18
異国の姫君は、二人っきりになった部屋の中で両手を広げて立っている。護衛や侍女を置かないというのはどうかとも思ったが、恐らく部屋の外に誰かがいるのだろう。
ティーナはドレスの裾をつまんで、優雅に腰を折った。伝統的な貴族流の挨拶だが、実は彼女自身この動作は女学校以来したことがない。
前に出すのは右足だったか左足だったか、それを見咎められはしないかとハラハラしながらイーオネイア姫の様子を窺ってみる。
「お初にお目にかかります、私、ワイズマン夫人ティーナ・ワイズマンと申します。イーオネイア姫におかれましてはご機嫌麗しく――」
「あぁん、駄目よ、駄目ダメ! バルレンディアの挨拶ってどうしてこう堅苦しいの!? 顔を上げてよ! ティーナは私の話し相手としてきたんでしょう?」
入室していきなり、そう叱責された。
最初はてっきりティーナの所作が間違っていたのかと冷や汗をかいたが、そういうわけではないらしい。リーズバルド王太子の婚約者という肩書きから想像していた姫君とはイメージがかなり違うが、促されて顔を上げるとそこにはすぐ緑色の瞳が迫っていた。
「ひ、姫様……?」
「ルブグラドではね、近しい友人を迎えるときはこうして手を広げて歓迎の意を示すのよ。そして、迎えられた友人と抱き合うの。互いに武器を持っていない、敵意はないという証明になるのよ」
はきはきとした口調でそう言うと、イーオネイアはもう一度両手を広げた。
さあ飛び込んで来いと笑顔で促す姫君に、ティーナは恐る恐る近づいてその腕の中に納まった。扇情的なドレスは南国特有のものだろうか、薄絹のような触感がティーナの頬に触れた。
「そう、これで私たち友達よ。私のことはアイルって呼んで」
「アイル様、ですか?」
「イーオネイアはバルレンディア風の名前なの。ルブグラドではアイオネイルって呼ばれていたわ」
当然だが、バルレンディア公用語とルブグラド公用語は全く別の言語だ。ティーナは初めこそキョトンとした顔をしていたが、それがイーオネイアの望んだことであるならばと彼女の望むようにした。豊満な身体を赤いドレスで包んでいるイーオネイアはそれだけで大人びて見えたが、名前を呼ばれた時に見せる表情はティーナとさほど変わりない。
「この国じゃ、私をアイルって呼ぶのはリィドだけよ。立場上仕方がないっていうのは分かっているんだけど、少し寂しくて。……さ、こっちに来て座ってちょうだい。お茶くらいなら淹れられるわ」
「そんな、姫様にそんなことさせられません! 私が淹れますので、どうかお座りください!」
「いいのよ、私がやると決めたの。それに、もう私とティーナは友達だもの。私が何者だろうと関係ないわ」
非常に一方的ではあるが、ティーナはイーオネイアの友人として認定された。他国から嫁いできた彼女にとって、恐らく現王妃や侍女たち以外の女性と触れ合ったのは久しぶりなのだろう。ニコニコと機嫌よく茶を淹れると、ティーナの前にそれを置いた。
ただティーナの方は、自分よりも立場が上の人間にそんなことをされては気が気ではない。まだ婚約さえ公にされていないとはいえ、彼女はリーズバルド王太子の妻になるはずの人で、一国の王女だ。
「固くならなくていいのよ。ルブグラド王家なんかあなたの家より歴史は薄くってよ? 年も近いし、リィドに遠慮してるならそれもいらないわ」
「殿下に遠慮しているわけでは……あの、ついさっき初めて会ったばかりですし」
「私とリィドは顔なんか合わせないまま結婚が決まったわ。顔見知りかどうかなんて些末なことよ」
彼女はティーナとはまた違う意味で行動的な女性であるらしい。家人とのやり取りや街中での根切などには何の抵抗もないティーナだったが、こと貴族や王族とのやり取りは壊滅的なまでに苦手だった。
