05/22/07:00――最初の一人

 地面じめんたたきつける雨音あまおとは、ただそれだけで木木きぎらし、うるさいとかんじるほどであった。それなのにもかかわらず、おれみみ敏感びんかん銃声じゅうせいける。味方みかたったものと、てきったもの、そのですらわかるようだった。

 感覚かんかく鋭敏えいびんしている。

 のどおくまったなにかが、しそうな心臓しんぞうおさんでくれているようだ。クソッタレとどくづくひまもありゃしない。

「――わるいなあ! ルイにもいもかせちまった!」

撤退戦てったいせんのしんがりだって、だれかがやらなくちゃいけないだろう?」

「そういうことじゃ、ねえよ!」

 にして、相手あいてのばらまくたまふせぎながら、すきてこちらもアサルトライフルでねらっていく。いや、ねらうというより時間じかんかせぎだ。撤退てったい時間じかんつくるのがおれと、ホーナーの仕事しごとだから。

 どれほどの時間じかんそうしていたのかは、わからない。そんな余裕よゆうもない。まだ日中にっちゅうなのに、周囲しゅういくらくするほどのあつくもから、それこそながちるようなあめが、時間じかんというものをおれたちからうばっている。

わるい、ルイ」

「なんだ! もう時間じかんか⁉」

「――わるい」

「……ホーナー?」

 おそく。

 おれは、よこて、づいた。

「おい、おまえ……!」

 このあめなかで、こしからしたが、まっている――!

「いつだ⁉」

「だいぶまえだ、ドジったおれのミスだ。わるいなルイ、……わるい」

あやまるなクソッタレが!」

 きずあさいのか? どれだけの時間じかん、もっていた? 弾丸だんがんけているのか?

 そんな――疑問ぎもんばかりが、うずく。

撤退てったいしろ、ルイ」

「――、ふざけるな! 貴様きさまいて、おれだけか⁉ ちがうだろ! もどるなら一緒いっしょにだ!」

「うるせえだまってけ!」

 わかっている。

 怒鳴どなるな、わかっているんだ――おまえが、もう。

最後さいごくらい、おれまかせろ、ルイ」

「くっ……」

「もうすぐなんだ。ルイ、まえはなしただろ……戦争せんそうもない、のんびりできる場所ばしょってのが、もうえるんだ……おれはそっちにける」

「おまえだけさきくのか! 仲間なかまはどうする、おれは、どんなツラでケイナにえばいい⁉」

隊長たいちょう、をつけろよ、ばーか。……ルイ、こしふたつ、ぶらがってるだろ。股間こかんのじゃない、間違まちがえるな」

 ある。のこっている、手榴弾しゅりゅうだんふたつ、ある。

訓練くんれんどおりだ、間違まちがえるな……かえらず、け」

「――っ」

時間差じかんさ、……ふたつ、げろ。げて、け」

 ひとげる。あめなか爆音ばくおん、そして時間差じかんさふたを。

 奥歯おくばみしめて、くやしさをにぎりしめて、げる。

「――け! けルイ! きてかえれ!」

「クソッ、――クソッ! おぼえてろクソッタレ! おぼえてろ!」

 おれは――。


「――っ⁉」


 ぎりっと、自分じぶんみしめた奥歯おくばおとで、おれ現実げんじつきた。

「は、――はっはっはっ、は……」

 いつものことだ。うなされてきないほうおれにとってはめずらしい。だが、これほどまで鮮明せんめいむかしおもすなんてのは、それ以上いじょうめずらしかった。

 あせいたシャツをいだおれは、呼吸こきゅうくまではてのひらた。わかっている、幻視げんしだ。れているのは、むかしからそうで、いまはじまったことじゃない。けばえる。

 あれが、最初さいしょだった。

 ホーナーのクソッタレが、最初さいしょおれとなりんだ仲間なかまだ。

 しばらくして、がきちんとえるようになったおれは、ベッドから着替きがえをます――そこで。

 おそく。

 今日きょうが、あめであることにづいた。

 こちらにあめったは、まだなかったか。おそらくバランサーが機能きのうしないためボードにはれなくなるだろう――と、そこで、これまたおそく、周囲しゅうい部屋へや気配けはいがなくなっていることにづき、時計とけいをやった。

