10
リーズバルド王太子の髪の色が太陽の加護を受けた色ならば、その男の髪色は冷たく月の光を跳ね返す金色だった。アイスブルーの瞳がロイズを見て僅かに細められるが、それ以外は特に気にした風もなくティーナに近づいてくる。背丈はかなり高いが、体の方はあまり厚みが感じられない男だった。
「やあティーナ! 久しぶりだね、まさか君が王都に来ているなんて思わなかったから、俺も普段着で。君が来てるって知ってたら、もう少しまともな格好をしてきたんだけど……君も随分気楽な服装をしている、お相子でいいかな?」
軽薄な口調でティーナに話しかけ続ける男を、ロイズはいつもの強面を作り直して睨み付けていた。当のティーナはと言えば俯いたままロイズの服の裾を握りしめているだけだったが、やがて決心したように息を吸うと、男を見上げて頭を下げた。
「御機嫌よう、お久しぶりですディートハルトお兄様……その、先日はありがとうございました」
兄という言葉にロイズがわずかに反応を示した。ロスガロノフ家にはティーナ以外に子供がいないため本当の兄ではないにしろ、貴族か王族、またはそれに準ずる地位の人間ということか。
「あぁ、いいんだよ。でもてっきり君は俺のところに来ると思っていたんだけど――どうして爵位も持たない準勲士にティーナを嫁がせたのか、まったくロスガロノフ公の考えていることは、俺みたいな若輩には分からないな」
造形は美しい男だが、その口ぶりは典型的な貴族派の人間のものである。妻を庇うように前に進み出たロイズが、恐らくティーナが聞いたことのある彼のそれの中でいっとう低い、地の底から這い出てくるような声を出した。
「失礼、妻の知り合いで?」
「あぁ、紹介が遅れて申し訳ない。俺はベリーハット公爵ディートハルト・ロロティア・ベリーハットだ。ティーナとは少し遠いが血縁でね」
恐らく、その言葉でロイズが戦くとでも思ったのだろう。悠然と微笑むディートハルトは、自分が絶対的優位にあると信じて疑わないといった表情をしていた。対するロイズは、あくまでも軍の上官に対するものと同じように頭を下げた。
「小官は王国軍第二師団団長、ロイズ・ワイズマンと申します。先ほどのご無礼、平にご容赦のほどを」
「いいよ、君はティーナの旦那様だからね。以後気を付けたまえ」
文官が軍人からの敬礼に応えるように、ディートハルトの方は左胸に握りしめた右手を当てた。ディートハルトは軍属ではないのだから当然だが、幼い頃からよく知っている彼がそうした返しをすることを、どこかティーナは不思議に思っていた。
「それで、新婚夫妻がまさか美術館巡りとはね」
嫌味を平然と返してのけたロイズに一瞥くれてから、ディートハルトはフンと鼻を鳴らしたその瞳に冷え冷えとした感情をたっぷり織り込んで、更に口角を上げる。
「ティーナ、本当にこの結婚に納得しているの? 言っちゃ悪いが、彼は軍人で、君は国一番の貴族を両親に持っているんだ。本来はしっかりと身分の安定した、それも伯爵以上の上位貴族を夫として――」
「お兄様、」
震える声を無理やり響かせて、ティーナはじっとディートハルトを見上げた。掴んだままだった裾はくしゃくしゃになってしまったが、それでもなお強く握りしめては唇を噛んでいる。美術館の中だというのに、ディートハルトが現れたあたりから視線を感じることがなくなっていた。恐らくは彼が貴族であると、多くの人間が気づいたからだろう。
「お兄様、確かにお兄様はベリーハット領をお継ぎになられて、国王陛下の元で大変ご活躍であるとお聞きしています……けれど、だからと言って私の旦那様を、お、貶めるような真似は御自重ください」
普段ニコニコと絶えることのない笑顔は、哀れなほどに萎れて体は小さく震えている。ティーナにとってのディートハルトは、ただの優しい遠戚などではない。立派な恐怖対象である。アイスブルーの瞳が遠慮なくティーナを射ぬくのを、とうとうロイズも我慢できなくなったようだ。多少乱暴にではあるがティーナをディートハルトから引き離すのに、それまで裾を掴んでいた細い指先を握りしめた。
「可愛くないなぁ、昔はあんなにお兄様お兄様って、俺のこと呼んでくれていたのに」
猫なで声でそんなことを言ってのけたディートハルトが、そっと腕を伸ばす。しなやかな指先がロイズの傍を潜り抜け自分に向かって伸びた時、思わずティーナは小さく悲鳴を上げた。
「ディート、何処に行ったかと思えば……何をしている」
蛇のようにティーナの傍まで伸びた指が、ぴたりと動きを止めた。それはロイズも同じだったようで、先ほどディートハルトが自らの地位を明かしたときなどよりもよほど驚愕しているように見えた。
