08/15/02:00――夜の温泉

 呼吸こきゅうあらい。

 一歩いっぽすのに極限きょくげんまでの集中力しゅうちゅうりょく使つかい、鼓動こどうほねつたわってみみにまでとどいてくる状況じょうきょうなか呼吸こきゅう上下じょうげするからだすら均衡きんこう一部いちぶくわえながら、おれあるいている。

 はしることはできない。バランスをとるためのぼうもなしに、おれ綱渡つなわたりをしているのだ。

 周囲しゅういくらく、ただ足元あしもとのロープだけが鮮明せんめいうつる。真夜中まよなかでもこれほどのくらさはないだろうに、そんな意識いしきたずに。

 いしばって。

 あるいたさきに、ロープがれていた。

 やみがある。やみしかない。


 ――どうしようもない。


 はあ、といきととのえようとひと足元あしもとへととしたおれは、随分ずいぶんからだおもいことにづく。一度いちどづいてしまえば、背負せおっている荷物にもつや、足元あしもとからみつく〝なにか〟がわかり、その重量じゅうりょうかおゆがんでしまう。

 それがどんな荷物にもつなのかはわからない。けれどたしかに、おれうごきを阻害そがいするだけの荷物にもつで――それをてようだなんて、ついぞおもわなかった。

 これ以上いじょうさきはないのかと、ふとがさしたよう、おれかえり。

 そこに。

 みちすらないことに、づいた。

 足元あしもとにしか、足場あしばばれるものがない――。

 いきえば、なにかがのどまったような感覚かんかくがあり、ぼろぼろとなみだこぼちる。くやしさとかなしさと、そこにつらさがじって、息苦いきぐるしいのもかまわずにさけぶ。



 ――どうしろってんだ!



 限界げんかいだった。

 不安定ふあんていさが喪失そうしつしていることにも気付きづかず、さけぶようにしてわめいたおれは、両手りょうてあたまかかえるようにしてうずくまる。がたがたとふるえるのは恐怖きょうふたいしてか、それともなにべつ感情かんじょううごかしているのか。

 もういやだ。どうもなにもできない。なのにどうしたって、この荷物にもつはなくならず、足場あしばえて、おれやみまれることもなければ、ひかりすようにしてみちひらけるわけでもない。嗚咽おえつだけをどうにかかみころし、そのわりに罵詈雑言ばりぞうごん言葉ことば周囲しゅういへとぶちまける。

 なんでおれが。

 どうしておれがと、ガキのがままのようなたりをかえす。

 ――さけんだって。

 どうにもならないのが、現実げんじつだと、っているはずなのに。


「――っ」


 は、と呼吸こきゅうした感覚かんかくおれ意識いしきもどし、ややたか心拍数しんぱくすう意識いしきした。ひらいたからえる天井てんじょうで、旅館りょかん一室いっしつであることをり、そうして、ゆめうなされていた現実げんじつづく。

 どんなゆめだったのかもおもせず、ただ、いつもの悪夢あくむだと、ごくりと唾液だえき一緒いっしょ嚥下えんかした。

 あせ不愉快ふゆかいだ――と、上半身じょうはんしんこそうとしたところで、胸元むなもとなにかがっている。なにかというより、間違まちがいなく天来てんらいだ。両腕りょううでむようにして、そこへあたませ、おれうえねむっていた。

 ――おもたい荷物にもつはこいつじゃないのか?

 なんてことをおもったが、はて、荷物にもつとはなんだろうとくびかしげる。まあ、いいか。

 おそらくおれうなされているのにづき、こそうとでもしたのだろうが、そのまま睡魔すいまけたのだろう。いやまあ、そういうことにしておくべきだ。

「おい天来てんらい……」

 からだこしながらかたすり、枕元まくらもと時計とけい一瞥いちべつげれば、まだ日付ひづけわってすぐの頃合ころあいだった。

「んぅ……あれ、えっと……」

るなら、自分じぶん布団ふとんけ。すこ寝汗ねあせをかいたから、おれ温泉おんせん一度いちどはいってくる」

「はあい……」

 本当ほんとうこえてんのか、こいつ。いやとりあえず、おれおれで、温泉おんせんこう。

 二十四時間にじゅうよじかんいている温泉おんせんなので、いつでも利用可能りようかのうだ。寝間着ねまきひとつしかってないので、仕方しかたなく明日あした予定よていだったふくにして、しずかな廊下ろうか一人ひとりあるく。いつもかんじている寝起ねお特有とくゆうの、いたみをかかえながら。

