナ・ワイズマンです。その、ロスガロノフ公爵家当主名代として参りました」
「貴方の叔父上から頼まれたわ。うふふ、旦那様とのことで悩んでいらして?」
ミストレス――女主人という言い方がよく似合う女性だ。
ティーナはやや怖気づきながら、それでも首を大きく上下に振った。悩んでいる、というわけではなかったが、彼女の話を聞きたい。
「殿方はいつだって自分の矜持と戦っていらっしゃるものね。妾の夫もそうよ、今でこそ商業での功績が認められて子爵位が叙勲されたけれど、付き合った当初は『君はヒーストレイア公爵令嬢なのだから』が口癖。情熱的で可愛らしい方だけれど、それだけは辟易したわ」
そこ、お掛けにならない?
プリメラは手に持っていた羽根扇子で近くの椅子を指すと、優雅な動作でティーナを誘った。
それに付き従う形で、ティーナも浅く椅子に腰かける。足を組んで会場を見渡すプリメラと並べば、ティーナがどれだけ着飾っても大輪の薔薇とかすみ草ほどの違いになってしまう。
「ティーナ様の旦那様ってどういうお方? お話、聞かせて下さらないかしら?」
「はい……夫は、王国軍第二師団の師団長を務めております。現在は準勲士の位階を賜っていると、聞いたことが」
「あら、凄いじゃない。ナイトとお姫様なんて、理想の組み合わせだわ」
ニッコリとプリメラに微笑まれたティーナは、沸騰するように顔が熱くなった。ナイトと姫なんて、今までそんな喩えをした人はいない。
いや、準勲士なのだから言い換えれば確かにロイズはナイトと呼ばれてしかるべき立場なのだが、それでもおとぎ話のような比喩が持つ響きはあまりに甘すぎた。
顔に手を当てて熱を逃がそうとしているティーナの様子を見て、プリメラは面白そうに目を細める。
「でも、軍人ならなおさら大変ねぇ。妾も家も名前も何もかもを捨てて逃げ出したかったけれど、商家の次男っていうのも結構大変な位置なの。家は継げないけれど、お
どこかから、プリメラを呼ぶ声が聞こえた。
恐らく誰か別の公爵だろうか、呼びかけに応える仕草はあまりに美しかった。
「それでは御免あそばせ……ティーナ様、旦那様を信じて信じて信じぬくことも、妻の大切な仕事の一つですわよ?」
ひらりと手を振って立ち去るプリメラの後ろ姿があまりにも脳裏に焼き付いて、その日ティーナは自分が何をしていたのかよく覚えていなかった。
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