01

「お嬢様とトーマ様に、至急お伝えしたい事がございます!」


 護衛の乗った馬が一匹飛び出してきたかと思えば、火急の知らせだとバトラーのトーマを呼び出す。何事かと眉をひそめたトーマが目を見開いたのは、レイチェル主催のお茶会の帰り道だった。どれだけ急いでもレイチェルの家からティーナの家までは三日の時間を要する。その三日目、ロスガロノフ公爵領が目前に迫っている時だ。


「それで、事の詳細はどうなっている」

「それが、まだ……」

「ならば早くロスガロノフ領に馬を飛ばせ。くれぐれも騒ぎは起こすな」

「御意」


 鋭く命令を飛ばした有能なバトラーに、ティーナはただただ何が起きたのかがわからず目を丸くするだけだった。質素ながら美しい装飾が施された馬車の中は、忽ち空気が凍り付いていく。


「トーマ、何が起きたの?」

「お嬢様、それが」


 アメジストの光を宿したトーマの瞳が、所在なさげに揺れる。年も近く兄のように慕っているトーマだが、長年一緒に過ごしていた彼がここまで動揺するのも珍しい。


「言って。何かがあったのね?」

「……お嬢様、どうかお気を確かにお持ちくださいませ」


 本人は動揺を悟られぬよう、必死で気を保っているのかもしれない。けれど真剣さを帯びた瞳は、まるで矢になってティーナに突き刺さるようだった。



「本邸が、大規模な火災に見舞われていると――旦那様と奥様のご無事は確認済みでございますが、屋敷は」


 その話をティーナが聞いた直後、御者に馬車を飛ばせと命令したことから先はよく覚えていない。トーマに支えられるようにして所領の本邸に辿り着いたとき、既に屋敷は炎を上げるのをやめていたようだ。消火に当たったのは偶然この辺りを通りかかった遠征中の騎士の一団で、そのおかげか周囲への延焼はひどくならなかったらしい。


「お父様、一体何が……」

「おおティーナ、よくぞ帰ってきてくれた。屋敷はもう駄目だ、騎士団の皆様方が来て下さらねば、私たちもどうなっていたことか」


 ティーナの父、ロスガロノフ公アイザックは深緑の瞳に怒りと不安を浮かべながら、それでも傍らでぐったりとしている妻の肩を強く抱いていた。氷のようだと噂される美貌の底に湧き出る怒りは声の低さを伴って放出される。


「公爵閣下、本邸はやはり損壊が激しい模様です。これ以上の延焼があるとは考えられませんが、念のため」

「……そうか、休息のために立ち寄った街で、もてなす筈の領主自ら世話をかけてしまうとは、何とも情けない。騎士団の諸君らの活躍を、私が忘れることはないだろう。とくに君には――」

「一介の武辺には過ぎたるお言葉。しかしこの一件、我らが王国軍第二師団が持ち帰ってもよろしいでしょうか? 公爵家の本邸に火を放った者がいるという可能性があれば、事はただの火事では済まぬかもしれません」



 黒い軍服を着込んだ騎士が、難しい顔をして父と連れ立って歩いて行った。幾ら零落の一途をたどるとはいえ、そこは王家につながる名門一族の当主である。命を狙われた経験も少なくないと冗談交じりの武勇伝を何度もティーナに話してくれた父は、焦ることもなく未だ炎くすぶる本邸跡へ歩いていく。


「ティーナ、私は一度彼と検分をしてくる。お前はリリーと共に馬車に乗りなさい。すぐ別邸に向かうよう、トーマに指示は出してある」

「でもお父様、マティアの姿が見えません……ロジーも、スターシャも、ベルもティーアもアルベルトも! ジーンおじさまも……」

「……ティーナ」


 栗色の髪をふり乱したティーナは、焼けた屋敷に近づこうとふらふらと歩きだす。幼い頃から共に過ごした乳姉妹のマティアや、侍女のロジー達、家令として少ないながらも優秀な家人たちをまとめていたジーンがどこにもいない。