 いたみ――か。

 がらりと浴室よくしつとびらひらけば、先客せんきゃくがいた。ちらりと一瞥いちべつしておき、おれからだながしたのだが、しかし――どこかで、たような。

 なんだろうと記憶きおくさぐりつつ、かけをしてなかはいっても、やはりおもせない。天井てんじょう見上みあげてから、視線しせんをそちらにけるが――かおにはみ。

「やあ、寝付ねつけなかったのかな」

「そんなところだ」

「そうか、この時間じかん入浴にゅうよくめずらしいからね。ぼくはなんというか、この旅館りょかん女将おかみ息子むすこなんだけれど……まあ、あまりちかづいていなかったら、むねってえることじゃ、ないね」

 笑顔えがおくずれない様子ようすをみて、ああと、理解りかいおよぶ。

 対人交渉たいじんこうしょうをするさいに、おれ表情ひょうじょうを〝す〟なんて芸当げいとうまなんだ。おそわったのではなく独自どくじだが、それが必要ひつようになる局面きょくめんはある。ときには誤魔化ごまかし、いつわりをかべるものだが、したほう交渉こうしょう、というのもなかにはあるのだ。

 こいつのかおけられた笑顔えがおおなじものだ。

 ただし。

 明確めいかくがそこにはある。おれ場合ばあいはそもそも一時的いちじてきであるし、すだけだ。けれどその笑顔えがおは――つまるところ。

 本当ほんとうしたのだ。

 こそぎとしたとってもいい。

 笑顔えがお以外いがいかおを、すべて、てたからこその、かおだ。

 交渉こうしょうがどうの、ではない。〝そういうかお〟でなくては、やっていけない、きていけないからこその、選択せんたくだろう。

 そして、おれがそれをさっするのと同様どうように。

へん意味いみじゃなく、どこかでったようながするよ」

へん意味いみじゃないなら、なによりだな」

 相手あいてもまた、おれのことをきちんとっている。

所属しょぞくは?」

いぬだ」

「――、おどろいたな」

 みのかおのまま、ひとみだけがうごくように、わざわざおれに〝感情かんじょう〟をせる。演技えんぎではないのだろうが、それにかぎりなくちかうごきだ。

「と、ごめん。フェアじゃないね。ぼくもと棺桶屋かんおけや〟だ。チガーとよくばれていた」

傭兵ようへいか」

 おれたち軍人ぐんじんにとっては、大抵たいてい場合ばあいてき〟として対峙たいじする手合てあいだ。もちろん、味方みかたむこともあるが、一緒いっしょ仕事しごとをすることは、ほとんどない。

「……おもした。なにかの交渉こうしょうさい後方こうほう有事ゆうじそなえて配置はいちされたときに、たことがある。ただおまえじゃない……だが、おな笑顔えがおだ」

「ああ、同僚どうりょうのレリラかな。ぼく同様どうように、そっちとたようなことをしていたから、それでおぼえていたんだろう。それと、ぼくはまだ学生がくせいでね。おな学校がっこう芽衣めい兎仔とこさんがいるよ」

なにわれたんだろう?」

「はは、さすがにわかるか。うん、兎仔とこさんにね、じつきみることはつたえられていた。どんなかおで、だれ、なんてことは一切いっさいわなかったよ。部下ぶかくから、まあひまがあればておけってくらいなものさ」

「どういう関係かんけいなんだ?」

兎仔とこさんとは、生徒会せいとかいっていうつながりがあるくらいだよ。芽衣めいは――ぼくが」

 やや、苦笑くしょうじりのみにわって。

ころしたいと、そうねが相手あいてだ」

 そうねがう。

 ――ああ、そうか。

 笑顔えがおけ、それ以外いがいてて、それでもとつづけたこいつは。

 あるいは、おれおなじく。

 ころしたいとおもうことでつづけて。

 ころしてくれと、ねがいをいだいているのか。

朝霧あさぎりさんじゃ相手あいてわるいな」

「まったくだ。でも、わかるだろう?」

「わかりたくはないが、……そうだろうな。だれもいないテントの片隅かたすみで、ひざかかえてがたがたふるえて、――なにもなくなったときいたみがおそってくる」

なにもなくなった、か」

 ひとは、なにかがなくてはきていけない。だからおれも、きろと、ぬなと、そんな言葉ことばすがりつく。

 おれには。

 それしか、ないからだ。

「でも、おどろいたよ。だれだったか……ええと、マカロ? だったかな。たし芽衣めい同僚どうりょうだとかっていたけれど?」

「ん、ああ。そうだが」

かれときに、落胆らくたんしたんだ。この程度ていどか、なんてね。けれどきみちがう」

っておくが、おれ四桁よんけただ。こまかくえば、兎仔とこさんの部下ぶかになる」

「だったら、なおさらだね。気付きづいているんだろう?」

「〝いと〟ならな。これよがしに展開てんかいしてあれば、はいった時点じてんづく」

「それに気付きづかない間抜まぬけだったんだけれど?」

「あのひと部下ぶかなら、そういう連中れんちゅうだ。派閥はばつがあったわけじゃないが、朝霧あさぎりさんがをかけたやつらは、おれふくめて、こうだ。そのなかでもおれは、めぐまれていると連中れんちゅううように、兎仔とこさんが直接ちょくせつてくれていたからな……」