どう会話を持っていこうかと彼女が考えあぐねていた時、優雅に紅茶を飲んでいたイーオネイアの目がわずかに細められた。わざとらしく手を打って、ティーナの視線を引き付ける。
「私がルブグラドの王女と思うからいけないのね? だったら女学院の同窓生とでも思ってくれていいわ。実際ルブグラド王家って、国を建てたってだけの貧乏王家なのよ」
「そ、そうなんですか?」
「きっとこの国の一般的な貴族よりもちょっと貧乏ね。ティーナの実家みたいに大きな土地を持ってるわけでもないし、何より男性王族が多くてもう大変よ」
確かにロスガロノフ家の家計は他の公爵家に比べ潤沢とはいえない。ただそれは、都邸で贅を尽くし煌びやかな生活を送ることが出来ないというだけであって、ささやかな庭園で薬草を育てたり、少ないながらも有能な使用人や活気あふれる領民たちに囲まれている生活はティーナにとって満ち足りたものだった。
温くなってしまう前にと紅茶を飲んで、イーオネイアの瞳をじっと見つめる。
ロスガロノフは王族に大きな権力が与えられている国だ。恐らくルブグラドにも、イーオネイアの輿入れと同時に多大な援助を与えるだろう。
「私末っ子なの。上に姉様が二人、兄様は六人いるわ。姉様方は皆嫁いでしまわれたけど、年が近い兄様二人は臣に下って軍人になったのよ。上の兄様二人は仕方がないとして、真ん中の二人はどっちつかず。あ、でも誤解しないでね。私リィドのことは好きよ。優しくて頭もいい人だし」
ルブグラドは、大国から独立する際に多額の賠償金を払っている。それが今でも国家の財政を圧迫しているのだとイーオネイアは続けた。彼女と王太子の婚姻には、それだけ多くの国家的な事情が絡んでいるということだ。
「ねえティーナ、あなたは幸せ? リィドから聞いたんだけど、あなたも今の旦那様と結婚するまで顔を合わせたことがなかったって――先輩として教えてもらいたいんだけれど」
「幸せ、ですか。……はい、幸せです。その、私が至らないせいもあってまだ少し、ぎこちない気もしますけど。でも、とても幸せです。それだけは胸を張って言えます。イー……アイル様も、きっと。私が知っているのはまだお小さい頃のリィドお兄様だけですけれど、きっと幸せになれます」
ワイズマン邸にやってきた王太子の、イーオネイアを気遣う素振りや口調。なにより、彼女のことを思っていなければ話し相手としてティーナを用意することもなかっただろう。自分なりにイーオネイアを愛していると、彼はティーナにそう言ったのだ。
「やだ、ティーナったらその事だけは本当に胸を張るのね」
「あ、ぶ、無礼でしたか?」
「まさか。もっと聞かせて頂戴。そうねぇ、例えば夜のこととか」
「よるぅ!?」
「あら、大切なことよ。とくに私と彼にとってはね」
咄嗟に顔を赤くさせたティーナをからかうように、イーオネイアはコロコロと笑い続けている。どうやら新しい王太子妃は、彼女をいたくお気に召したようだ。
「本当にここはいい国ねぇ。そりゃあ、生まれてからずっと過ごしてきたルブグラドが一番だけれど、肥沃な土地に沢山の河川なんて羨ましいわ。こっちは国土の半分が砂漠なのよ」
「そ、そうなんですか? ルブグラドのことはあまりよくわからなくて」
「えぇ、独立した小国なんてどこもそんなものよ。乾季になれば国民の多くが渇きに苦しむの。バルレンディアはそんなことがないって聞いたわ。本当に、こちらから比べれば理想郷のような国」
どこか遠い目をして、イーオネイアは呟くように言葉を紡いだ。
明朗快活な王女のその呟きに何も言葉を返すことが出来ず、ティーナは紅茶に映る不安げな自分の顔をじっと見詰めていた。
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