17
ワイズマン家から王城まではさして距離もない。王都も外縁の三区以外はそう広さもないので、馬車を走らせればそう時間を置くことなく目的地に到着する。
結局、ボニールンゲン男爵というのはロイズの仕事に関わっている厄介な人物であるらしい。一先ずそう結論付けたティーナは、出掛けよりも少し落ち着いた表情で馬車を降りた。
「ここから俺は、王国軍の第二師団長としての立場であなたをイーオネイア姫の元まで案内します」
「はい、よろしくお願いします」
同じく馬車を降りたロイズの表情が、そこで一変した。ティーナの前では穏やかとまではいかないものの常に落ち着いていたその顔つきが、僅かに硬質さを帯びる。無造作にかきあげた黒髪が針金のようだと、ティーナは思わずぼんやりとロイズを眺めていた。
ややしばらくすると、開けた門の向こうから門兵と思われる男が走ってきた。
「ワイズマン師団長、お疲れ様です。王太子殿下からお話は承っております。こちらが奥方様でございますね?」
「あぁ。今まで地方暮らしが長かったため王城の構造はほぼわからない。イーオネイア姫の元までは俺が連れていくから、貴官は下がれ」
「かしこまりました。ワイズマン夫人、申し訳ございませんが手荷物の検査だけご協力をお願い致します」
恭しく頭を下げた兵士が、ほとんど何も入っていない手持ちカバンの中身を改め始めた。荷物らしい荷物はほとんど入っていなかったが、それでも兵はもう一度頭を下げてロイズとティーナの前から下がっていった。
王城と言っても、入り口が一つであるはずがない。ティーナとロイズが馬車を降りたのは裏門と呼ばれる辺りで、人通りもまばらだった。何かあった時に即ロイズが剣を抜けるようにと、彼が自らそう指示を出したのだ。
「気を悪くされましたか」
小さく、恐らくティーナにだけ聞こえるような声でロイズがそう問うた。それは今の門兵のことだろうか、それとも少しばかり他人行儀になった彼自身についてだろうか。
首を横に振って、ティーナも声を落とす。
「いいえ、あの方はそれがお仕事です。それにロイズ様も」
「……そうですか」
ホッとしたように一瞬だけ表情を和らげて、ロイズはティーナのすぐ前を歩いた。周りより頭一つ高い彼を見失うことはまずないし、どうしてだか人が集まる場所に出ようとすると向こうから二人を避けてくれるのだ。
何かあったのだろうか。
それを不思議に思っていたティーナが皆の行動の意味を理解したのは、イーオネイア姫が待つサロンがいよいよ眼前に迫ってきたときである。
「あの一番奥が、イーオネイア姫のいらっしゃる部屋です。部屋の中までは俺も付き添えませんから、そこからは向こうに任せてください」
「はい、わざわざありがとございました」
ロイズにもロイズの執務があっただろう。わざわざティーナの為に時間を割いてくれたことに礼を述べると、何処からかぱたぱたと忙しない足音が聞こえてきた。
「あら、何かしら――」
「危ない!」
小さな悲鳴が二つと、叫び声が一つ。
後に液体がぶちまけられる音が響いて、それを追いかけるように乾いた音が転がっていった。
咄嗟にロイズの手に引き寄せられたティーナは、固く閉じていた眼をようやく明けることが出来た。何事かと覗いた夫の表情は硬かったが、その背後から瞬く間もなく謝罪の声が飛んできた。
「も、申し訳ありません!」
まだ年若い少女の声だ。床に転がっている木桶がちらりと見えたので、恐らくそれをぶちまけてしまったのだろう。哀れなほどに顔を青くしてひたすら平伏する少女に、ロイズは何も言わなかった。
「あ、あの、どうか命だけは――」
「……君は何か勘違いをしているようだが、悪いが謝るのは俺ではなく彼女にだ。ティーナ、濡れているところはありませんか」
ロイズにそう尋ねられて、初めてティーナは自分の服や体がどこも濡れていないことに気が付いた。眼の前に一回り大きなロイズがいるのだからそれも当たり前なのかもしれないが、それは代わりに彼が濡れ鼠になってしまったということと同義である。
「私は平気です。ロイズ様が庇ってくださいましたから。ただこちらの方とロイズ様も……」
「俺は執務室に行けば代わりはいくらでもあります。上着は脱げばいいだけの話だ」
ティーナを庇ったロイズは背中に大きく濡れていたし、桶を転がしてしまった使用人の少女はお仕着せの全面がほとんどずぶ濡れだ。寒いのかと小刻みに震えている少女に声を掛けようとすると、いきなり床にひれ伏し出した。殆ど半泣きのような状態で、哀れな使用人は必至の命乞いをはじめだす。
「ロイズっ……!? え、『疫神騎士』様とその奥方様でいらっしゃるとは露知らず、ご無礼をお許しください! 末代まで祟るような真似は、どうか、どうかっ!」
「だから、君は何か勘違いをしている。俺は人を呪うことなんてできないし彼女も平気だと言っているだろう。風邪をひく前に一度着替えてくるといい」
辟易したようにロイズがそう言うと、少女は木桶を拾い上げ脱兎のごとく下がっていってしまった。
どうやら彼女は、『疫神騎士』に水をひっかけてしまったという事実に怯えていたらしい。
ティーナ自身も忘れていた、彼女が友人たちから結婚を考え直せと何度も言われた理由。それは彼の恐るべき不幸体質や、それにまつわる幾つもの逸話が原因だったはずだ。
「あぁ、それで『疫神』……」
「ティーナまで馬鹿げたことを言わないでくれ。今回はあの少女の完全な不注意です。それより、あなたに害がなくてよかった。俺と違って、あなたは今からイーオネイア姫に謁見するんですよ」
少しばかり疲れたように息を吐いたロイズは、自分はここまでだと言わんばかりにティーナの背中を押した。ロイズは入室を許可されていないと言っていたし、確かに水を被ったこの状態ではどちらにしろ着替えに行かねばならないだろう。
「先ほども言いましたが、お話が終わったら呼んでください。すぐに向かいます」
「わかりました。……あの、ありがとうございます」
「はい?」
「守っていただいたのに、お礼がまだでした」
きょとんとしたまま動かないロイズにそれだけを言って、ティーナはサロンのある部屋まで歩き出した。そこから先は、恐らくイーオネイア姫に付いていると思われる侍女が彼女を案内してくれた。
粗相がないようにと身なりを整えると、侍女が扉を開けてくれる。
「イーオネイア様、ワイズマン夫人がご到着です」
「そう、じゃあ通して。あなたは下がっていいわよ」
凛とした声が、ティーナの鼓膜を的確に叩く。
促されるまま一歩前へ進み出ると、案内の侍女はさっさと部屋を出て行ってしまった。
「初めましてティーナ。私がイーオネイア・フォネアット・ルブグラドよ。わざわざ来てくれてありがとう」
褐色の肌に、好奇心の旺盛さが見える緑色の瞳。少し訛りのあるバルレンディア公用語は、まだ勉強中なのかもしれない。
にこやかに微笑む未来の王妃が、両手を広げてティーナを出迎えてくれた。
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