　風呂（ふろ）は使（つか）えるかと、天来（てんらい）に打診（だしん）したところ、気（き）を回（まわ）してくれたらしく、使（つか）えるとのことだった。俺（おれ）は脱（ぬ）いだ服（ふく）をそのまま乾燥機（かんそうき）に入（い）れてしまい、乾（かわ）くまでの二十分（にじゅっぷん）を風呂（ふろ）の中（なか）で過（す）ごすことにした。

　国外（こくがい）での暮（く）らしが長（なが）かった俺（おれ）にとって、浴槽（よくそう）というのは馴染（なじ）みが薄（うす）い。というのも、軍属（ぐんぞく）時代（じだい）はイモ洗（あら）いかと思（おも）うような狭（せま）い風呂（ふろ）だったし、時間（じかん）そのものに限（かぎ）りがあった。決（けっ）してのんびりする場所（ばしょ）ではなかったもので、組織（そしき）に抜（ぬ）かれてからもその性質（せいしつ）は変（か）えようがなかったのが実情（じつじょう）である。

　だが、ここのはいい。情報（じょうほう）だけしかないが、いわゆる温泉（おんせん）というやつに限（かぎ）りなく近（ちか）いのではないだろうか。一度（いちど）、蛍（けい）と一緒（いっしょ）に入（はい）って作法（さほう）なんかをざっと教（おそ）わったが、野郎（やろう）二人（ふたり）でもスペースが余（あま）るくらいの湯船（ゆぶね）だ。五（ご）メートルくらいの幅（はば）はゆうにある。温度（おんど）も、そう熱（あつ）くはなく、俺（おれ）としては掃除（そうじ）が大変（たいへん）そうだとも思（おも）う。ちなみに便所（べんじょ）掃除（そうじ）は楽（らく）だ。一人用（ひとりよう）だし、部屋（へや）に一（ひと）つなので、俺（おれ）が綺麗（きれい）に使（つか）えばいいだけのことである。

　まあたぶん、個別（こべつ）の風呂（ふろ）をつけなかった代（か）わりに、こうした贅沢（ぜいたく）な作（つく）りにしたのだろう。女（おんな）連中（れんちゅう）が三人（さんにん）で入（はい）っているのを見（み）かけたこともあるが、充分（じゅうぶん）な広（ひろ）さだ。

　肘（ひじ）をふちに乗（の）せてのんびりしていると、誰（だれ）かが脱衣所（だついじょ）に入（はい）ってきた。そいつは遠慮（えんりょ）せずに風呂（ふろ）の扉（とびら）を開（ひら）いたので、俺（おれ）も顔（かお）を向（む）ける。

「ちっ、なんだお前（まえ）が使（つか）ってんのか」

「舌打（したう）ちするなクソ野郎（やろう）。……野郎（やろう）ではないか。乾燥機（かんそうき）が止（と）まるまで俺（おれ）が使（つか）っているが？」

　ふん、と鼻（はな）を鳴（な）らした金代（かなしろ）が扉（とびら）を閉（し）める。撤退（てったい）が早（はや）いなと思（おも）っていたら、あろうことか服（ふく）を脱（ぬ）ぎ、そのまま金代（かなしろ）は入（はい）ってきた。

「おい、背中（せなか）を流（なが）すサーヴィスがあるとは聞（き）いていないが」

「うるせえ、休養日（きゅうようび）に充分（じゅうぶん）眠（ねむ）ったあとの風呂（ふろ）なんだ、待（ま）てるか。文句（もんく）あるか？　女（おんな）の躰（からだ）を無料（ロハ）で見（み）れるんだ、それでいいじゃないか」

「そう言（い）われればそうだな、文句（もんく）はない。もっとも、そういう気分（きぶん）ではないのが残念（ざんねん）だ」

「気分（きぶん）じゃない、ねえ」

　シャワーを浴（あ）びながら、ちらりと一瞥（いちべつ）が投（な）げられる。

「雨（あめ）が降（ふ）って、昔（むかし）でも思（おも）い出（だ）したのか」

「あんたはどうなんだ」

「三年（さんねん）もありゃ、身（み）を退（ひ）くには十分（じゅうぶん）だ。悪夢（あくむ）で目（め）が覚（さ）めるのだって、一週間（いっしゅうかん）に一度（いちど）くらいなもんだよ」

