06

「今戻った。ユリウス、適当な薬草を――あ、」

「お帰りなさいませ、旦那様」


 夕時。出迎えたティーナに、ロイズはまた顔を真っ赤にさせて口を何度か開閉した。ティーナがいるということを失念していたのだろう。やや埃がたった軍服を荒く掃いながら、ぎこちなく頭を下げる。


「ただいま帰りました……ここは寒いでしょう。食事時まで部屋にいらしてもよかったのに」

「ロイズ様にお聞きしたいことがあって。……どこかお怪我でも?」


 それまでニコニコと本を抱えていたティーナの表情が、僅かに曇る。薬草が必要だということは、どこか怪我でもしたのではないか。心配そうな顔を隠そうともしないティーナに、ユリウスが微笑みかける。


「大丈夫よ奥様。どうせ大したことないんだから」

「確かに軽い打ち身だが、ユリウスお前、例のことティーナには」


 肩を竦めてウィンクを決めたユリウスに、ロイスがわずかに声を上げた。例のこと、とは彼の口調のことを言うのだろうか。得意げに胸を反らせて鼻を鳴らすバトラーは、やはり今までの彼よりもずっと生き生きしていた。



「えぇ、奥様にお墨付きもいただきましたもの。サッスガ奥様、度量の広さが違うわぁ!」


 聞き心地の良いバリトンが、一気に跳ね上がった。やや裏返ったようなその声を聴いた途端ロイズは額を抑え、トーマとリリアは笑いを必死にこらえているようだ。


「でも、軽度でも打ち身は打ち身です。薬草は私がお持ちしますから、十分に患部を冷やしていてください」


 ティーナが身を乗り出すと、ロイズはその切れ長の目を丸くさせた。嫁ぐ前は領地を見回っていた父の擦り傷切り傷を癒すために薬草を煎じたことは何度もある――そう言えば、ロイズはさらに驚いたようだった。


 軽い切り傷や打撲を癒すための薬ならば、行軍中の非常時に役立つためロイズも煎じたことがある。しかし国内屈指の大貴族の娘が、進んでその肌を刺激の強い薬液にさらす必要など皆無のはずだ。その視線に気が付いたのか、ティーナも恥ずかしそうに笑う。


「気に障ったのなら、ごめんなさい。本当に田舎だったから、お医者様も薬師様も王都よりずっと少ないんです。お薬もなかなか値が張るでしょう? それなら家の庭で育てた方が、領民の方にも安く提供出来るし」



「気に障るなどということはありませんが……あなたがそんなことまで、義父上はお許しになられたのか?」

「最初は凄く怒られましたけど、どんどん諦めてしまったようです。それに、農作業をすると肉刺が出来るでしょう? 私は鍬を持っても足手まといになるから、お母様と一緒に皆さんの肉刺や傷に薬を塗る係だったの」


 香りの強い薬草も慣れたものだと、ティーナはどこか誇らしげだ。それに思わずロイズも顔をほころばせたが、やがて毅然とした表情をつくるとゆっくりと首を振る。


「あまり、綺麗な体をしていませんから。切り傷に痣だらけで」


 着替えてくると言い残して、ロイズはそのままユリウスを伴って自室に戻ってしまった。分厚い本を抱きしめたまま、俯くティーナが残される。


「奥様、ロイズ様を怒らないであげてください。あの、いつもそうなんです。今よりお若い頃に大きな怪我を負ってしまわれたとかで、ユリウス様以外には傷口をお見せにならないっていうか……その、奥様だから尚更だと思うんです」


 申し訳なさそうに小さくなっているニンフェの頭を撫でながら、ティーナはうっすらと微笑んだ。自分を思ってくれているということは、彼が言葉にしなくてもなんとなくわかる。けれどやはり妻としては頼ってもらえないことにほんの少しの寂しさを感じたりもする。急に存在感を主張し出した革張りの本を抱きしめて、ティーナはことさらに明るい声を出した。


「さ、旦那様が戻ってきたらご飯にしましょう? また旦那様の書斎で本を借りて行ってもいいか聞いてみたいの」


 痛ましげな表情のニンフェの横を通り過ぎて、夕飯のメニューなどを尋ねてみる。そこはかとなく感じるもやもやとした感情を押しのけて、ティーナはさらににっこり笑ってみせた。



