02

「お綺麗ですよ、お嬢様」

「うぅ、リリアったらいつもよりきつめにコルセットを締めたの。苦しくていけないわ」

「ですが本来は、それが良家の子女としての身だしなみでございますよ。さあ、旦那様方がお待ちになっております。こちらへ」


 トーマが差し出し左手をとって、ティーナがゆっくりと歩みを進める。王都で行われるロスガロノフ公爵令嬢ティーナ・ロスガロノフの結婚式には、古今東西大小を問わぬ貴族が参加している。旧友であるレイチェルたちも、先ほど彼女の元を訪れては口々に賛辞を述べていった。



 ――曰く、あの疫神騎士のことが嫌になったらいつでも助けを求めろだとか、食事に毒を盛られたら顔面にそれを叩きつけてやれだとか。


 一年前に所領本邸が全焼したあの日から、ティーナの中でのロイズは朴訥な人柄の好青年である。言葉を交わした時間そのものは少ないが、彼が率いる騎士団員の活躍は父から聞いている。

 最初に「疫神騎士」の噂を聞いたときにはどうなることかと思ったが、存外と話してみればいい人なのかもしれない。


「お嬢様? ……不安でしたら、どうぞこのトーマの手を強く握ってください。その、お嬢様があの方を恐ろしく思うことは誰も咎められないでしょう」

「え? 私が、ロイズ様を恐ろしく思うの?」

「違うのですか? お顔の色がすぐれないようでしたので、てっきりと思ったのですが」


 レイチェルたちもそうだが、トーマは何か勘違いをしているようだ。この一年間花嫁修業につきっきりだったリリアも最初はそうだったが、まるでロイズを悪の大魔王か何かのように考えている節がある。


「いいえ、大丈夫よ。そりゃあ、ロイズ様はちょっとばかり不思議な噂がある方だけど、打算や計算づくで動くお方ではないとお父様も言ってらしたもの。だからきっと大丈夫」


 そもそも計算づくの人間ならば、こんな斜陽公家ではなくて新興で力のある伯爵家辺りの令嬢を娶った方が政治的にも経済的にも動きやすいというものだ。ティーナも自分にどれほどの利用価値があるかくらいは把握しているつもりだ。血に拘る頭の固い貴族ならばまだしも、野心ある軍人が積極的に求めるような娘でもない。容姿や器量も、せいぜい中の中というのが関の山だろう。


「もしかして、他にお傍に置きたい方がいらっしゃるのかもしれないし、それはそれで構わないわ。でも私、今とても幸せなのよ」


 曲がりなりにも貴族の娘である以上、ある程度覚悟はしていた。父と母のようにつつましくも幸せな結婚生活が送れればいいと年頃の娘なりに憧れもしたが、それも少し前の話だ。


「それに、リリアやトーマがついてきてくれるから心強いわ。せめて追い出されないように、私のことを見張っておいてね」


 そういうと、ほんの少しだけ目を見開いたトーマが笑みを零した。ティーナが幼いころから大好きだった、優しい微笑みだ。


「行きましょう、トーマ。『旦那様』を待たせちゃいけないわ」


 上質なシルクのドレスを翻して、ティーナはにっこりと笑って見せた。




「ではお嬢様、私はここまでです」


 トーマと別れ、父であるアイザックの手を取り歩くティーナの姿は、まさしく大貴族ロスガロノフ家令嬢としてふさわしいものだった。穏やかな瞳が、司祭やロイズの待つ祭壇をまっすぐ見据えている。宝石がちりばめられたティアラや首飾りは先々代の時分から公爵家に受け継がれる年代物だが、上品さを損なわないそれは流行りの宝飾品との差を見せつけるようだった。


(でも、なんだかこのティアラ、私の家みたい)


 祖父が存命時に口癖のように言っていた、「公爵家の誇り」という言葉を思い出して、ティーナはアイザックの横顔をちらりと盗み見た。父とは最期まで折り合いが悪かった祖父だが、今こうして歩く孫娘の姿を見たらなんと言うだろうか。


「……ティーナ? どうしたんだ」


 訝しげな父の声に、ティーナはハッとして顔を上げた。ヴェール越しの景色の向こう側で、既に新郎であるロイズが此方を向いて立っている。どうやら父は、ティーナが緊張していると思い込んでいるらしい。優しくて暖かい掌が、絹手袋の上から両手を包み込んでくれた。


