16

「完璧よ。やっぱり私の見立てに間違いはなかったわ」


 ふん、と息を吐いて、ユリウスは大仰に胸を反らせた。薄らと額に滲んでいた汗を拭い、傍らのメイドたちに雑務を言い渡すとことさらに甲高い声を出す。

 今日は、ティーナがイーオネイア姫の為に王城に向かわなければならない日だ。

 仮にも王族になる姫君への謁見ともあって、ワイズマン邸の使用人たちはユリウスを筆頭に先日から忙しく動いていた。


 普段服飾にこだわりを持たないロイズに飽き飽きしていたのか、メイドたちは生地や見本をもってあちらこちらへと走り回り、バトラー達はそんな彼女らに顎で使われている。ロイズが選定したバトラーたちは皆、ユリウスを除いては主と同じく装飾にはとんと疎い男たちばかりだったからだ。


「さぁ奥様、姿見の前に立ってみて頂戴。一応薄い色で纏めてみたけれど、リボンはアクセントで濃いめね。ほら、前に緑が好きっておっしゃってたでしょう? 赤や青と違って色が濃くても主張が激しくないから、お姫様の前でも失礼には当たらないと思うわ。ちょっと幼く見えちゃうけど、まあ旦那様と並んだらちょうど釣り合いが取れるんじゃないかしら。髪の毛って、後ろにかき上げたら老けて見えちゃうじゃない?」


 ペラペラとまくし立てるユリウスに、ティーナはやや圧倒されながらもようやく一つだけ頷いた。確かに緑色は好きだし、クラシカルな中にも流行りを取り入れたユリウスの見立ては完璧だ。ともすれば貧相と思われがちなティーナの体を、ふんわりとしたフォルムで包んでくれている。


「旦那様、老けているのかしら?」

「年相応だとは思うけど、なにせあのしかめっ面がいけないと思うわ。あれだと四十になったら一気にくるわよ。大旦那様……奥様のお父様はどう?」

「お父様は、――叔父様より若く見られることがあるわ。確かに、ロイズ様と叔父様って似ているのかも」


 叔父というのは、パルムーク公爵領を治めるアイザックのすぐ下の弟、アレッセイのことである。規律を絵に描いたように厳格な人間ではあるが、何事にも誠意をもって臨む姿勢はどこかロイズと似たものがあるかもしれない。

 そこまで考えて、ティーナは小さくため息を吐いた。どうにも、魚の小骨のようにつかえて取れないものがある。


 あれからロイズとの会話は特に妙なところもなく、話せば話すほど彼が何かを隠しているかもしれないなどとは思えなかった。

 それどころか、不器用ながらも毎日少しずつ会話の時間が続くように苦心してくれている夫を疑っているという罪悪感が、ティーナを苛むのだ。おかげでここ数日、ゆっくりと眠れない日が続いていた。


「奥様? 気分でも悪いの?」

「あ、いえ……その、ロイズ様をお待たせしていないかなって」

「そう、そうね。じゃあそろそろお披露目しようかしら。奥様、胸を張っていってらしてね。トーマから聞いてるけど、あんまり思い悩んじゃ駄目よぉ」


 部屋を出るその瞬間にそっと背中を押されて、ティーナはユリウスの方を振り返った、にこやかに手を振る彼にもまた、ティーナは心配をかけてしまっていたらしい。


「ありがとう、ユリウス。その、ごめんなさい」

「いいえー、私だってワイズマン家の一員ですもの。勿論奥様もね。お互い様じゃないの」


 ユリウスの言葉遣いは屋敷の誰よりも砕けたものだったが、誰よりも的確にティーナを揺さぶってくる。その言葉にもまた背中を押されながら、ティーナはロイズが待っている広間まで歩いた。

 今日はロイズも、彼女に合わせて家を出る時間を遅くしてくれたのだ。これ以上待たせるのも申し訳ない。


「ロイズ様、お待たせして申し訳ありません」

「いえ、それほど待ってはいませんが……大丈夫ですか? 顔色があまり良くない」

「きっと、緊張をしているんです」


 そう言えば、ロイズはそれもそうかと納得したようだった。

 幾ら公爵令嬢であるとはいえ、ティーナは王族主催の大きな舞踏会ですら親族の囲いから出たことはほとんどないのだ。社交界での経験がほとんどない彼女がいきなり他国の姫君と顔を合わせるというのに緊張しているのだと、ロイズはそう考えたらしい。