 けっして、ほかのいぬたちがよわいわけではない。ただ、おれたちのように朝霧あさぎりさんがをかけたいぬは、仕事しごともまた、朝霧あさぎりさんからげられるものしかけないようになっているのだ。あるいは兎仔とこさんも、だが。

特殊とくしゅなのはきみほう?」

「あるいは、おれてくれた兎仔とこさんが特殊とくしゅなんだ」

「はは、なるほどね。まあぼくとしても、あのひとこわいよ……いってだけでんでいる現状げんじょうに、安堵あんどするくらいには」

野雨ここ現状げんじょうには、いささかあきれている。上手うまくやれば、これ以上いじょう場所ばしょはないんだろうがな」

暗黙の諒解ルールおおすぎるってのは、ぼくかんじたよ。――ああ、そうだ。それでもひとつだけ、いていいかな」

「なんだ?」

 皮肉ひにくくちにするのも面倒めんどうだったので、みじかかえせば。

なにきみかしている?」

 なんてことを、われた。

簡単かんたんだ。おれいのちは――」

 そう、本当ほんとうに、じつ簡単かんたんなことで。

 どれほどねがおうとも、どれほどおうとも、おれゆるされないのは、当然とうぜんだ。

「――兎仔とこさんにあずけてある」

 おれねば、兎仔とこさんの失態しったいになる。それだけは、絶対ぜったいに、おれ回避かいひせねばならん。

「それだけだ」

「……うらやましいよ」

「そうか? となりしばあおいのは、今更いまさらはなしだ」

 そうって、おれ浴槽よくそうからた。さすがに八月はちがつ時期じきだ、空調くうちょういているとはいえ、長湯ながゆをするとぎゃくあせる。

 ちなみに、当然とうぜんだが、あのおとこはついてこなかった。

 多少たしょう気分きぶん転換てんかんにはなったかと、着替きがえたおれあてがわれた部屋へやもどれば。

「あー、おかえりです、不知火しらぬいくん」

 ぼんやりとしたがおのまま、天来てんらいずにっていた。

ていればいいだろう」

「はいー、ましょう」

 こいつ、ちゃんとおれこえこえてるのか……?

 吐息といきとし、ペットボトルのおちゃんでから布団ふとんはいれば、どういうわけか天来てんらいがもそもそともぐんできた。

「おい」

ましょうー……」

 本当ほんとうぼけてるのか、こいつは。

「いいですねえ」

 そのまま、天来てんらいおれ右腕みぎうでかかえるようにして、あたまをこつんと、かたててくる。

だれかがそばにいるの……ひさしぶりですよう。うん……いいなあ」

「……」

 返事へんじをせずとも、そのままうだけって、天来てんらいはすぅすぅと寝息ねいきはじめた。いくらおれだとて、それがたふりじゃないのはわかるし、はらうほど無粋ぶすいではない。

 おれだって、だれかがとなりにいるよるは、きらいじゃない。みせおんなとはそういうことはなかったし、おもかえせば兎仔とこ軍曹殿ぐんそうどの一度いちどだけしかなかったもするが、あの安心感あんしんかんは、ともすればおぼれてしまいそうになるほど、甘美かんびなものだ。それとたようなものを、天来てんらいかんじているというのなら、――ぼけていたとしても、わるくはない心地ここちだ。

 ひとだれかにつながろうとする。孤独こどくえられるひとすくない。そんなたりまえのことを、たりまえのように表現ひょうげんして――だれかとともりたいとねがうことは、けっして、わるいことじゃないはずだ。もちろんやりかたはあるだろうし、見知みしらぬ他人たにんすら存在そんざいしない〝孤独こどく〟なんてのは、このご時世じせいには非常ひじょうめずらしいけれど。

 おれだって、だれかがとなりにいたから、たたかえたのだ。

 ――などと、かんがえていた、はずだった。

 そこから四時間よじかんほど、おれめずらしく、それこそ随分ずいぶんひさしぶりに、熟睡じゅくすいしてしまっていたようで、めたときおれは、なにがどうなっているのかわからず、なか混乱こんらんしていたのだが。

 なんというか、わらうしかなかった。

 油断ゆだんぎるだろう、と。

 そのこえに、いつのにかからだごとせていた天来てんらいましたが、いやいやまったく。

 ――どうかしている。


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