09

 いつも髪をかきあげて渋面をつくりあげているロイズが、今日は別人のようだった。髪をおろし、生成りのシャツに上着を羽織った姿は何処となく気品が漂っており、生粋の軍人というよりは貴族の子弟のような風格さえ漂わせている。


「はーい、奥様お披露目よー! もう、メイド総出で頑張っちゃったんだから!」


 ロイズが激務に追われた七日間、ティーナもまたそれなりに忙しく働いていた。ワイズマン邸に出入りする多くの商人たちの顔を名前をしっかりと覚え、かつ筆不精な夫に代わり調度品や消耗品を売りにやってきた者にはそれぞれ礼状を出す。母の見よう見まねでそんなことをしていれば、あっという間に七日は通り過ぎていた。そもそもワイズマン邸に出入りする商人たちは貴族御用達の敷居が高いものではなく、王都に店を構える平民たちが多い。礼状を出して逆に恐縮されたということも何度か経験することにもなった。


 しかし、リリアに背中を押される形で扉から顔を出したティーナはそれどころではない。ラフな服装のロイズに合わせてこちらもハーフアップにそう華美ではないカジュアルドレスを着ている。薄紫色のドレスはトーマが選んだものだが、ロイズもそう悪い気はしていないようだった。その証拠に忙しなく視線を移ろわせては無言で口を抑える様は、何とも滑稽極まりない。


「その、お似合いです」


 一向に視線を合わせないままそう言ったロイズに何処となく寂しさを覚えながら、ティーナは薄く微笑んだ。


「ありがとうございます」


 王都内にあるワイズマン邸とはいえ、その王都もかなりの広さがある。美術館までは馬車で向かうとティーナの手を取ったロイズの仕草は、あまりに自然だった。


(あ、)


 女性をエスコートするというには余りに遠慮ない手つきだが、初めて触れる剣ダコが出来た大きな掌はそれだけで頼もしかった。思わず頬が緩みそうになるのをぐっとこらえて、馬車に乗りこむ。彼一人ならば馬を飛ばせば済む話だが、ティーナも一緒となるとそうもいかない。態々馬車を用意してくれたのは彼の優しさだった。


「あの、ロイズ様」


 素直に、ティーナはロイズに礼を言いたかった。指揮官とはいえ激務を極めるロイズが、わざわざティーナの為に休みを取ってくれたのだ。たった三日、そのために彼が走り回った時間はどれほどだっただろうか。


 しかし手を差し伸べるロイズに微笑みかけると、何を勘違いしたのか少し困ったような表情をされる。ティーナは首を傾げながら、武骨な手を取った。


「一瞬だけ、我慢してくださいね。足などを挫けば大事です」

「我慢? 何を我慢するのですか」


 彼の大きな手は温かく、節くれだた指でさえ頼もしさを感じずにはいられない。何よりティーナを気遣って差し出されたその手に、一体何の不満があるというのか。

 乗りこんだ馬車の中はそれなりに広かったが、それでも二人は対面に座った。ゆっくりとロイズの手が離れていくのに名残惜しさを感じながら、与えられた温もりを手放さないようにその手を膝の上に下ろす。


「私はロイズ様の手、好きですよ。あたたかくて大きな手です」

「あまり綺麗ではありませんよ。切り傷とタコだらけで、それに俺はこの手で人を斬ってきたこともある」


 ロイズとティーナが会話をするとき、必ず彼は自分を卑下するような言葉を吐く。ティーナが数少ない社交界で聞いた貴族の皮肉ではないにしろ、あまり彼に己を蔑む言葉を吐いてほしくない。真正面からその黒い瞳を覗いて、ティーナは首を横に振った。


「ロイズ様の手は、沢山の方を守ってこられた手です。都督府がなければ国境の民はあっという間に略奪され殺されてしまうし、王都の治安を守る人がいなければあっという間に風紀は乱れ、民衆や王の心は憂いに沈むことでしょう。どうかそれを自ら貶めるような真似は、なさらないでください」


