05

「こちらが旦那様の書斎でございます。とはいえあのお方も脳味噌筋肉……じゃない、軍部には優秀な副官の方がいらっしゃいますから、専らこちらでは領地の意見書に目を通しておられます。あぁ、書類には触らぬよう。もしも私が付いていながら奥様が指先を切ったなんていうことになったら、私は旦那様に叱られてしまいます」


 庭でニンフェに草花の説明を受けているトーマに代わって、ユリウスとリリアがティーナの屋敷の散策に付き合ってくれた。火事で焼け落ちてしまったロスガロノフ家本邸は先々代だかその前の当主だかの趣味で、俸禄に似合わない程華美なつくりをしていた。別邸は父が幼い頃から住んでいたもので幾分と簡素になっていたが、ワイズマン邸はその別邸によく似たつくりをしている。


 ティーナはこの一年そこに住んでいたせいか、小ぢんまりとした佇まいがなんとも言えず落ち着くのだ。ロイズの性格なのか装飾品は最低限のものが几帳面に磨き上げられていた。広間を守るように立っていた銀の甲冑は年代ものだろうに、月日の経過とともにいぶし銀の輝きを宿してなお高貴に見えた。


「それと、こちらには奥様のプライベートルームを……奥様?」

「あ、ご、ごめんなさい! 随分とさっぱりとしたお部屋だと思って。はしたないわね、旦那様がいらっしゃらない時に」


 ロイズの書斎には、領地経営や太古の伝説に関する本が本棚に所狭しと並べられていた。専門書のような小難しいものではなく、民間伝承を集めたものばかりだ。お伽噺と一括りにも出来ないが、筋骨隆々の青年が読むと思うと少しだけ違和感がある。


「本が気になるのですか?」

「父が昔からよく与えてくれていたの。女が学問なんて、ってお祖父様には叱られたけど」


 古い人間と言えばそれまでなのだが、ティーナの祖父はは在りし日のロスガロノフ公家の栄光に縋っているという点で父と壊滅的に仲が悪かった。恐らくは父のやることなすことが気に食わなかったのだろう。ティーナには優しかった祖父だが、ティーナの好きな図解や小説はほとんど取り上げられた。そのせいで今実家にある本の多くは父の執務にかかわるものばかりである。



「そんなことはございません。奥様のご友人であらせられるフィオエルナ・マージス伯爵も、女性の身でありながら王立学術院で学問を修められたではありませんか」


 親友であるフィオエルナのことを引き合いに出されると、確かにそうかとも思えてくる。保守派の貴族たちの反発もあって女性の官吏登用は見送られているが、女性が家を継ぐということ自体はそう珍しいものでもなくなっているようだ。


「そうですよ、お嬢様。ロイズ様も、お嬢様に本を読むなとおっしゃるような度量の狭い男ではないでしょうに」


 ちらりと横目でユリウスを垣間見たリリアが、完璧なまでの微笑みを受け取って猫のようににんまりと笑ってみせた。彼女のこういうあけすけで大っぴらなところが、ティーナは嫌いではない。


「伝記などは旦那様が幼少の頃から読んでいらっしゃったものですから、内容も覚えていると思いますよ? 寝物語に、少しおねだりしてみてはいかがですか?」

「ね、寝物語!?」

「そうですよぉ、今日は早くお帰りになられるんですよね、ユリウス様?」


 現在王宮警護の任についているロイズは、遅番の時以外は定時に上がることが出来る。十代の頃は都督府への赴任などで家を空けることが多かったが、異例の出世をして王立軍の第二師団団長に着任してからは定期的な休日も手に入れた。



「はい、ご一緒に夕飯をおとりになられましたら、後は二人でごゆっくりどうぞ。新婚のお二人の邪魔などという野暮な真似はさせませんので」


 二人の家人が次々とそんなことを言うので、ティーナは顔が熱くなっていくのを止められなかった。きっとユリウスもリリアと同じくちょっと意地悪なのに違いない。きっとこうしてティーナをからかって楽しんでいるのだ――真っ赤になって俯いたまま、ティーナは本棚に近づいて一冊の本を取り出した。


「こ、これ借りても、いいかしら?」


 適当に取った革張りの厚い本を、ユリウスの前に突き出す。相変わらず素敵な笑顔で「どうぞ奥様のお好きなように」と微笑んだバトラーだったが、やがて表紙に書かれた文字を読んで一層笑みを濃く浮かべた。


「旦那様がこのように可愛らしい本を持っていらしたなんて、私も存じておりませんでした。きっと奥様のために用意なされたのですね」

「へ?」


 おずおずと表紙を見てみると、色とりどりのインクで描かれた美術の図解が載っている。ロイズも絵を見るのが好きなのかと問えば、ユリウスはくすくすと笑った後で「まさか」と肩を竦める。