「そうか」

「いつ気（き）づいた？」

「この町（まち）にいる大人（おとな）の大半（たいはん）が、軍人（ぐんじん）崩（くず）れだということか？　広義（こうぎ）では連中（れんちゅう）だって孤児（こじ）だ、引（ひ）き取（と）ってくれる場（ば）があるのは、ありがたい話（はなし）だろう。事前（じぜん）情報（じょうほう）はなかったが、染（し）みついたものはなかなか抜（ぬ）けないし、そういう大人（おとな）はよく見（み）て来（き）たからすぐわかった。――金代（かなしろ）がそうであることもな」

「可愛（かわい）くないガキだ。私（わたし）としては、似（に）た匂（にお）いを感（かん）じてはいたが、お前（まえ）みたいなガキが軍人（ぐんじん）崩（くず）れだってのが、納得（なっとく）いかなかったね」

「だったらカゴメはどうなんだ」

「ありゃわかりやすいタイプだ。それ以外（いがい）に生（い）き方（かた）を知（し）らないと、偽（いつわ）ることもしない。お前（まえ）みたいに隠（かく）そうともしないのもな」

「隠（かく）す？　それはなんの冗談（じょうだん）だ、金代（かなしろ）。実際（じっさい）にわかったんだから、俺（おれ）は隠（かく）していない。わざわざ教（おし）えることはないと、そう思（おも）っていただけだ」

「教（おし）えたって、そう問題（もんだい）にはならんだろ」

「そういう確信（かくしん）が得（え）られるまでは、教（おし）えるべきではないとの判断（はんだん）だ。というか、あの女狐（めぎつね）は何（なに）も話（はな）していないんだな」

「穂乃花（ほのか）のことか？　余計（よけい）なことを話（はな）すような女（おんな）じゃねえよ、あいつは」

「……そうだろうな」

「それで？　どんな悪夢（あくむ）だった？」

「ギニア撤退（てったい）戦（せん）、○○六二（マルマルロクフタ）号（ごう）」

「――お前（まえ）」

「しんがりの配属（はいぞく）だ。同僚（どうりょう）が俺（おれ）を残（のこ）して、先（さき）に逝（い）った。ドジをずっと隠（かく）して、気（き）づいた時（とき）にはもう死（し）に体（たい）だ。何（なに）もしてやれることはない」

「あの作戦（さくせん）の生（い）き残（のこ）りだったのか……」

「最終（さいしゅう）撤退（てったい）人数（にんずう）は三割（さんわり）――だが、実際（じっさい）にはもっと少（すく）ない。敗戦（はいせん）の〝やり方（かた）〟を、俺（おれ）はあの作戦（さくせん）で学（まな）んだ。もっとも、表向（おもてむ）きは負（ま）けていないらしいがな」

　しばらく、無言（むごん）が続（つづ）いた。会話（かいわ）が再開（さいかい）したのは、洗（あら）い終（お）えた金代（かなしろ）が俺（おれ）の対面（といめん）に胸（むね）を浮（う）かせながら湯船（ゆぶね）につかってからだ。

「私（わたし）らは既（すで）に引退（いんたい）した身（み）だ。〝トラブル〟があっても、もう対応（たいおう）できるだけの気力（きりょく）も、力（ちから）もない。教員（きょういん）になったのは私（わたし）だけだが……新（あたら）しい生活（せいかつ）に馴染（なじ）んでる」

「いいことだと、素直（すなお）に思（おも）う。俺（おれ）にはできんことだ……」

「まだわからんだろ」

「いや、そもそも捨（す）てられないんだ。捨（す）ててはいけないものだ。どれほど呑気（のんき）に生活（せいかつ）をしようとも、どれほど戦場（せんじょう）から離（はな）れようとも、俺（おれ）は、俺（おれ）であることをやめてはいかん」

「……何（なに）をそこまで、お前（まえ）を追（お）い詰（つ）める？」

「生（い）き残（のこ）った俺（おれ）がしてやれることは、もうない。きっとお前（まえ）たちだとて、それを、忘（わす）れているわけじゃないんだろう。だが俺（おれ）はまだ、死（し）ぬ許可（きょか）をもらっていない……」

「なんだろうな。不知火（しらぬい）、お前（まえ）はどこか、私（わたし）の知（し）っている〝軍人（ぐんじん）〟とは違（ちが）うようだ」

「もしも、カゴメを引（ひ）き合（あ）いに出（だ）すなら、一緒（いっしょ）にするなと言（い）うところだ。それに、金代（かなしろ）は順調（じゅんちょう）に出世（しゅっせ）して、椅子（いす）に座（すわ）る仕事（しごと）も多（おお）くなったんだろう？」