 綺麗な理想論ではある。けれどどうにか彼の痛ましい表情を見たくなくて、ティーナは言葉にめいっぱいの力を込めた。


「それにロイズ様、ご自分のなさったことには誇りを持っていらっしゃるように見えますもの」


 いつものように花咲く笑顔を向けられて、思わずロイズはその手で顔を覆った。参った、と口の中で呟いた言葉はティーナに届かなかったようだが、やがて不格好な笑顔を浮かべると気を付けると言って頭を下げた。


「そんな、旦那様にそんなことをさせるつもりは」

「いいんです。俺が間違えた時は、またこうして叱ってください。確かに、自分のしたことに誇りを持ってはいても恥など感じてはいない。あなたにそう言ってもらえると、心強いものだ」


 ほんの少しだけ、硬質な瞳が和らいだ。それからさらにロイズが何か言おうと口を開きかけたが、馬車が動きを止め御者の声がかかった。どうやら美術館についたらしい。


「――行きましょうか。石畳ですから、足を取られぬよう」


 出かけた時と同じように、ロイズが手を伸ばす。躊躇いがちな視線や不安げな手つきではない。しっかりと握ったロイズの手はやはり温かく、ティーナは満面の笑みでそれに応えた。



「私も本で少し読んだだけなんですけれど、エスター・ブリシュの絵ではこれが一番有名みたいです」


 展覧会が始まったときには賑わいに賑わっていた美術館も、期間を半分も過ぎれば中だるみ気味になってきているらしい。数日前に画家本人がやってきたときはそれなりに混んでいたのかもしれないが、今は昼前ということもあり随分人が少なかった。

 目玉である絵画――太陽を背に溌剌と笑う子供の絵だ――の前にも、そう人は立っていない。


「これですか? ただの子供のように見えますが……」


 宝物になった画集を、ティーナはそれこそ擦り切れるほど何度も繰り返し眺めていた。一枚一枚の絵に込められたエピソードも、そっくり頭の中に入っている。


「それが、これはエスターの自画像らしいんです」

「自画像? まさか、子供ではないでしょう」


 市井の画家エスター・ブリシュは公の場に姿を現すことがほとんどない。それだけに先日美術館に彼がやってきたときは、それだけで大きな話題となったのだ。ロイズも同僚からそれを伝え聞いてティーナに教えたのだが、その時ですら簡単な挨拶を述べてさっさと帰ってしまったらしい。

 人間嫌いだともっぱらの噂であるエスター・ブリシュの幼少期が、これほどまで活発な子供とは。


「えぇ、だからちょっと私も気になっていたんです。彼の描く子供の絵が好きなんですが、これだけはちょっと違うでしょう? 色の使い方が、この絵だけとても明るくて」


 油絵の出す重厚さの中にあっても、今にも飛び出してきそうな子供の躍動感が感じられる。画集と本物を何度も見比べながら、ちらりと自分の横を覗いてみたティーナは何とも言えない幸せな気分になった。リリアが甘えてみろだなんていうから少し緊張しているが、これはこれでいい。今日一日で今まで彼と話した時間の多くより中身のある時間を過ごせた気がする。


「あぁ、あっちの絵も見に行きましょう」

「娼婦の絵ですか?」

「なっ! 違います、『北風と童』の方ですよ」


 わざと冗談めかして言ってみた言葉に、ロイズが肩をはね上げた。軍人である彼の声はよく通るので、少ないながらも絵を見に来ていた人々は何事かと二人の方に視線を向けた。


 思わず声を上げてしまったロイズについて他の絵を見に行こうと足を踏み出したとき、ティーナは見知った視線がその中に存在していたことを知った。あろうことかその視線の主は、ティーナがそれに気付いたことを知ると先ほどのロイズよりも通る声でその名前を呼んだのだ。


「ティーナ!」


 何事かと鋭く視線を巡らせたロイズの服の裾を、小さな手がきゅっと掴む。小さく零れ落ちた声は、明らかに信愛とはかけ離れたものだった。


「ディートハルト、お兄様?」

 

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