04

「お嬢様、お早うございます。朝食の用意が整いました」


 耳慣れたメイドの声が、ティーナの鼓膜を打った。そうか、そろそろ起きなければ、父が所領の視察に行ってしまう。出かける前に声をかけたいと目をこすって体を起こせば、リリアがすでに着替えを用意していた。


「リリア……お父様は、まだいらっしゃるのかしら……?」

 ぼんやりとした頭でそう問えば、メイドのリリアは困ったように首を傾げた。

「お嬢様、旦那様は旦那様でもアイザック様ではないですよ。お嬢様がお送りするのはロイズ・ワイズマン卿ですわ」


 ぐりぐりと目をこすりながら行儀悪くも欠伸をしつつ伸びてみたティーナは、その言葉にはたと我に返った。


 そう広くはない寝室には、ティーナとリリアの二人しかいない。そう言えば昨日婚姻を交わしたのだったとまだ少し回っていない頭で考えて、そっと服にそでを通していく。用意された服は豪奢ではないが、作りはしっかりしたものだ。ティーナの趣味にもあっている。


「あら、そうだった。ごめんなさいリリア、旦那様はまだ帰られないの?」

「昨夜遅くにお帰りになられたようですけれど、別の部屋でお休みになられたようですわ。お嬢様を起こしたくなかったのでしょう」


 ロイズなりに気遣ってくれているのだろうが、ティーナもやはり少しもの寂しさを感じる。せめて朝食だけでも一緒に食べたいと広間に向かう背中を、リリアが追いかけた。


「その、お嬢様。昨晩のこと、申し訳ありませんでした」


 掃除の行き届いた廊下を歩けば、昨日は顔の見ることがなかった使用人たちが新しい女主人に頭を下げる。その一つ一つに丁寧にあいさつを返して、ティーナはリリアの方を振り返った。確かに昨日は言いすぎたとも思ったが、彼女の怒りもわからないわけではない。ちょっぴり寂しかったのも、間違ってはいない。


「リリアは私のことを心配してくれたんだろうし、昨日トーマにも叱られたんでしょう? じゃあ、私から言うことはないわ。でも、あまり旦那様の悪口は言わないで差し上げて。それは私も悲しいことだもの」


 リリア自身も深く反省しているようだ。それ以上深く追求せずに、ティーナは微笑むだけにとどめた。彼女が悪い人間ではないのは、ティーナもよくわかっている。


「お嬢様……ありがとうございます。そうですわね、旦那様を貶すことは、お嬢様を貶すことと同じですもの」


 いつもと同じように気丈な微笑みを唇に浮かべたリリアは、濃い色の口紅がよく似合う。その気の強さだけが目に留まりがちだが、本当は美しくもやさしい女性だということはいずれ屋敷の皆にも分かることだろう。広間の前でメイドに挨拶をすると、明るい挨拶が帰ってきて扉が開いた。昨晩ニンフェが言ったように、この屋敷のメイドたちは主の妻たる女性にどこか期待を寄せているようだった。



「おはようございます旦那様。遅れてしまって申し訳ありません」


 開かれた広間は、明るい陽光に包まれていた。

 先に席についていたロイズは、やはり夜のうちに戻ってきたらしい。薄らと目の下に隈を刻みながらも、ティーナに不器用な笑みを見せている。


「昨日はすみませんでした。よく眠れましたか?」

「はい、とっても広いベッドでしたし、ぐっすり眠れました。ありがとうございます、ロイズ様」

「あ、……はい。よく眠れたなら、なによりです」


 ぱっと顔を赤くしたロイズが、その武骨な手で顔を覆って視線を逸らす。テーブルに着いて目の前に焼き立てのパンや温かいスープが並べられると、ティーナの腹が控えめに空腹を主張した。


「一応毒味は済ませているが、不安ならばスプーンを貸してください」

「え、旦那様が……? そんなことはさせられません!」


 慌てて首を横に振るティーナに、ロイズがなお心配そうな視線を向ける。最初からティーナに毒味云々を疑うつもりは全くないのだが、捨てられた大型犬のような目で見つめられると何も言えなくなってしまう。


「あの、じゃあ一口だけ……」


 そっとすくったスープをロイズに近づけると、スプーンを救った手にロイズの手が重なり引き寄せられる。確かめるように一口嚥下し喉が上下するのを一通り眺めてから、ティーナは言いようのない恥ずかしさに襲われた。