 着替えを済ませたロイズが部屋から戻ると、そこで食事となった。

「あ、毒味はもう大丈夫ですよ。旦那様自らそんなことをなさらなくても、料理長様の腕は信用していますし」


 スープを前にしてティーナがそう言えば、ロイズは不承不承と言った様子ながらも頷いた。あとから聞いた話では、部下の一人にたしなめられたらしい。


「その、今日はどのようなことをして過ごされたのですか? 大して面白いものもない家で申し訳ないが、何か欲しいものなどは」


 場を持ち直すようにそう問いかけたロイズに、ティーナは昼間彼の書斎を邪魔したことを話した。書類などには触れていないと一応付け加えたが、そのことに関してロイズは特に気を留めていないようだった。


「本が沢山あったので一冊お借りしたのですけれど、よろしかったかしら?」

「本? あぁ、あなたのような女性が好みそうな本はあまりないが……もし好きな作家などがいれば、すぐに取り寄せましょう」

「いえ、そんなことをしていただかなくても素敵な本を見つけました。エスター・ブリシュの画集、ありがとうございました」


 思い出したように傍らの本を撫でると、ロイズは一瞬何のことだかわからないといった表情をする。しかしその本の中身を理解すると、精悍な表情は忽ち驚愕に変わった。本人としては、上手に隠したつもりだったのだろう。


「そ、れは。その、ユリウスが?」

「いえ、偶然目についたもので、ユリウスに尋ねたら旦那様の趣味ではないって聞いたから……ありがとうございます、ロイズ様」


 花開くように顔をほころばせたティーナに、ロイズは茹で上がった甲殻類もかくやの顔色をしている。武勇をもって名を馳せるロイズ・ワイズマンを知っている人間ならば、誰もが本当に同一人物かと疑うほど狼狽えた表情で、右手は何をしたいのか宙を揉んでいる。


「よ、喜んでいただけて何より、です。その、絵画が好きなら今度は共に、美術館に行きましょう。俺もあまりこういったことには詳しくないのですが、よければ一つ二つ教えていただければ」


 しどろもどろにそう言った後で、ロイズは口に含んだ葡萄酒を思い切り吹き出しそうになっていた。まともに会話をすることでさえ困難なこの状況で、彼はティーナと共に出かけようと提案したのだ。


「あ、いや、あなたが嫌でなければ」


「そんな、嫌だなんてとんでもない! お仕事がおやすみの時にでも、是非」

 思いもかけない提案にさらに喜んだティーナに、ロイズは深く深くため息をついた。しかししばらくたってようやく落ち着いたのか、ふと一つの疑問を投げかけてくる。


「あなたは、笑わないのですね」

「え? あの、ずっと楽しくさせていただいていますけれど」

「そうではなく、俺は一介の武辺ですし、生まれもいいとは言えません。平民生まれの軍人が絵画など、笑い話にもならないでしょう」


 ぽつりと呟かれた言葉は、明らかな自嘲を含んでいた。最近は平民であっても戯曲や絵画を嗜む者も存在しているし、話に上がったエスター・ブリシュも町民の生まれであると聞く。


「何故、そのようなことを聞くのです? ロイズ様が私を美術館に連れて行って下さると言ったのに、どうしてロイズ様の生まれが関係するのですか」


 バルレンディア王国には未だに血筋の威光を振りかざす保守派と呼ばれる貴族もいれば、商工業や軍事での功績により新たに爵位を賜った新興貴族も存在する。一昔前、王族や貴族が神の如き権力を誇った時代とは違い、今は市民にもたくさんの権利が与えられている時代なのだ。


「私が言っても説得力はないかもしれませんけれど、人の生まれは血筋によって優劣が付けられるべきではありません。大切なのは、その人自身です。……なんて、お父様の受け売りなのですけれど」


 恥ずかしそうに笑って本を抱きしめたティーナは、また小さく微笑んだ。それまでまっすぐとした視線でロイズを見据えていたのを、年相応の少女の表情に巻き戻していく。


「本当は、旦那様とお出掛けできるのがただ嬉しいだけなんです」

 その言葉に、今度こそロイズは頭を抱えて叫びたくなったのだという。

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