　梅雨（つゆ）明（あ）けはやや遠（とお）く、それでも陽（ひ）が出（で）る日（ひ）は暑（あつ）くなる七月（しちがつ）。暑（あつ）い暑（あつ）いと口（くち）にする連中（れんちゅう）ばかりで、いささかうんざりしていたのだが、その日（ひ）はボードが届（とど）いたとのことで、学校（がっこう）を適当（てきとう）な理由（りゆう）で休（やす）み、俺（おれ）は土屋（つちや）ボード店（てん）へ足（あし）を運（はこ）んでいた。

　今日（きょう）も暑（あつ）い。雨（あめ）の翌日（よくじつ）ということもあって湿度（しつど）も高（たか）いし、じりじりと焦（こ）がすような陽光（ようこう）が降（ふ）り注（そそ）いでいる。時折（ときおり）吹（ふ）く風（かぜ）であっても湿度（しつど）を孕（はら）んでおり、涼（すず）しさよりも肌（はだ）にべったりと水分（すいぶん）を張（は）り付（つ）けるような煩（わずら）わしさがあった。

　だが、俺（おれ）に言（い）わせれば、それだけだ。熱病（ねつびょう）、疫病（えきびょう）などの心配（しんぱい）がいらないだけ気（き）は緩（ゆる）まるし、ここには風呂（ふろ）もあればシャワーもある。飲料水（いんりょうすい）だとて、補給（ほきゅう）物資（ぶっし）を待（ま）たなくても買（か）えるのだから楽（らく）なものだ。それは俺（おれ）が現場（げんば）を知（し）っているのだからであって、連中（れんちゅう）にとってはそうじゃない。仕方（しかた）のないことだ――と。

　そう思（おも）うのだが、いかんせん、カゴメまでそれを口（くち）にするのだから、俺（おれ）も嫌味（いやみ）の一（ひと）つくらいは言（い）いたくなる。それを津乗（つのり）が止（と）めようとして巻（ま）き込（こ）まれ、天来（てんらい）が誤爆（ごばく）するのがいつもの流（なが）れだ。

　……。

　俺（おれ）は悪（わる）くないよな？

　まあともかくだ、暑（あつ）くなってきたとはいえ我慢（がまん）できないほどでもなし、ようやくボードが届（とど）いたとなれば、俺（おれ）の足（あし）も軽（かる）くなろう。一ヶ月（いっかげつ）くらいは待（ま）たされると踏（ふ）んでいたので、どちらかといえば、思（おも）ったよりも早（はや）かったな、という感（かん）じである。

　さて、ヒトシの腕（うで）がどんなものか、拝見（はいけん）してやろう。

「――来（き）たぞ！」

「おおびっくりした！　お兄（にい）さん、静（しず）かに入（はい）ってきてください！」

「何故（なぜ）だ？　来客（らいきゃく）がすぐわかって良（い）いだろう？」

「店内（てんない）の呼（よ）び鈴（りん）がなるんで必要（ひつよう）ないっス！」

「そうか？　……まあ、そんなものかもしれんな。楽（たの）しみの表（あらわ）れだと思（おも）ってくれ。それで？　指示（しじ）通（どお）り、箱（はこ）出（だ）しは済（す）ませてあるんだろうな」

「はい、こちらっス」

　ショウケースに立（た）てかけられたボードは――なんというか。

「猫（ねこ）、だな」

「猫（ねこ）です」

　ボートの上下（じょうげ）には肉球（にくきゅう）柄（がら）がプリントされており、白黒（しろくろ）のブチがついている。後（うし）ろを返（かえ）せば、ご丁寧（ていねい）にやや長毛（ちょうもう）の茶柄（ちゃがら）の猫（ねこ）が、顔（かお）を洗（あら）っている瞬間（しゅんかん）のポーズで描（えが）かれていた。