 周りをきょろきょろと見回しながら歩く娘を止めようと母のリリアーナが声を張るも、混乱しきったティーナにその言葉が届くことはなかった。


「ティーナ、危険だ。下がれ」

「でも、でもお父様」


 惨状と呼べる火災跡を見せぬようにするためか、黒衣の騎士がティーナの前に立ち塞がっている。縋るように見上げれば、真黒の瞳が痛ましげにこちらを見ろしていた。

 何が起きてしまったのか、ここにいない皆がどうなってしまったのか、それが分からぬほどティーナは子供でも世間知らずでもない。


「お願い、家族なの……ここにいるのは、みんな私の家族なんです」

「ティーナ殿、ここから先はまだ火が燻っている可能性がある。あなたを危険に晒したくはない。どうか、お下がりを」

 大きな掌が、気遣わしげに触れようとしてまた離れた。無礼だとでも思ったのか、一度深く頭を下げるとそれ以降騎士は何も言わない。


「トーマ、リリーとティーナを馬車へ。ロイズ君、君は私についてきてくれたまえ」

「かしこまりました、旦那様。お嬢様、どうぞこちらへ」


 もう一度頭を下げた騎士が、アイザックについて歩いて行ってしまった。トーマに気遣われながら逆戻りした馬車の中では、既に母が待っている。


「ありがとうトーマ、あなたも少しお休みなさい。長旅から帰ってきたのに、こんなことになってしまって」


 先ほどアイザックの腕の中で顔を青くしていた母は、かなり持ち直したようだった。呆然としたままのティーナを抱き、バトラーにねぎらいの言葉をかけるその姿は、公爵夫人として模範ともいうべきものだった。



「ティーナ、あなたも疲れたでしょう。別邸につくまでゆっくりしていなさい。ロイズ様も、あなたが憔悴しきっているところを見て心を痛めていらっしゃたのでしょう?」

「ロイズ、様……?」


 あえてマティアたちのことに触れなかったのは、母としてのリリアーナの優しさだったのかもしれない。真っ赤になったティーナの目元を苦笑しながら拭うと、消火に当たった第二師団は婚約者のロイズが率いる隊だと聞かされた。


「あの方が迅速に指揮を出してくれていなければ、今頃私もアイザック様も、無事ではなかったのかもしれません」


 そう言えば、父があの騎士をロイズと呼ばなかったか。

 涙でかすんだ思考の片隅で、そう考える。彼がもしもティーナの婚約者で、疫神騎士などという不名誉な二つ名をつけられている男だとしたら。


(思っていたより、優しそうなお方だったなぁ……)


 レイチェルたちに脅されて、それこそ死神のように恐ろしい様相の男だと勝手に思い込んでいたのだが。

 旅の疲れに心労も重なったのか、ティーナはそこから馬車が別邸に辿り着くまで深い眠りについてしまった。




「婚姻が、一年ほど先延ばしになってしまったよ」


 火事を逃げ延びた数人の家人とアイザックが別邸に帰ってきたのは、それから一週間ほど後のことだった。やや煤けたような美貌に濃い疲労の色を映した父が、ティーナの前で残念そうに笑った。


「第二師団がこの一件を王都に持ち帰ると言っていたが、本来彼らは遠征途中なんだ。国王陛下から召喚状が届いたら、私が王都に上ろうと思う」


 王都からの召喚と、事件性があるとみなされた場合は捜査で半年ほどの時間を取られるだろう。それ以外にも、没落しかけの公爵家に、亡くなった使用人の家族たちに払う心づけや古びた別邸の修繕費などを出してしまえば婚儀の費用まで賄うのはなかなか厳しいものがある。恐らく、ロイズの側もそれを分かった上で婚姻の延長を申し出たのだろう。


「優しいお方なのね、ロイズ様は」


 仲のいい家人たちの死から完全に立ち直ったわけではないが、ティーナは徐々に普段の彼女らしい、優しい笑顔を取り戻しつつあった。同じく同僚を失った侍女のリリアが、八方手を尽くしてくれている。


「マティアたちもお嬢様の結婚を楽しみにしてらしたもの、一年後には綺麗なお嫁様にならないとなりませんねぇ、お嬢様?」


 背後に控えるリリアが悪戯っぽい口調で言った言葉に、思わずティーナは微笑みを零した。

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