「午後一番で迎えに行きます。イーオネイア姫もお忙しいお方ですから、その前にお話が終わったら、すぐ護衛の兵士に伝えてください。俺か副官がすぐに向かいます」


 実のところティーナはロイズがよく口に出す副官の男を知らないのだが、中々優秀な人間であるということはよく知っているつもりだった。

 彼のことを話題に出すたびに、ロイズのあの渋面が少しだけ和らぐのを何度も見たことがある。恐らく、とても信頼されている人物なのだろう。


「でしたら、安心です。本当にそこまでお心を砕いて頂いて」

「何を、遠慮しているのかはわかりませんが。あなたは俺の妻で、俺はあなたの夫です。家の者を心配しない人間がどこにいます」


 さも当然という風に首を傾げたロイズが、馬車に乗るからとティーナの手をとった。頭上から降る低い声は、何処までも気遣わしげだ。

 ユリウスといいニンフェといい、彼が選んだ家の人間は皆優しい。ロスガロノフ家で働いていた人間がそうでないのかと言われれば無論彼らも良い人間ではあったが、やはり主と使用人、使う側と使われる側という壁がどこまでも崩れることはなかった。年の近いトーマやリリアはその別に含まれることはないのかもしれないが、ここは年かさのメイド長も体つきの立派な料理長も、みな家族のようにティーナやロイズに話しかけてくる。


「先ほど、ユリウスにも同じことを言われました」

「では同じことを思っている人間は、屋敷の大半ということになるでしょう。あなたが普段のように笑ってくれないと、庭師のジョセフからも苦情が出ています」

「く、苦情ですか?」

「あれは軟派な性格でしてね、女性の笑顔の為に庭師をやっていると常日頃から公言してはばからない男なんです。我が家の庭が荒れるのを見たくなければ、一度でいいのであれに微笑んでやって下さい」


 陽気な庭師の名前を出されて、ティーナは目をぱちくりと瞬かせた。

 出立した馬車に揺られながらロイズの話を聞いていると、屋敷の人間も皆ティーナを気遣ってくれているらしい。

 申し訳ないことをしたと謝れば、そんなことをする必要はないとすぐにたしなめられる。怒っているわけではなさそうだが、ロイズはどこか意外そうに首を傾げた。



「俺が思っているあなたは、もっと天真爛漫というか……もし、もしもあなたをそうさせてしまったことに俺が関係しているというなら是非言ってほしい。非があるのなら、謝罪も」

「そんな! 旦那様には一切非なんてありません。ただ、少しだけ気になっていることがあって」

「気になっていること、ですか」


 これは、聞いてしまってもいいことなのだろうか。

 一度唾を飲み込んで、ティーナは慎重に言葉を選んだ。もしかして本当に、ロイズにとって触れてほしくないような事だったら。それが原因で彼を傷つけてしまったら、どうすればいいのか。

 じっとティーナを見詰めて言葉を待っているロイズに、そういうわけでもないのにどこか責められているような気分になった。



「……その、リュリュカの治水のことで。夏が、近づいているでしょう」



 結局、ティーナの口から出たのは咄嗟の嘘だった。治水のことにロイズが心を砕いてくれているのは知っている。逃げた、と深くため息を吐きそうになるのを抑えて、出来るだけその嘘がばれないように表情を繕ってみる。


「ああ、その事でしたか。遠慮せずに聞いてくれれば教えましたよ」

「そ、の。お忙しいようでしたから、なんだか申し訳なくて」

「いえ、俺が言いだしたことですから。申し訳ありませんが、まだあまり話自体が上まで届いていないというのが実情なんです。――ボニールンゲン男爵という男がいましてね、リュリュカの治水に乗り出すと彼が手がけている商売に支障がでるんです」

「ボニー、ルンゲン? それって」

「傲慢という言葉が服を着て歩けばあの男のようになるでしょう。最近は俺の向こうに義父上でも見たのか、大人しくしていますが」


 それだけを、吐き捨てるようにロイズは口にした。

 僅かに伏せた顔に浮かんでいるのは今までにティーナが見たことがない、あからさまな憎悪と侮蔑だった。

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