9月7日(月)その①

九月七日



「有沢センパイさよーならー」

「はい、さよーならー、気をつけてかえるのよー」

 教室を出てゆく後輩達に手を振ると、私はイスの背もたれに身を預けた。バケット式のシートが柔らかく私の体を包み込む。

 全面革張りのそれの座り心地は最高で、気を抜くとそのまま寝入ってしまいそう。

 生徒会室の備品の中で、なぜか会長席のこのイスだけがやたらと豪華だ。 校長室に置いてあった物を誰かが盗んできたのではないかという噂があるが、真偽の程は定かではない。

 本当は、生徒会長以外は座っちゃ駄目なんだけどね、役得、役得。

 うーんと背伸びをし、それから指折り数える。

 ひい、ふう、みい……後六日。

 文化祭までの残り時間だ。そして、私は文化祭実行委員長。このイベントの最高責任者だ。

 菊川高校では文化祭は体育祭、球技大会、に次ぐ三大イベントの一つだ。生徒にとっては一年で最もテンションの上がる日である。よってその運営のトップに立つ実行委員長の責任は重大だ。とはいっても、各クラス・クラブの出し物も焼きソバ屋やお化け屋敷といった、よく言えばオーソドックスな、悪く言えば型通りなものばかり。

 届けの出し方や、当日の運営方法なんかも例年通りだ。参加する生徒の方も手馴れたもの。唯一例年と違うところといえば、今年は創立八十周年の年で、先生達や生徒会がやたらと張り切っているという点か。

 我が菊川高校では、生徒会とは別個に文化祭実行委員会が組織される。生徒会に過度の負担をかけないようにとの配慮らしい。

 文化祭は毎年九月の第三週の日曜と月曜に行われる。今年は十三日と十四日だ。わずか二日間の非日常、退屈な普段の生活を忘れられる二日間。それが終われば、

「受験か……」

 私はポツリと呟く。

 今年も後三ヶ月で終わりだ、年が開け、春になれば三年に進級。本格的に受験モードに突入だ。この前の面談で、今の成績では第一志望は厳しいと言われた。岡野先生は言いにくいことはオブラートに包んだ言い方をする。その先生が厳しいと言うからには、相当厳しいのだろう。

 志望校のランク下げることも考えとかないと。

 いや、それ以前に何故私は大学に行くのか?

 勉強したいから?

 見識を広めたいから? 

 就職に有利だから? 

 どれもシックリこない。

『皆が行くから』

 最後はこの答えに行き着いてしまう。

 皆と同じ方向を見ている事に安心してしまう。

 異端でないことにおもねってしまう。

 文化祭実行委員長だの何だのと偉そうな肩書きを付けてみても、所詮はこの程度の人間だよ私は。

 思えば一年と五か月前、高校に入ったばかりの頃は違ったように思う。私は自分が特別な存在だと信じていた。自分こそが世界の中心だと思っていた。いい意味で思い上がっていたような気がする。

 でも――この一年五か月という期間で気づいてしまった。私は特別でも何でもない存在だと。ヒロインでも何でもない只の一般人であり、通行人Aだということに。

 それに気づいたのはいつだったか。

 一年の県大会予選で負けてから? それとも怪我をして弓道部をやめたとき?

「よっと」

 イスから立ち上がり、生徒会室を見回す。まだ何人かの委員が残って何やら打ち合わせをしている。外の風景に目をやると、秋の夕風が私の頬を撫で付けて行く。目の前ではオレンジ色の夕日をバックに、校舎郡が巨人のように屹立している。