「まあな」

「俺（おれ）はそういうものに無縁（むえん）だ」

「長（なが）かったんだろう？」

「それでも、だ。あの女狐（めぎつね）が言（い）ってないようなら教（おし）えてやる。――俺（おれ）は〝忠犬（ちゅうけん）〟だ」

「――、まさか、あの組織（そしき）の？　米軍（べいぐん）に間借（まが）りしていた、あそこの部隊（ぶたい）？」

「そうだ」

「仕事（しごと）を横（よこ）からかっさらって、成果（せいか）はいらんと捨（す）てる、あの忠犬（ちゅうけん）か……」

「だから厳密（げんみつ）には、軍人（ぐんじん）じゃない。わかりにくいのも、それが原因（げんいん）だろう。それに俺（おれ）は、一般兵（いっぱんへい）の中（なか）でも、軍（ぐん）には長（なが）かった。死（し）に触（ふ）れ過（す）ぎた。近（ちか）くも、遠（とお）くも、隣（とな）り合（あ）わせでずっといたんだ」

「……だったら、私（わたし）がとやかく言（い）うのも筋（すじ）違（ちが）いってか」

「いや？　金代（かなしろ）としての言葉（ことば）なら、聞（き）く耳（みみ）は持（も）っている。それが軍人（ぐんじん）としてではなければな」

「お前（まえ）、風祭（かざまつり）を嫌（きら）ってんのは、そこらだろ」

「だから言（い）っただろう、俺（おれ）は嫌（きら）っていない……」

「そうは見（み）えないと言（い）っているんだ。まったく……航空兵（こうくうへい）が嫌（きら）いってわけでもないんだろ？」

「必要（ひつよう）な部署（ぶしょ）だ、兵科（へいか）そのものを嫌（きら）ってはいない。それがエリート集団（しゅうだん）でもな。ただあの女（おんな）に関（かん）しては、やはり、どうもな――」

「曖昧（あいまい）に誤魔化（ごまか）さず、言（い）う気（き）はないのか？」

「あんたの口（くち）が堅（かた）いかどうか試（ため）すために？」

「それもいいさ」

「ふん。……昔（むかし）からああいう類（たぐい）の人間（にんげん）はよく見（み）ていた。そして、誰（だれ）も戻（もど）ってきていない。俺（おれ）は知（し）った女（おんな）には死（し）んで欲（ほ）しくないんでな」

「……――そうなのか？」

「それだけで十分（じゅうぶん）だろう。もっとも、あれが素直（すなお）に言（い）うことを聞（き）くやつじゃないことも承知（しょうち）の上（うえ）だ」

「だからイラつく、か」

　あるいは嫉妬（しっと）だ、とは思（おも）うのだが、それを口（くち）にするのは癪（しゃく）だったので、俺（おれ）は頷（うなず）きもせず、お湯（ゆ）を顔（かお）にかけて間（ま）を作（つく）った。

「平時（へいじ）じゃない時（とき）のお前（まえ）は、怖（こわ）いんだろうな」

「俺（おれ）が？　さあな、そんなことを言（い）われたことはない。犬（いぬ）の中（なか）で暮（く）らしていれば、笑（わら）っている方（ほう）が怖（こわ）いものだ。うちのトップはその典型的（てんけいてき）な例（れい）だな」

「私（わたし）はあまり詳（くわ）しくはないけど、そうなのか」

「最初（さいしょ）は憧（あこが）れだった。一度（いちど）だけ現場（げんば）に連（つ）れて行（い）ってもらって、それが畏怖（いふ）に変（か）わる。運（うん）も実力（じつりょく）も桁違（けたちが）い、それこそ化（ば）け物（もの）と呼（よ）べるほどの人物（じんぶつ）だ。逃（に）げ出（だ）したくなるような現場（げんば）を、この程度（ていど）かと笑（わら）いながら片（かた）づける」

「今（いま）でも怖（こわ）いか？」

「いや、しばらくして畏怖（いふ）が、誇（ほこ）りに変（か）わった。同（おな）じ部隊（ぶたい）にいる。俺（おれ）は彼女（かのじょ）の部下（ぶか）だ、つまり片腕（かたうで）の一人（ひとり）として働（はたら）けた。一部（いちぶ）を担（にな）えている、ただそれだけのことが誇（ほこ）りだ」