「……、すず、一（ひと）ついいか」

「なんすか」

「俺（おれ）に猫（ねこ）の要素（ようそ）はあるか？」

「ないっス」

　即答（そくとう）だな。

「俺（おれ）もそう思（おも）う」

「はあ……」

「……」

「あのう、文句（もんく）ならヒトシさんにお願（ねが）いしますよ？」

「あ、ああ、そうだな、いや、――大（たい）して気（き）にはしていないし、俺（おれ）は犬（いぬ）より猫（ねこ）派（は）だから問題（もんだい）はないんだが」

「え？　猫（ねこ）派（は）なんですか？　変（へん）な話（はなし）、あたしは犬（いぬ）派（は）かと思（おも）ってたんですけど」

「憧（あこが）れがあってな。犬（いぬ）は身近（みぢか）だったが、猫（ねこ）はあまり見（み）なかったし、触（ふ）れる機会（きかい）も少（すく）なかったから、逆（ぎゃく）に好（す）きになったというか――まあいい」

「あ、はい。全長（ぜんちょう）１２３３ミリ、幅（はば）は４８ミリ、厚（あつ）さ３．２ミリ。重量（じゅうりょう）はちょっと重（おも）めで８６１グラムです」

「注意点（ちゅういてん）は？」

「標準（ひょうじゅん）のボード以外（いがい）の注意点（ちゅういてん）は、ないっス。ヒトシさんからは、使（つか）いこなせなくて飽（あ）きたら、指（ゆび）を突（つ）き付（つ）けて笑（わら）ったあとに連絡（れんらく）しろって言（い）われてますね」

「かなりシビアな造（つく）りを要求（ようきゅう）したから、そのくらいの見返（みかえ）りはあってもいいだろう――と思（おも）うが、それはつまり、俺（おれ）が乗（の）りこなせば、指（ゆび）を突（つ）き付（つ）けて笑（わら）う権利（けんり）があるということだ。すず、試乗（しじょう）する。くるか？」

「町（まち）の外（そと）ですね、すぐ準備（じゅんび）するんで待（ま）っててください。閉店（へいてん）用意（ようい）はすぐ済（す）むんで、着替（きが）え――は、まあいいや。あたしのボード、持（も）ってくるっス」

　俺（おれ）は先（さき）に付属（ふぞく）の書類（しょるい）などを受（う）け取（と）り、ファイルに挟（はさ）んでおいて先（さき）に店（みせ）の外（そと）で待（ま）っている。ここでは町（まち）の中（なか）でもボードに乗（の）れるが、何（なに）しろ俺（おれ）にとっては初（はつ）挑戦（ちょうせん）になるカスタマイズだ、安全性（あんぜんせい）を考慮（こうりょ）すれば広（ひろ）い場所（ばしょ）でやった方（ほう）がいい。

　――おそらく、できるだろうなら、やるな。

　そう教（おそ）わったのは、組織（そしき）に引（ひ）き抜（ぬ）かれてからのことだ。事実（じじつ）、できるだろうなんて甘（あま）い考（かんが）えで行動（こうどう）すれば、手（て）ひどい失敗（しっぱい）をする時（とき）に取（と）り返（かえ）しがつかなくなると、俺（おれ）は身（み）をもって知（し）ることとなった。それ以来（いらい）、かなり慎重（しんちょう）になった。安全性（あんぜんせい）に関（かん）しては特（とく）にそうだ。

「いやあ、やっぱ暑（あつ）いですねえ」

「うんざりするほど寮（りょう）の連中（れんちゅう）は言（い）っていたな。俺（おれ）は慣（な）れている」

「そうなんすか？」

「まあな」

　ボードを脇（わき）に抱（かか）えるようにして並（なら）んで歩（ある）き、町（まち）の外（そと）に出（で）てしばらく移動（いどう）してから、さてと俺（おれ）は立（た）ち止（ど）まった。寮（りょう）まではまだ距離（きょり）はあるが、振（ふ）り返（かえ）れば町（まち）が見（み）える位置（いち）である。