 朝食ちょうしょく時間じかんだ。

 さすがにおくれるわけにはいかないと、ぼんやりとしたあたましたにまでりて、かる挨拶あいさつをしてからせきにつく――が、されたおちゃんでも、あじがしなかった。食欲しょくよくもあまりないが、それはいつものことだ。

 そう、いつもそうだ。めしうことにいたみをともなう。きている証拠しょうこだと普段ふだんならわらえるが、どうしたって粗食そしょくれると〝無理むり〟をしなくては、べられなくなる。

「――おい、こえてんのか、ルイ」

「ん……? どうした、けい

「なんかぴりぴりしてるし、こえてなかったのかよ……なんかあったか?」

「ああ」

 そういえば、かがみてこなかった。もしかしたら〝平時へいじ〟ではせないかおになっていたかもしれない。

わるいな、体調たいちょうがあまりくないようだ。食事しょくじ途中とちゅうだが、天来てんらい部屋へやもどる。なあに、しばらくすればくなるから心配しんぱいはいらん」

「はいはい、ゆっくりやすみなさいね。こっちにしてきて、そろそろつかれがまるタイミングですからねえ」

 ふん、女狐めぎつねにしてはいフォローだ、わるくはない。

 ひらひらとって、おれ部屋へやもどった。

 ――みょうに、あめおとみみはいってくる。

 クローゼットにんでいたケースのうち、ちいさいほうしてける。がらくたがまったそのなかから、表面ひょうめんのガラスがくだけてうごいていない腕時計うでどけいし、ベッドにすわる。

「よう、ホーナー……」

 あれから。

 撤退てったいしたおれを、部隊長ぶたいちょうであったケイナというおんなは、なぐりもしなかった。それは上官じょうかんとしては、きびしすぎる対応たいおうだ。なぐってくれればいい。ケイナのれるなら、余計よけいにそうしてしかった。おれなぐられたことが免罪符めんざいふにもなる。

 だが、なぐられなかったのだ。

 おれくやしさも、かなしさも、翌日よくじつ空虚くうきょも、すべ自分じぶんめろと、そう態度たいどしめされた。もちろんそれは、上官じょうかんであるケイナも、部隊ぶたい仲間なかまおなじだ。隊長たいちょうは、本来ほんらい隊長たいちょうだけが背負せおうべき重荷おもにを、おれたちにもわせた。わるいことじゃないし、文句もんくもない。そういう隊長たいちょうだからこそ、おれたちはついてったのだ。

 なおってもいないツラで、うえけとおれたちにったのは、翌日よくじつだ。したるな、うえろ。あしげてまえろ。それがきるということだ――そんなツラでうなと、おれたちはこえないようにわらいあった。

 隊長たいちょうにこれ以上いじょう負担ふたんはかけられないと、わらいながら、さびしさやくやしさをんだ。

 現場げんばなんて、だれだってそうだ。そうやってやらなけりゃ、まえすすめない。つぎおなじことは絶対ぜったいにしないとかたちかって、そして、――つぎがあったら、自分じぶんのこると、だれもがつよおもった。

 馬鹿ばかばかりだ。

 だから――おれたちは、仲間なかまを、裏切うらぎらない。

 それでもしばらくすれば、さけせきわらいながらんだ仲間なかま悪口わるぐちるようになる。相当そうとうひどいこともったが、みなわかっていた。それが〝いたい〟って言葉ことばの、裏返うらがえしなんだってことは。それがかなわないとっているから、にくまれぐちたたいて、わらうんだ。

 えるやつらがいないなら、こうやって、形見かたみ片手かたておもす。

 おまえ戦争せんそうもない平和へいわらしってうけどな、ホーナー……なにもかもわすれて、呑気のんき生活せいかつだなんて、そっちにしかないよ。なあ、ホーナー。

 返事へんじもないのに、おな疑問ぎもんかえう。


 ――おれは。


「……やれやれ、たしかにつかれているのかもしれないな」

 戦場せんじょうこいしくなることなんてないのに――。

 こんな生活せいかつをしていていいのかと、自分じぶんめたくなる。

 形見かたみをしまったおれは、吐息といきとして部屋へやた。リビングで天来てんらい一声ひとこえかけ、そのままそとへ。

 これも、センチメンタルというやつなのだろうか。

 おれ最初さいしょ転属てんぞくことわろうかとおもっていた。ぐんではなく組織そしきかれることになった事実じじつまえにして、まだぐんでやるべきことがあるはずだと、つよおもった。なによりも――つたえきれないものが、のこしたものが、間違まちがいなくあったのだ。