「あまりうろうろするな。お前の外見は目立ちすぎる」
「ちぇ、見つかっちゃったか。早すぎるよエミーディオ」
エミーディオ。その名前を聞いた瞬間に、ロイズの体が跳ね上がった。何事かとロイズの体越しに声のした方向を見てみると、軍服を着込んだ赤毛の男の姿がある。
「ル、ルィズーベント卿」
「ロイズ? 貴様ロイズ・ワイズマンか? なんだ、髪を下しているから誰かわからんかったぞ」
エミーディオ・ルィズーベント。その名前を聞けば、ティーナの人物禄にも当てはまる人物が一人存在した。元々人の名前を覚えるのは貴族の子女の必須事項でもあるのだが、その名前は恐らく街を駆ける子供たちでも知っていることだろう。
「アラテアナ伯爵閣下?」
「いかにも、私がアラテアナ伯エミーディオ・ルィズーベントだが……ロイズ、貴様の細君か?」
年頃は三十代か、恐らくロイズよりも年上だ。第二師団長の彼がこれほどまで緊張するのだから、エミーディオは軍部でもさらに上位に座しているらしい。
「はい、ティーナと申します」
思わず疑問が口をついたティーナに代わり、ロイズが代わりに紹介をしてくれた。本来はティーナの方から挨拶をしなければならないのだが、これは失敗だ。
「ティーナ・ロスガロノフ、って言った方が、聞き馴染みはあるかもしれないね」
エミーディオに叱責されてふくれっ面をしているディートハルトが、聞こえみよがしにそう言い放った。ロスガロノフ、と一度呟いたエミーディオが、赤茶色の瞳をカッと見開いた。
「何と、貴様本当にロスガロノフ令嬢と結婚したのか? 中央軍部でも持ち切りだぞ、お前がロスガロノフ公を脅しあげて無理矢理娘を娶ったと」
「違います、脅しても無理矢理でもありません」
中央軍部、という言葉にティーナが何か引っかかりを感じたのは、この時だった。ロイズの所属は第二師団、つまり彼もまた中央軍部所属の軍人であるのだ。頭に浮かんだ疑問符をそのままにしていると、やがてエミーディオが快活な笑顔を浮かべた。
「細君は今の私の言葉が気になったのだな? いやなに、コイツは地方軍部での生活が長かったのでな。かくいう私自身、長く地方軍部で過ごしたのだ。コイツに関しては、私も地方の方が活躍できたのではないかと思っているのだが――」
そういうものか。
ロイズの陰に隠れたまま、ティーナは何度か頷いた。それに困惑したような素振りのロイズが、上官と妻の間に挟まれてしどろもどろの状態になっている。
「ちょっと、俺のことも忘れないでよ」
「あぁ、お前がいなくなったせいで私がとばっちり食らって探しに来たんだ。いいかディート、屋敷に戻れ。家人総出でお前のことを探していた」
「探せない方が馬鹿なのさ」
くすくすと笑ったディートハルトは、今度こそエミーディオに従って身を翻した。
「ロイズ、細君、迷惑をかけたな」
「いえ、俺は――」
思わず否定しかけて、ロイズの動きが止まった。先程まで震えながら自分の陰に隠れているティーナのことを思い出したのだろう。唇を真一文字に結ぶと、そっと裾を掴んだままだった手を上から握り返した。
「……はい、ルィズーベント卿も、お疲れ様でした」
あえてディートハルトには触れず、頭を下げる。ティーナもそれに続いて同じように頭を垂れた。美術館にある人の姿は先程よりさらに疎らになり、ロイズもティーナを気遣ったのか帰宅を勧めた。
「ティーナ、申し訳ない。ベリーハット公からあなたを守るどころか、俺は……」
馬車の中で苦々しく眉をひそめたロイズは、その真黒の瞳を憂いに陰らせた。ディートハルトが持つあの独特の威圧感に、ロイズもまた気圧されたのだろう。王宮内で数多の策謀を繰り広げ、また自身もその中を掻い潜ってきたディートハルトと、地方で幾つもの死線を潜り抜けてきたロイズ。恐らく彼自身もまた、ティーナが感じたものと同等の恐怖を感じたはずだ。
「悪い人では、ないんです。お兄様は昔からお優しい方でしたが……」
口ごもったティーナの頭に、あの大きな掌がぽすんと乗せられる。
「大丈夫、正直に言えば俺はベリーハット公は好きではないが、ルィズーベント卿のこともあります。それに、ティーナの言葉を信用したい」
それにしても――と、ロイズが大きく息を吐いた。
「疲れましたね」
「えぇ、でも楽しかったです」
ティーナがそう笑った時、馬車はようやくワイズマン邸に到着した。
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