「はいはい、新婚夫婦の惚気は後にしていただいてよろしいですか? 折角の料理が冷めるといけないので」

「旦那様も、奥様と一緒に眠れなくて寂しかったのは分かりましたから」


 トーマとユリウスがそれぞれあきれ顔で止めに入る横で、リリアやニンフェが一生懸命に笑いをこらえている。途端に手を離したロイズが、テーブルに並べられていたパンに思いきり噛みついた。一心不乱に眼前のパンを食べつくすロイズの横で、温かいスープに舌を付けたティーナがほっこりと息を吐いた。


「く、口に合いますか……? ロスガロノフ家の味というものがわからないので、好きな味を教えていただけると助かるのですが」

 大男が小さくなりながらパンを口の中に突っこむ姿は可愛らしくもなんともない。伏し目がちにそう尋ねたロイズに、ティーナも同じようにパンを頬張ってみた。


「出されたお料理は、すべて美味しいですよ? ロスガロノフ領ではこの時期になると美味しいお野菜が取れるけれど、代わりに領地の東側にある川が氾濫してしまうので、人手が足りなくなってしまって私も土嚢積みに……あ、ごめんなさい」


 慌てて口を手で押さえたティーナを見て、ロイズは二、三回目を瞬かせた。確かに良家の娘が土嚢積みというのは聞こえが悪いと肩を落としたティーナに、夫は真剣なまなざしを向けている。


「その、川の氾濫とやらでどれほどの被害が出るのです? ロスガロノフ領の東と言えばリュリュカ川か、あれだけの水量の川が氾濫すれば人的被害はもちろん、農作物の被害も甚大だ」


 遠征や各地の都督府に派遣されてきたロイズは、王国内の地図がそっくり頭に入っているようだった。食べかけの食事をそのままに、ユリウスに紙と筆記用具を取りに行かせる。


 リュリュカ川はロスガロノフ公爵領から隣国との国境をまたいで流れている大河川で、その三つの支流が豊かな水量をもってバルレンディア王国の気候を保っている。そのような川が氾濫するのだから、毎年被害にあわないはずがなかった。


「未だ一年に三人ほどは流されてしまいます。気候によって氾濫する水の量も変わりますから、酷い時には周囲一帯の畑が駄目になってしまったりして……。お祖父様の代から治水に力を入れ始めて、これでも大分マシになった方なんですよ? お父様は、この時期になるとほとんど屋敷に帰らず領民の方々と夜通しの作業に徹するんです」


 ティーナの父アイザックは、四十を前にした今でさえ十も若く見られることが多い。恐らく公爵という肩書に似合わないほど鍛錬された体や雰囲気がそう見せているのだろう。


 その父でさえ、夏のこの時期が終わる頃には体を壊して動けなくなってしまうのだ。それほど、リュリュカ川の氾濫は凄まじいものである。


「……リュリュカの支流のうち、二つがロスガロノフにも繋がっているはずです。キュセ川とアーマール川の治水について、俺からも担当部署に意見を出しておきましょう。アイザック閣下――義父上にも、そう伝えておきます」


 ワイズマン邸がある王都で暮らすティーナが父に会うことが出来るのは年に一度の貴族院の会合と、それに伴った社交シーズンくらいのものだ。けれど貴族院の会合は正式な爵位を持っていない人間は参加することを許されない。それは準勲士という一代限りの地位を有しているロイズも同じことだが、彼の場合は会合の警護という手段があった。


「あ、ありがとございます旦那様! きっと皆も喜んでくれると思います」

「俺が礼を言われるようなことでは……ユ、ユリウス! 上着を持ってきてくれ。またカインに五月蝿く言われる前に出なければ」


 わざとらしく声を張り上げたロイズが、ユリウスから上着を受け取って立ち上がった。下ろしたままだった黒髪を一気にかき上げると、ティーナにはゆっくり食事をとってくれと言い残して大股で出て行ってしまった。


「あ、お見送りは……!」

「大丈夫ですよ奥様、照れ隠しですから。一人にして差し上げて下さい」

 にこやかに耳打ちをしたユリウスが肩を竦めると、ティーナはきょとんとした顔でそれを見つめ返した。

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