 それでもけと、仲間なかまたちはった。わらいながら、出世しゅっせじゃないかとかたたたかれた。そこに一切いっさいのマイナス感情かんじょうえなかったから、だったらとおれ組織そしきって――彼女かのじょった。

 その上官じょうかんって、われた。

ぐん仕事しごとよりキツイから安心あんしんしろ」

 実際じっさい、きつかった。

 現場げんばといっても、それこそ戦乱せんらんっただなか、なんて仕事しごとはほとんどまわされなかったが、なにより責任せきにん所在しょざい成功せいこう失敗しっぱい境界線きょうかいせん明確めいかくになったようにおもう。

 戦場せんじょうならば一度いちど失敗しっぱいがあっても、それをリカバリーする手段しゅだんがあった。手伝てつだってくれる仲間なかまがいた。だが――それ以上いじょうに、つら現場げんばだ。なにより、となり仲間なかまではないのだ。えない、たたかっているはずの仲間なかままもるために、おれ仕事しごとがあった。

 一度いちど失敗しっぱい三人さんにんぬ。ただそれだけで、引き金トリガーえたゆびおもくなる。場合ばあいによってはおれいのちあやうくなる――しかも、最悪さいあく状況じょうきょうになるのだ。つまり、最初さいしょから失敗しっぱいなんてものはゆるされていない。

 なるほど、たしかに、前線ぜんせんたたかっているほうがわかりやすく、こっちのほうがよっぽど過酷かこくだ。

 仕事しごとのないときらくなものだった。そもそも、訓練くんれん強要きょうようされないし、ぼけっとねむっていたところで文句もんくもない。だが、それで仕事しごと失敗しっぱいするようでははなしにならないので、ごろからの訓練くんれんかさずやっていた。

 おれ所属しょぞくしていたのは、組織そしきなかでも単独行動たんどくこうどうおおい、独立どくりつした精鋭せいえい部隊ぶたい通称つうしょう忠犬ちゅうけん上官じょうかん六○一ファースト、そしておれは、四桁よんけた六三○七ロクサンマルナナっていた。

 いぬはそもそも、かずすくなかった。りすぐりなのかどうかは、それこそ上官じょうかんくらいしからなかっただろうし、おれたんなるこま一人ひとりでしかなく、よくわからなかったが、宿舎しゅくしゃやすめる三日みっかあったとしても、五人ごにんくらいそろえばおおほうだった。それでも最低さいてい五十人ごじゅうにんはいただろう。――いや、五十人ごじゅうにんしかいなかったのか。

 日本茶にほんちゃきになったのも、そのころだ。日本人にっぽんじんもそれなりにいた。いまはどうしているからないが、まあ、んではいないだろう。

 そう、いぬなない。

 それがおれ安心あんしんさせたのは事実じじつだ。安全あんぜん仕事しごとあたえられたからじゃない――過酷かこく状況じょうきょうであっても、生還せいかんするのがいぬだから。

 組織そしき解体かいたいされるにたって、上官じょうかんった。

 しいと、そうった。

 はなつのはしい。ほかの組織そしきられるのももったいない。だから。

「――だから貴様きさまは、ときまでいぬだ」

 そう、われた。

 ――うれしかった。

 どれほど呑気のんき生活せいかつをしようとも、おれはずっといぬのままだ。そのくさびからだおくふかくにまれ、おれは。

 ゆるされることが、なくなった。

 ぬことを、ゆるされなかった。あいつらのもとくのは、まだはやいと言外げんがいつたえられ、そうすべきだとおもったのだ。

 だから、日常にちじょう呑気のんきごそうと、そうおもった。名目めいもくじょう退役たいえきで、荒事あらごとなんて御免ごめんだ。本音ほんねえば、二度にど戦場せんじょうになんかもどりたくない。

