その②
「委員長、川口センパイお疲れ様でーす」
また一人、後輩の委員が帰っていった。もう残っているのは私とアカリを含めても、数人だ。壁の時計に目をやると、四時半を指していた。
「私達も帰ろっか」
アカリにそう促したときだった。
「ねぇナナミ」
アカリが声を潜めて言った。
「何?」
「あの噂、聞いたことある?」
そう私に訊いてくるアカリの目には、いつもの快活さとは違う色の光が宿っていた。まるで長年探し続けた宝箱を見つけた海賊のようだ。
彼女の言う『噂』には心当たりがあった。おそらくは『あの』事だ。その噂を聞いたのは今日の朝、ホームルームの前だった。今日の今日で私にその話をしてくるとは、流石にアカリは耳聡い。
「噂? どんな?」
知らないふりをして、話を促す。教室のカーテンが風に吹かれて、髪のようになびく。風が妙に生ぬるい。風が首をなでつけてゆく。背筋がぞわっとする。
「昨日、音楽室で吹奏楽部のコが倒れた事件あったじゃん? 原因が何か知ってる?」
「さぁ?」
その話のオチ、本当は知っている。
「吸血鬼よ、吸血鬼に襲われたんだって!」
予想通りの話だった。
「吸血鬼? 何それ? 嘘くさ!」
昨日の放課後の事だ。この校舎の三階にある音楽室で、一人で練習していた吹奏楽部の女生徒が床にうつぶせになった状態で発見されたのだ。見つけたのは同じ吹奏楽部の三年生だった。すぐさま保健室に運ばれて検査を受けたが、主だった外傷は見つからなかった。結局軽い貧血ということで、家に帰ったらしい。
しかし、これだけだったなら、日本全国の学校どこでもある出来事として、皆の記憶から消えていったであろう。ことはそれだけで終わらない。そこからさらに一日前、つまり一昨日の事だ。ランニング中の女子バスケ部のコが、同じく意識不明の状態で発見され、さらにその一日前、今日から遡ること三日前、旧校舎前でサッカーをしていた男子生徒たちが全員意識不明の状態で発見されていたのだ。
三日連続して生徒が意識不明になるというこの異常事態に、どこかの工場からの排ガスもれ事故、もしくは何らかの流行病が疑われたが、それらを裏付ける証拠は発見されなかった。警察や消防にも届けたものの今だ原因不明の状態である。結局文化祭前の過密スケジュールの影響で、体調を崩したのではないかという、多少というかかなり強引な結論が出され、私たち生徒は、先生方のその無理のある理屈を強引に飲まされ、納得させられている状態である(幸い発見された生徒達に大事はなく、全員元気に登校している)。
しかし、噂では済まない部分もある。なにしろ今は文化祭直前の大事な時期である。万が一何らかの流行病だったとしたら、折角頑張って準備した文化祭が無駄になってしまうというものだ。
「ホントだって! 二組の井上さんが見たって言ってたもん!」
私が疑惑の目を向けると、アカリはまるで散歩に連れて行く前のセントバーナードの様に鼻息を荒げた。全くもって可愛いやつよ。
「見たってどこでよ?」
「多分、そこの花壇。西校舎前の」
「何で多分なんて曖昧な表現なのよ?」
「私も又聞きでしか聞いてないもん」
なんじゃそりゃ。
「大体、伝聞で聞いた話を本気で受け止めるんじゃあないの」
「でも花壇の前っていうのは信憑性があると思うよ」
何で?
「だって二人目のコが発見されたのって、そこの花壇の前だもん」
アカリはその細い指を、窓の外に向ける。その先には西校舎と、その手前に設けられた花壇があった。
教室に風が舞い込んできた。机の上のプリントが床に散らばる。…………そうなんだ、それは私も初めて聞いた。今朝、例の噂を聞いたとき、はっきり言ってマユツバものだと思った。今でも吸血鬼だ何だのって、ちゃんちゃらおかしいと思っている。しかし、こうやって事件の現場を目にすることによって、吸血鬼の仕業という根も葉もない話が、急に具体性をもって、私に迫ってくるような気がした。あくまで気がするだけだけど。
「ハイハイ、もう分かったから」
「もう! ナナミったら頑固なんだから!」
「今日はもう帰りましょ。すっかり遅くなっちゃった」
アカリの抗議を無視して、さっき散らばったプリントを拾い集める。
アカリには悪いけれど、もうこの話はしていたくなかった。
ペンケースもノートもしまって帰ろうとしたときだった。
何気なく窓の外を見た私の視界に、妙な光景が入ってきた。私は目を細くして『それ』を見る。
二十メートルほど斜向かいにある西校舎とその手前にある例の花壇、そのまた横にブルーシートで覆われた一角がある。なんでもそこには、創立八十周年の記念碑が建てられる予定なのだそうだ。
そこに一人の女生徒が佇んでいる。背をこちらに向けているために、表情は分からない。少女はまるでマネキンのように微動だにしない。
『吸血鬼だって、吸血鬼』
私の脳裏に、さっきのアカリの言葉が反芻する。
いいや、そんなはずはない。吸血鬼なんているはずがない。私はかぶりを振る。
しかし何にせよ、一言注意せねばならないだろう、なぜならその女生徒、立ち入り禁止の看板を超えた所に立っているのだから。
「ちょっとそこのアナタ! そんな所で何してるの! 危ないじゃない!」
私は両手をメガホンの形にして叫んだ。
聞こえなかったのか、それとも聞こえたが、あえて無視しているのか少女は微動だにしない。
「まったく……」
もう一度声を掛けようと息を吸い込んだその時、女生徒が振り返って、
「あ……」
私は思わず息を飲んだ。
なぜなら、その少女が、恐ろしいまでに美しかったからだ。
凛々しくすえられた双眸に、くっきりと筋の通った鼻梁、そして固く結ばれた口もと。まるで作り物のように端正な顔立ちだ。結わえられた髪が風に揺れるその様は、まるで大河ドラマにでてくる武家の娘だ。
私は最初の目的も忘れ、永遠にも感じられる数秒間、その少女と見詰め合った。
「なーにやってんの、ナナミ」
と、アカリに肩を叩かれ、私は我に返った。
「い、いや、あそこに髪の長い女の子いるじゃない?」
私はアカリの方を向いて、中庭の方を指差した。
「えっどこ?」
「青いシートがかかってるじゃない? 花壇の横のスペース」
「えっ、そんな子いないよ?」
「いるじゃない、あそ……」
そこまで言い終わってから自分で自分の指した先を見て、私は「えっ」と声を漏らした。さっきまでそこにいたはずの少女は、夕闇に溶けてしまったかのように、かき消えていた。
幽霊? 幻? 白昼夢?
腕を組んで、首を四十五度の角度に曲げて考える。
「大丈夫ナナミ?」
心配そうにアカリが覗き込んで来たので、
「だ……大丈夫よ、早く帰りましょう」
少々強引に笑顔を作る。
帰り道、アカリと他愛のない話をしながらも、私は内心さっきのことで頭が一杯だった。
空手部のこと、中庭にいた少女のこと。
文化祭まで後六日……何か嫌な予感がする……。
私の勘は結果が悪いほどよく当たるのだ。
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