「さてと――試（ため）すか」

「はい、どうぞ。あたしはとりあえず、見（み）てますんで」

　ボードを地面（じめん）に置（お）き、両足（りょうあし）を乗（の）せる。ベルトのようなもので足（あし）の甲（こう）を固定（こてい）すると、自動的（じどうてき）に踵（かかと）の部分（ぶぶん）にあるパーツが動（うご）いて、足首（あしくび）と一緒（いっしょ）に固定（こてい）された。靴（くつ）が脱（ぬ）げる、足（あし）が抜（ぬ）けるといった状況（じょうきょう）を回避（かいひ）するための固定（こてい）方法（ほうほう）だ。これを両足（りょうあし）やれば、あとはボードを起動（きどう）するだけになる。

　迷（まよ）わず起動（きどう）ボタンを押（お）した俺（おれ）は、ふわりと浮（う）いた瞬間（しゅんかん）に――。

「クッ……」

　喉（のど）の奥（おく）で一（ひと）つ、笑（わら）った。

「なるほどな。これがバランサーか」

　ゆらりと、躰（からだ）を波（なみ）打（う）たせるように動（うご）いただけで、左右（さゆう）からの〝補正（ほせい）〟を強（つよ）く感（かん）じる。扱（あつか）ったことのないバランサーを、三倍（さんばい）に設定（せってい）しろなどと無茶（むちゃ）を言（い）ったが、どうやら俺（おれ）の想像（そうぞう）していたものと大差（たいさ）はないようだ。

「なんだ、これは良（い）いものじゃないか。すず、どうして貴様（きさま）たちはこんな補助（ほじょ）装置（そうち）がついているのに、上手（うま）く飛（と）べないんだ？」

「そう言（い）われると、あたし、落（お）ち込（こ）むしかないんすけど」

「さらに落（お）ち込（こ）むかもしれんが、あれだ。補助（ほじょ）輪（りん）のついた自転車（じてんしゃ）に乗（の）っているようなものだぞ、これは。まあいい、少（すこ）し試（ため）したい。行（い）くぞすず、並（なら）べ」

「へ？」

「移動（いどう）すると言（い）っている。一人（ひとり）では詰（つ）まらんだろう、並（なら）んで飛（と）べ」

「あ、はい。よっと……ここから寮（りょう）までは、森（もり）もありますけど、道（みち）を外（はず）れても結構（けっこう）広（ひろ）いですし、いいっスよねー」

「この時間帯（じかんたい）なら、うるさい生徒（せいと）連中（れんちゅう）もいないから、持（も）って来（こ）いだ」

「っと、準備（じゅんび）いいっスよ」

「最初（さいしょ）に加速（かそく）を入（い）れるから、遅（おく）れるなよ」

「マジすか……」

「だったら先（さき）に行（い）け、五秒（ごびょう）後（ご）に行（い）く」

「はあい」

　先（さき）に飛（と）び出（だ）したすずを見送（みおく）り、俺（おれ）は一度（いちど）視線（しせん）をボードに落（お）としてから、僅（わず）かに口（くち）の端（はし）を歪（ゆが）めて、加速（かそく）を入（い）れた。

　早（はや）い。

　バランサーが入（はい）っているため、それが三倍（さんばい）ということを差（さ）し引（ひ）いても、バランサーなしでの加速（かそく）よりも反応（はんのう）がタイトだ。人力（じんりき）で飛（と）んでいた飛行機（ひこうき）が、自動（じどう）飛行（ひこう）可能（かのう）になったような――アナログ操作（そうさ）が、デジタル操作（そうさ）に変（か）わったような、そういうレスポンスの差（さ）である。