 十年前、私は何も分からない子供だった。

 そして、十年後の私は何をしているのか。

 そんな事に考えを巡らしていると――後ろから胸を鷲掴みにされた。

「にゅわっ!」

 驚いて後ろを振り返ると、アカリが魚屋の店先からサンマを失敬したあとの猫のように笑っていた。

「ア……アカリ! 何すんのよ!」

「へへー、ナナミお疲れ様」

「あのね、そういうのはセクハラ……」

「ナナミ、ナナミ」

 アカリが声を潜めながら、顎をしゃくった。周りを見渡すと、委員の面々が、変なものを見たような目で、私たちを凝視していた。

 ……み、皆何でもないのよー。声が引っ繰り返りそうになるのを、必死で抑えながら釈明すると、何とか納得したのか皆作業に戻ってくれた。

「アカリ! あのねぇ」

 私ができるだけ絞った声でそう抗議すると、

「あはは、ゴメンゴメン。ちょっとしたスキンシップってやつをしようと思ってね。しかしナナミ、アンタ……」

 そういって私の全身を吟味するように見回す。ちょっと変態オヤジ入ってるわよ。

「また、胸大きくなった? 前に揉んだときよりも心なしか大きさが、イタッ!」

 セクハラ女の脳天にチョップを打ち込む。こんな公共の場でなんて事を言い出すのか。

 川口アカリは私と同じ文化祭実行委員のメンバーであり、模擬店部の部長を務めている。学年は私と同じ二年。ときどきポカをやらかすものの、その愛嬌のある性格のためか何故か許せてしまう、お得なキャラクターをしている。

 私と彼女が知り合ったのはいつだったか、確か一年の頃だったと思う。同じクラスで席も近かったこともあり、一言二言喋るうちに意気投合したのだ。それが何の縁か二人して文化祭を運営する側に回ることになったのだ。

「まったく、おふざけもいいけど、模擬店の方は大丈夫? ちゃんと申請用紙は全部集まったの? 本番まで後六日よ?」

「ああ、そのことなんだけどさ」

 そう言ってアカリはブレザーのポケットから四つ折りの紙切れを取り出すと、それを広げ始めた。企画の申請用紙だった。

「空手部がやっと申請用紙提出してきたんだけど、これ見てよ」

 頭をポリポリと掻きながら、困ったように言う。

 空手部。そのキーワードを聞いた私の表情はどんなだったろうか。多分相当引きつっていたのではないかと想像する。

 文化祭では様々な企画が開催され、それらは大きく分けて模擬店、ステージ、展示、イベントの四種類に分けられる。それぞれの企画を希望する団体は事前に申請をし、実行委員会の承認を得なければならない。

 まぁ承認といっても無茶な申請をしてくる者は滅多にいないので、大抵はフリーパス状態だ。逆に言えば極まれに無茶な申請をしてくる者がいるということなんだけど……。

 アカリが差し出した用紙にはこんな文言が殴り書きしてあった。

『空手部企画 人間対ドーベルマン六十分一本勝負! 発案者 相馬ジュン』

 予感的中。一瞬目眩がした。

 私の第六感は結果が悪いほどよく当たるのだ。

 文化祭は体育祭と並ぶ、我が校最大のイベントの一つだ。それゆえ、時には羽目を外しすぎて悪ふざけが過ぎる者も出てくる。そしてそれを規制するために生徒会なり、私達実行委員がいるのだ。しかし、今年はどこの団体も大人しいと思っていたのだが最後の最後で問題が出てくるとは……。

 菊川高校の空手部はかつて県下にその名を轟かせた強豪である。創部は戦後まもなくの頃と伝統もあり、一昔前は全国大会の常連だった。

 その空手部に激震が走ったのは、新学期が始まって間もない四月中頃のこと。たった一人の新入生が空手部員全員を叩きのめし、部を牛耳ったというのだ。その話を聞いたとき、私は「何とまぁマンガやアニメみたいな話ね」と暢気なものだった。できればタイムマシンを使って、その時の自分にアドバイスしてあげたい気分だ。

 それはともかくとして、私は申請書をアカリにつき返すと、

「この企画ボツ。再提出って言っといて」

「え~あたしが言うの? やだなぁ……」

 夕飯にニンジンが出る事を知った小学生みたいな顔をするアカリ。やっぱり私から言うしかないか、仕方ない。こういうときのための実行委員長だもんね。

「わかったわよ、私から伝えておくわ」

「え 大丈夫ナナミ? 空手部ってあんまりいい噂聞かないよ?」

「クラブボックスにメッセージ入れるだけで、直に言うわけじゃないから大丈夫よ。それにいくら空手部でも無茶はしないでしょ」

 フフンと胸を張る。でも内心はドキドキだ。

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