「大丈夫。きっとお前は幸せになれるよ。お父様が言うんだ、間違いない」


 それからそっと、背中を押してくれる。それに後押しされて右足を踏み出せば、すぐそこに立つロイズが同じように手を取ってくれた。

 これから司祭の前で、そして神の眼前で二人は永久の愛を誓うのだ。ヴェールを避けようと、ティーナは顔を上げてロイズを見上げようとした。


「――いけない。伏せろ、ティーナ殿!」



 次の瞬間、吐き出された言葉は美しい愛の言葉でも神に捧げる誓いの言葉でもなく、鋭く冷たい命令だった。

 咄嗟に突き飛ばされた花嫁の体が赤い絨毯に転がる頃、硝煙の嫌な臭いと共に破裂音が鳴り響く。


「ティーナ!」


 叫び声はアイザックのものだったか、それともリリアーナのものだったか。或いは、親族の誰かのものであったのかもしれない。


「そこだ、逃がすなカイン!」


 地の底から湧き出す咆哮のように低く命令を飛ばしたロイズが、ティーナの前に躍り出て剣を抜いたようだった。本来神前での抜刀は許されない行為である。恐る恐る司祭の方を見上げようとしたティーナに、また鋭い声が飛ぶ。


「見るな! ……見ては駄目です。俺の背中だけを、見ていてください」


 絞り出すような声に、何かとんでもないことが起きたらしいということはティーナでも容易に想像がついた。硝煙の臭いに混じって、背後から今にも泣きだしそうな司祭の悲鳴が聞こえる。


「俺がいいと言うまで、目を閉じて耳を塞いだままそこにいてください。……失礼」


 設えられた生花の道が踏みにじられて、祝福する参加者たちの拍手が悲鳴に変わる。祭壇で座り込んでいたティーナの元に駆け寄ってきたアイザックが、その肩越しに舌打ちをするのを聞いてしまった。


「流石疫神騎士というところか……まさかこんな日にその真価を発揮するとは」

「お父様……? あの、一体何が」

「幸せな花嫁が聞いていい話題ではないよ。ロイズ君に任せていれば大丈夫だ……何かあれば、私も戦う」


 出来るだけティーナを驚かせないように微笑んだつもりなのだろうが、父の顔は険しく引きつっていた。きっと、親族席で優しい母が小さくなっていることだろう。



「わ、たしは、大丈夫。ロイズ様がここにいろって仰ったもの、きっと平気よ。それよりもお母様のところに行って差し上げて? ほら、リリアもトーマもついてくれてるもの」


 出来るだけ元気に言ったつもりだったが、自分でもわかるほどティーナの声は震えていた。何も教えてもらえず、ただ丸まっていろというのは言い知れない恐怖を感じる。けれどそれ以上に、式に参加してくれた友人たちや親族は怖い思いをしているはずだ。言われたとおりに頭を抱えていた腕が震えているのを隠すように、頭から落ちそうになっていたヴェールを直す。


「お母様と、あとレイチェルたちのこともよろしくお願いしますね!」

「ちょーっとぉ! 団長、コレどうするの!?」


 ティーナが父にそう懇願したのと、恐らくロイズの部下であろう男が叫んだのはほぼ同時だった。声につられたようにティーナが立ち上がると、視線の先でちょうど小銃を構えた男が兵士に取り押さえられていた。もっともその銃もロイズによって取り上げられ、闖入者は腹に一撃を入れられ昏倒している。結婚式の主役だった黒衣の新郎は軍部の礼服をまくり上げ、侵入を許した衛兵たちをこっぴどく怒鳴っている。


「流石、精鋭ぞろいの第二師団か。ティーナ、レイチェル嬢方はみな無事だよ。それどころか、参加者には怪我人の一人も見当たらない」


 一応護衛の騎士たちが参加者の無事を一人ずつ確認しているが、一度だけ鳴り響いた銃声はうまく人を避けたらしい。


「ティーナ殿!」


 やがて衛兵に不審な男を引き渡したロイズが、大股でティーナのところまでやってきた。大仰な装飾を煩わしげに翻すと、引き抜いた剣を鞘に仕舞った。もとより装飾用の刀剣らしく、ロイズも威嚇のために剣を抜いただけだったらしい。


「思い切り突き飛ばしてしまったが……お怪我は?」

「私は大丈夫です。えぇと、庇っていただいてありがとうございました、旦那様」

 ティーナとしては、その言葉は至極自然と口をついて出たものだったのだが。

「だ、だん!?」


 それまで鬼さながらの形相で部下たちに指示を飛ばしていた男と同一人物とは思えないほど素っ頓狂な声を出したロイズが、革手袋をはめた手で顔を覆う。


「そう、そうでしたね……その、お怪我がないなら、なによりです……ティーナ」


 さり気に呼び方を訂正したロイズが、所在なさげに空を仰ぐ。いつの間にやらアイザックも妻の元へと戻っていったようだ。ようやく落ち着きを取り戻し咳ばらいをした司祭が、式の再開を宣言し、神の名のもとに誓いを立てる。そうしてロイズとティーナは、正式な夫婦になるのだ。



 ともあれ、後にフレリック辺境伯の号で名を知らしめる「疫神騎士」ロイズ・ワイズマンとその妻の不運な武勇伝にこの結婚式の事件が刻まれるのは、もう少し先の話となる。

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