「旦那様に絵画をたしなむ趣味はありませんよ。本当に男臭いというか、興味を示されたことすらない。比較的新しい本のようですから、やはり奥様への贈り物として用意されたのではないでしょうか?」


 ティーナが話しかけると、すぐに目線を逸らして赤くなるロイズのことだ。いずれ渡そうと思っていたのかもしれないが、その内に大量の本に紛れてしまったのかもしれない。大切そうにその本を抱きしめると、部屋に戻って読んでもいいか提案してみる。


「お部屋もいいですが、折角天気も良いのでテラスに出られては如何でしょう? リリアさん、お茶の準備は今から可能ですか?」

「大丈夫ですわ。先程厨房にお邪魔させていただいたときに、実はいくつか茶葉をチェックしておきましたので、お嬢様のお好きなものを用意いたします」


 ユリウスとリリアの勧めで、結局ティーナはテラスに出ることになった。



「でも、ロイズ様ってすごいのね。エスター・ブリシュの画集は最近すごく人気なんですって。値段も高騰していて、なかなか手に入らないって聞いたわ」


 ティーナも、エスター・ブリシュという画家が有名だということは知っていた、下町の遊女や風と共に駆ける子供を描いた作品は有名だが、地方の所領では本もなかなか手に入る環境ではなかったのだ

 矢張り王都では人やものの流れが盛んなのだと、ティーナは素直にうなずきながら出された紅茶に口をつけた。


 テラスは屋敷同様簡素な造りだったが、太陽の光がよく当たる。リリアの入れたお茶と先程ニンフェが持ってきたお茶菓子を食べながら、ティーナは本の頁を一つめくった。


「口さがない方々には、成り上がりだとよく揶揄されます。そういうのに限って、大した力もない末端貴族のオジサマ方なのは、ほーんと辟易しちゃうんだけどねぇ」


 困ったものだとユリウスが溜息をついたが、青くなったのはニンフェの方だった。慇懃で優しいユリウスの口調とは明らかに違う。ティーナはてっきり、昨晩は疲れていて幻聴を聞いたものだと思っていた。


「ユ、ユリウス?」

「え? ……あ」


 咄嗟に口を押えたユリウスだったが、一度飛び出した言葉を取り戻すことはできない。二、三度忙しなく視線を動かして、どうしたものかと頭を抱えている。


「も、申し訳ありません奥様……お聞き苦しい言葉を」

「いえ、気にはしてないけれど――もしかして、普段はその喋り方なの?」


 いわゆる、心が女性の人間というのだろうか。ユリウスもロイズ程ではないが、背も高く体つきもしっかりしている。外見的に女性というには違和感があるが、ティーナが促すと申し訳なさそうに頭を掻いた。


「その、えぇ。何と言いますか、長年の癖でして。旦那様にご迷惑がかからぬようにと、注意はしていたのですが」


「えぇと、ユリウスは男の方が好き? 旦那様の恋人か何かだったのかしら?」

 一般的に、心が女性というならば好意を寄せるのは男性にだろう。率直な好奇心からそう尋ねると、ユリウスはこの世の終わりが訪れたような表情をする。ティーナには、昨晩から今日にかけて「完璧なバトラー」を絵に描いたようだったユリウスよりも、こちらの方が生き生きしているように見えた。



「ご冗談を! 私、本当に喋り方だけなのよ!」


 それだけは勘弁してくれと声を上げるユリウスに、トーマとリリアは驚愕の表情を隠せないでいるようだった。


「お、お嬢様。その、お気を確かに」

「ありがとうトーマ。私は大丈夫。そういう方も時々いらっしゃるもの。ほら、出入りの商人の方にもいらっしゃったでしょう? それに、なんだかこちらの方がユリウスも生き生きしていて楽しそう」


 両親の教育もあってか、ティーナもそういったことに対する偏見は持っていない方だ。確かに驚いたのには驚いたが、それで彼が優秀なバトラーであるということに変化はない。


「てっきり気持ち悪がられると思ってたわ……奥様って寛大ねぇ」

「ユリウスがそれでいいなら、好きにしていいと思うの。旦那様だって、特に何も言われないんでしょう? 私も、変に気を使われるよりこうして喋ってくれる方がよっぽど気が楽よ」


 ティーナがそう笑うと、今まで呆気にとられていたトーマも「お嬢様がよろしいのならば」と腰を折った。



「……奥様ったら、大将とまるっきり同じこと言うのね。びっくりしちゃった」


 一方のユリウスは、ティーナのその発言に目を丸くした。隣ではいつの間にかやってきたリリアが、「流石うちのお嬢様でしょう」と胸を張っている。

 少しだけ賑やかな午後は、そうしてゆっくりとすぎていった。

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