　そうだ。

　だから――俺（おれ）は今（いま）もまだ、犬（いぬ）のままでいられる。

「そりゃ、この人（ひと）について行（い）けば――ってのとは、違（ちが）うのか」

「違（ちが）う。むしろ逆（ぎゃく）だ、この人（ひと）に見捨（みす）てられないためにはどうすべきか……この人（ひと）に使（つか）われるために、何（なに）を得（え）るべきか、そういうことを考（かんが）えた。それを伝（つた）えれば、あの人（ひと）はこう言（い）う。――くだらんことに時間（じかん）を費（つい）やすくらいなら、美味（うま）い酒（さけ）でも探（さが）してくれ、とな」

「はは、なるほど、お前（まえ）がどれだけ誇（ほこ）りに思（おも）っているのかは、なんとなくわかるよ。随分（ずいぶん）と楽（たの）しげに言（い）うじゃないか。妬（ねた）むねえ」

「どうだかな。まあどちらにせよ、過去（かこ）のことだ。今（いま）の俺（おれ）は作戦行動（さくせんこうどう）で来（き）てるわけじゃない」

「そりゃ風祭（かざまつり）だって同（おな）じだ」

「だろうな」

「ふん、まあ馴染（なじ）んでいるようで何（なに）よりだ。聞（き）いている限（かぎ）り、文句（もんく）が多（おお）いやつもいるが」

「そうか？」

「口（くち）が悪（わる）いからな、お前（まえ）は。口汚（くちぎたな）いわけじゃないから、まだマシだ」

「こっちの連中（れんちゅう）が上品（じょうひん）なだけだろう。それに、元軍人（もとぐんじん）なんて言（い）ってはいるが、金代（かなしろ）はともかく、ほかの連中（れんちゅう）は元（もと）自衛官（じえいかん）が正（ただ）しい。戦場（せんじょう）に出（で）ず退役（たいえき）する者（もの）も多（おお）いだろう、こっちじゃ」

「まあな。いや米軍（べいぐん）だってそうだろう、それほど現場（げんば）が多（おお）いわけでもない」

「それでもやり方（かた）は違（ちが）うし、最前線（さいぜんせん）はいつだって海兵隊（かいへいたい）だ。俺（おれ）はそういう経歴（けいれき）だからな、そういうものだと思（おも）っている。足（あし）を洗（あら）ったお前（まえ）がどうだと言（い）っているわけじゃない」

「差（さ）を感（かん）じるか？」

「そうだな……素直（すなお）に、羨（うらや）ましいとは思（おも）う。軍人（ぐんじん）であっても、そうでなくとも、戦場（せんじょう）なんてものは身近（みぢか）に感（かん）じないのが一番（いちばん）だ。慣（な）れるものじゃない、触（ふ）れるものでもない」

「……、思（おも）っていたよりも重症（じゅうしょう）だな。言（い）っておくが、お前（まえ）の言葉（ことば）には同意（どうい）することも、否定（ひてい）することも私（わたし）にはできねえよ。ベッドの上（うえ）で慰（なぐさ）めて欲（ほ）しい時（とき）は言（い）え」

「そんな理由（りゆう）で抱（だ）きたいとは思（おも）わないから安心（あんしん）しろ。それより、休息日（きゅうそくび）らしいが、こんな平日（へいじつ）に学校（がっこう）を休（やす）めるものか？」