「はは……これは面白（おもしろ）いな」

「うおっ、もう追（お）いついたんすか！」

「貴様（きさま）が遅（おそ）いだけだ！」

「うわあ……はっきり言（い）われると落（お）ち込（こ）むっス。体重（たいじゅう）差（さ）じゃないんすよね？」

「トップスピードを維持（いじ）するには体重（たいじゅう）も必要（ひつよう）だが、加重（かじゅう）の要領（ようりょう）が悪（わる）いんだ。少（すこ）し速度（そくど）を緩（ゆる）めろ」

　俺（おれ）も減速（げんそく）するが、やはり俺（おれ）の方（ほう）が早（はや）く減速（げんそく）できる。これは〝技（わざ）〟の幅（はば）も広（ひろ）がりそうだ。

「いいか？　速度（そくど）を維持（いじ）することはまず、度外視（どがいし）しろ。スタート時（じ）、お前（まえ）はおおよそ零（ぜろ）から三十（さんじゅう）まで加速（かそく）できるな？」

「乗（の）り慣（な）れた人（ひと）なら、できます。もちろんあたしも」

「だったら、三十（さんじゅう）から六十（ろくじゅう）への加速（かそく）もできるだろう。いいか？　走（はし）る時（とき）は、地面（じめん）を蹴（け）る力（ちから）を強（つよ）くすればいい。感覚（かんかく）を大（おお）げさに言（い）えば、三十（さんじゅう）の状態（じょうたい）で〝停止（ていし）〟して、それをバネにして〝加速（かそく）〟しろ。言（い）っていることがわかるか？」

「――はい。わかります」

「だが、それだけではバランサーが邪魔（じゃま）をする。何故（なぜ）だ？」

「え、っと……たぶん、姿勢（しせい）の問題（もんだい）です」

「そうだ。風圧（ふうあつ）の影響（えいきょう）で上半身（じょうはんしん）が倒（たお）れる。いくら半身（はんしん）になったところで、加速圧（かそくあつ）はかなりのものだ、それをバランサーが先（さき）に止（と）めようと動（うご）く。であれば？」

「……、あ、そうか、お兄（にい）さんがやってたみたいに、低姿勢（ていしせい）になれば、風（かぜ）も避（よ）けられる」

「そういうことだ。それ以外（いがい）にも方法（ほうほう）はあるが、まずは基本（きほん）のそれを試（ため）してみろ。いいか、重要（じゅうよう）なのは加速（かそく）と停止（ていし）、それらが同一（どういつ）線上（せんじょう）にある、ということだ。俺（おれ）のことはいいから遊（あそ）べ」

「はいっス！」

　良（い）い返事（へんじ）だ。若（わか）い連中（れんちゅう）はそうでなくてはならん。

　バランサーそのものは、補助（ほじょ）装置（そうち）だ。右（みぎ）に倒（たお）れようとすれば右側（みぎがわ）を支（ささ）え、逆（ぎゃく）もまた然（しか）り。安定性（あんていせい）の向上（こうじょう）そのものが取（と）り入（い）れられている。それを掴（つか）むため、俺（おれ）はすずとは違（ちが）うラインで、加速（かそく）と停止（ていし）を繰（く）り返（かえ）した。

　スクリューへ移行（いこう）するが、途中（とちゅう）でリバカリをかけてもとに戻（もど）る。反応（はんのう）がタイト――というか、クイックネスというべきか。失敗（しっぱい）していた経験（けいけん）がある俺（おれ）は、リカバリだけは上手（うま）いので問題（もんだい）ないが、最低限（さいていげん）スクリューやバンクができないと、新（あたら）しい技（わざ）の開発（かいはつ）もできない。

　しばらく遊（あそ）んでいたが、時間（じかん）を見計（みはか）らってすずを呼（よ）ぶ。先（さき）ほど買（か）っておいたお茶（ちゃ）のペットボトルを手渡（てわた）し、スイッチを一度（いちど）切（き）ってボードから降（お）りた。

「どもっス」

「加速（かそく）のコツは掴（つか）めたか？」

「わかってきた感（かん）じです。こう、瞬間的（しゅんかんてき）に停止（ていし）するような……躰（からだ）を起（お）こしてから伏（ふ）せるようなイメージが近（ちか）いっスね」