「たまには有給（ゆうきゅう）だって、使（つか）ってやらなきゃな」

「昨日（きのう）飲（の）み過（す）ぎたのなら、ちゃんと水（みず）を飲（の）めと忠告（ちゅうこく）しておくが？」

「うるせえよ。だいたい、酒（さけ）の理由（りゆう）だってお前（まえ）や風祭（かざまつり）のことなんだ。あんまり私（わたし）の頭（あたま）を痛（いた）くするな」

「それほど問題（もんだい）は起（お）こしていない。問題（もんだい）だと思（おも）うなら、あの狸（たぬき）に報告（ほうこく）しろ」

「狸（たぬき）？」

「校長（こうちょう）のことだ。本人（ほんにん）に言（い）ったら大笑（おおわら）いしていたが」

「お前（まえ）……怖（こわ）いもの知（し）らずか？」

「そんなことはない」

　何（なに）しろ、うちの上官（じょうかん）連中（れんちゅう）は怖（こわ）いからな。

「ここにいる連中（れんちゅう）の大半（たいはん）は、校長（こうちょう）には感謝（かんしゃ）してるんだ。変（へん）なことを言（い）うなよ」

「わかっている。俺（おれ）に同意（どうい）してくれるのは、せいぜい桜庭（さくらば）くらいなものだろうしな」

「あいつが？」

「――忘（わす）れてくれ、口（くち）が滑（すべ）った。知（し）らないならそれでいいし、探（さぐ）るようなものじゃない」

「まあいいが……私（わたし）の方（ほう）が付（つ）き合（あ）いは長（なが）い。そういうふうには見（み）えないな」

「そんなものだ」

　魔術師（まじゅつし）なんて呼（よ）ばれている連中（れんちゅう）で、前線（ぜんせん）に出（で）てこないやつは、大抵（たいてい）がそうだ。

「あんたはどうなんだ？」

「なにがだ」

「前崎（まえざき）に感謝（かんしゃ）をしているのか」

「もちろんだ。私（わたし）みたいなのを拾（ひろ）ってくれたんだ、感謝（かんしゃ）は尽（つ）きない」

「……」

「なんだ」

「生徒（せいと）にとって、教員（きょういん）は一人（ひとり）だ。相手（あいて）を覚（おぼ）えることは容易（たやす）く、知（し）ることは楽（らく）だ。印象（いんしょう）も強（つよ）い――が、教員（きょういん）にとって生徒（せいと）は複数（ふくすう）だ。一人（ひとり）だけを見（み）ているわけじゃない。すべてを記憶（きおく）しておくことは難（むずか）しく、年度（ねんど）が替（か）われば次（つぎ）の生徒（せいと）を新（あたら）しく覚（おぼ）えていかなくてはならない」

「……？　それが、どうかしたか」

「それでも、そうだとしても、覚（おぼ）える努力（どりょく）、覚（おぼ）えておく努力（どりょく）をあんたは惜（お）しんでいない。よくやっているよ金代（かなしろ）、そういう態度（たいど）はわからなくても伝（つた）わるものだ」

「――」

　さてと、俺（おれ）は風呂（ふろ）を上（あ）がる。長湯（ながゆ）はあまり得意（とくい）ではないし、そろそろ乾燥機（かんそうき）も止（と）まるだろう。

「不知火（しらぬい）」

「なんだ」

「……ありがとう」

　立（た）ち止（ど）まり、肩越（かたご）しに振（ふ）り向（む）けば、どう表情（ひょうじょう）を作（つく）っていいのかわからない顔（かお）で、泣（な）きそうとも、苦笑（くしょう）とも思（おも）える表情（ひょうじょう）をしていたので、俺（おれ）は小（ちい）さく肩（かた）を竦（すく）めた。

「あんたはもっと、自分（じぶん）を褒（ほ）めてやるべきだ。充分（じゅうぶん）にやってるよ」

　軍人（ぐんじん）というのは、誰（だれ）かに褒（ほ）められなければやってられない。逆（ぎゃく）に言（い）えば、自身（じしん）を褒（ほ）めるなんてことは絶対（ぜったい）にしない。足（あし）を洗（あら）ったところで、その性質（せいしつ）が治（なお）るとはそう思（おも）えないのだ。だが、金代（かなしろ）には褒（ほ）めてくれる相手（あいて）なんていやしないだろう。

　ま、素直（すなお）に受（う）け取（と）るとは思（おも）わなかったんだがな。

「ひゃいっ⁉」

「ん？　どうした天来（てんらい）、変（へん）な顔（かお）をして」

「ああああのっ、べつに盗（ぬす）み聞（ぎ）きとかじゃなくてですねっ、そのっ、乾燥機（かんそうき）が止（と）まったから――」

「そんなことはわかっているし疑（うたが）っていない。なんだどうした、顔（かお）が赤（あか）くなっているじゃないか。熱（ねつ）か？　俺（おれ）と一緒（いっしょ）で雨（あめ）に当（あ）たったか？」

「あのその服（ふく）をっ！」

「服（ふく）は乾燥機（かんそうき）の中（なか）だろう。俺（おれ）は裸（はだか）を見（み）られたくらいで文句（もんく）を言（い）うような、尻（しり）の穴（あな）が小（ちい）さい男（おとこ）じゃない――いや待（ま）て、そういえば自分（じぶん）で確認（かくにん）したことはなかったな。どれ、天来（てんらい）、ちょっと確認（かくにん）を」