「理屈（りくつ）として理解（りかい）している人間（にんげん）は把握（はあく）が早（はや）くて面倒（めんどう）がないな。だが、これを教（おし）えることは困難（こんなん）だ」

「あくまでも感覚的（かんかくてき）なものですしね」

「だが、俺（おれ）の経験（けいけん）から言（い）わせてもらえば、まずは、そこだ」

「お兄（にい）さんはどうです？」

「感覚（かんかく）の齟齬（そご）が埋（う）まったところだ、あとは時間（じかん）次第（しだい）だな。これも一（ひと）つの助言（じょげん）だが、バランサーが入（はい）っている時（とき）、ボードに直立（ちょくりつ）している感覚（かんかく）を掴（つか）むといい。左右（さゆう）に振（ふ）る際（さい）も、足元（あしもと）のボードだけではなく、躰（からだ）ごと傾（かたむ）けた方（ほう）が空気（くうき）を掴（つか）みやすい」

「なるほど。でもそれ、難（むずか）しいんですよね。左（ひだり）へ曲（ま）がる時（とき）は、つまり右（みぎ）へボードを置（お）いて傾（かたむ）かなきゃいけないんで」

「躰（からだ）を左（ひだり）へ向（む）ければいいだけのことだ。その際（さい）にも、加速（かそく）していなくてはならない。バンクの理屈（りくつ）で言（い）えば、側面（そくめん）へ力（ちから）をかけつつも、速度（そくど）を維持（いじ）した上（うえ）で、安定（あんてい）を保（たも）たなくてはならないだろう？」

「一朝（いっちょう）一夕（いっせき）にはできないって、痛感（つうかん）してるとこっスよ。でも」

「うん？」

「楽（たの）しいですね！　なんか乗（の）りこなしてやろうって気（き）がして面白（おもしろ）いっスよ！」

「ああ、それは良（い）い傾向（けいこう）だ。かけっこ――いわゆる、スプリントや障害物（しょうがいぶつ）以外（いがい）の競技（きょうぎ）も考（かんが）えてみると面白（おもしろ）いだろう」

「お兄（にい）さんは、確（たし）か玉（たま）入（い）れに、鬼（おに）ごっこでしたっけ」

「そうだ。しかしまあ、スプリントができてからの話（はなし）だがな。今（いま）までの傾向（けいこう）からするに、単純（たんじゅん）に横（よこ）に並（なら）んでスタート、そのまま直線（ちょくせん）で速度（そくど）を維持（いじ）できるかどうかの勝負（しょうぶ）だろう？」

「そうですけど……それ以外（いがい）にあるんすか？」

「試（ため）してやろう。軽（かる）く直線（ちょくせん）で移動（いどう）して、途中（とちゅう）で俺（おれ）が抜（ぬ）いてやる」

　すぐ戻（もど）るだろうと、木陰（こかげ）にボトルを置（お）き、再（ふたた）びボードに乗（の）って、俺（おれ）たちは加速（かそく）した。横（よこ）並（なら）びになった俺（おれ）は、あえて速度（そくど）を落（お）とすと、自然（しぜん）な動（うご）きですずの背後（はいご）へと入（はい）る。そのまま八秒（はちびょう）ほど待（ま）ってから、斜（なな）めへ加速（かそく）を重（かさ）ねるようにして横（よこ）に出（で）ると、一気（いっき）に抜（ぬ）き去（さ）り、空中（くうちゅう）の回転（かいてん）で制動（せいどう）を入（い）れる――が、途中（とちゅう）分解（ぶんかい）して、やや強引（ごういん）な停止（ていし）になってしまった。

「やはり慣（な）れが必要（ひつよう）だな、これも。すず、どうだ」

「六十（ろくじゅう）近（ちか）く出（で）てたっスよね⁉」

「お前（まえ）のことなら、そうだ。だが、お前（まえ）がその加速（かそく）を入（い）れるタイミングが、背後（はいご）から見（み）ているとよくわかる。だから俺（おれ）は、同（おな）じタイミングで後（うし）ろから加速（かそく）を入（い）れて抜（ぬ）いただけのことだ」

「なんで……速度（そくど）上限（じょうげん）がかかっている以上（いじょう）は、大差（たいさ）が出（で）ない仕組（しく）みになってるはずなのに」

「そこに、落（お）とし穴（あな）がある」

　お互（たが）いに停止（ていし）したまま、向（む）き合（あ）って話（はな）す。この場合（ばあい）、ボードが向（む）く先（さき）も同（おな）じだ。

「力学的（りきがくてき）に考（かんが）えてみろ。先頭（せんとう）と後（うし）ろ、どちらが楽（らく）だ？」

「スリップストリームに入（はい）る以上（いじょう）、後（うし）ろです。ボードは安全装置（あんぜんそうち）が働（はたら）いて、一定（いってい）以上（いじょう）は絶対（ぜったい）に近（ちか）づけないようなっていて――速度（そくど）制限（せいげん）が入（はい）りますよね」

「そう、つまりスリップにつくのは簡単（かんたん）だ。だが、同一（どういつ）速度（そくど）であっても、後方（こうほう）は風圧（ふうあつ）がないぶん、力（ちから）がかかっていない――いわば慣性（かんせい）によって移動（いどう）しているようなものだ。つまり、風圧（ふうあつ）を受（う）けながら加速（かそく）して六十（ろくじゅう）まで出（だ）したところで、こちらの六十（ろくじゅう）は加速（かそく）要（い）らずだ」

「――そこから、本来（ほんらい）の〝加速（かそく）〟を入（い）れるんすね⁉」

「瞬間的（しゅんかんてき）には七十（ななじゅう）近（ちか）く出（で）る。減速（げんそく）も早（はや）いが、抜（ぬ）くだけなら十分（じゅうぶん）だ。ゴール前（まえ）を想定（そうてい）してみれば優位性（ゆういせい）は理解（りかい）できるだろう。この辺（あた）りは自転車（じてんしゃ）競技（きょうぎ）の考（かんが）え方（かた）だな。短（みじか）いトラックレースならば、後発（こうはつ）の方（ほう）が圧倒的（あっとうてき）に有利（ゆうり）になる。何（なに）しろ、相手（あいて）の踏（ふ）むタイミングがわかるからだ」

「そうか！　だからこそ、お兄（にい）さんが見（み）せた〝シザース〟が必要（ひつよう）になるんですね！」

「そう、前（まえ）を行（い）くのならば、常（つね）に後（うし）ろへの意識（いしき）は欠（か）かせない。蛇行（だこう）することで誘（さそ）いを演出（えんしゅつ）し、更（さら）にはタイミングを誤魔化（ごまか）す。いわば加速（かそく）封（ふう）じの一種（いっしゅ）だな」

「そっか、そっか……でもやっぱり、その〝タイミング〟ってやつが重要（じゅうよう）ですよね」

「そうだな。シザースを使（つか）わずとも、安全装置（あんぜんそうち）を前提（ぜんてい）にしているから、あえて〝減速（げんそく）〟を入（い）れて、後（うし）ろの相手（あいて）に挙動（きょどう）を錯覚（さっかく）させる手（て）もある。距離（きょり）にもよるが、スプリントだからといって、それほど単純（たんじゅん）ではない」

「はー……奥（おく）が深（ふか）いっス」

「今更（いまさら）だろう。まあ俺（おれ）の場合（ばあい）は、このバランサーの開発（かいはつ）のためのデータが必要（ひつよう）だったから、思（おも）いつく限（かぎ）りのことをしなくてはならなかった。そうした部分（ぶぶん）の差（さ）だろうが――さて、戻（もど）るか。どうする、後（うし）ろについてみるか？」