 けれど、たぶん。

 おれ心底しんそこから〝たのしむ〟ことは、できないんだろう。なにしろ、つづけなくてはという妄執もうしゅうりつかれ、ねないような人間にんげんだから。

「――さん! おにいさん!」

「ん?」

 いつのにかまちほうまであるいていたらしい。かさなかからこちらを人物じんぶつ視線しせんければ、すずがっていた。

「おにいさん!」

「どうした」

「どうした、はあたしの台詞せりふっスよ! かさ合羽かっぱもなしに、あめなかなにしてんすかもう!」

「ああ……」

 さて、本当ほんとうのことをっても仕方しかたがないので。

合羽かっぱ準備じゅんびができていないと、今朝けさづいたんだが、用意よういしておいたかさ新品しんぴんで、これを使つかうのは勿体もったいないと――」

「ああもういいっス! なんでもいいから、とりあえずうちてください!」

 おい、最後さいごまでけ。オチを説明せつめいできなくなったじゃないか。

 きずられるようにして店内てんないはいったおれは、さき姿見すがたみなか自分じぶん認識にんしきして、すくなくとも表情ひょうじょうかたくなっていないのだけは確認かくにんする。それから店内てんない見渡みわたしていれば、あわただしい足音あしおとともに、タオルをったすずがもどってきた。

「はいこれ、使つかってください。さすがにえのふくはないんで」

おとこいていった衣類いるいでもおれかまわんが?」

「そんなひといないっスよもう! なんかあったかいもんでもれてくるっス」

「それほどえてはいないが、まあ、いただこうか」

珈琲コーヒー紅茶こうちゃ牛乳ぎゅうにゅうどれがいいすか?」

「――珈琲コーヒーたのむ」

諒解りょうかいです」

 タオルであたまかるくふいて、したたみずがなくなってから、かたにかけた。おもったよりもながあいだあめたれていたためか、スラックスも随分ずいぶんれている。もういっそ、全部ぜんぶいでしぼったほうはやそうだが、さすがにここでは迷惑めいわくにもなろう。

 すでおれ幾分いくぶんきをもどしている。いや、きというよりも、るのでも、むのでもなく、過去かこ現実げんじつのバランスをたもてている、ということだ。

「おたせです」

「すまんな、ありがとう」

 り、あつ珈琲コーヒー一口ひとくちれれば、なかなか上品じょうひんあじだ。インスタントだったとしても、ドリップしきのものだろうと推測すいそくできる。

「――どうしました?」

「ん、なにがだ?」

「いや、なんか苦笑くしょうみたいなかおになってたんで」

むかし泥水どろみずのような珈琲コーヒーでも、文句もんくひとわずにんだものだと、そんなことをおもしていた。いにれるのが上手うまおんながいてな、そいつがいるときにはおれらくをした。つまり、美味うま珈琲コーヒーをありがとうと、そうってくれ」

「はあ……まあ、そうすか」

「どうしたすず、商売人しょうばいにんかおになっていないぞ」

「あたしをどーてんのかになりますけど、いっつも商売しょうばいのことばっかかんがえてるわけじゃないんですよ、あたし」

差支さしつかえなければ、どうして商売しょうばいをしているのか、いてもいいか?」

「あー、……あんまし、面白おもしろはなしでもないっスよ。なんというか――このまち仕組しくみっていうか、そういうの、おにいさんはってるんすか?」

孤児こじあつまるまち、だろう。あのたぬき……校長こうちょう前崎まえざき随分ずいぶん出資しゅっししている。たしか、学費がくひ免除めんじょ生活せいかつとしての一定いっていがく支給しきゅうくわえて進学しんがくするようなら、その一部いちぶ負担ふたんもしていたか」

「よくってるっスね」

「これでもいまおれは、このまち住人じゅうにんだから当然とうぜんだ」

「え、でもおねえさんはらなかったっスよ」

「あんな間抜まぬけと一緒いっしょにするな。椅子いすすわっていれば情報じょうほうはいってくるとおもってるから、あんなにしりひかってるんだよ」

「あのう、だいぶまえからづいてて、沙樹さきちゃんもってたけど、おにいさんっておねえさんのこときらいなんですか?」

「いや? あいつがおれのことをきらいなんだろうが、おれたいしてきらっていないが?」

 というか、何度目なんどめだ、おれがこれをうのは。

うそだ……すげーたりつよいじゃないすか。あたしならもう涙目なみだめっスよ。会話かいわいてると、おねえさんがなんか可哀想かわいそうですって」

「もう勘弁かんべんしてくれ、と本人ほんにんっててはいないな」

「それもなんかすごいというか、おねえさんの忍耐力にんたいりょくなのかもしんないですけどね。えーっと、そうだ、あたしの商売しょうばいはなしでしたね」

「そうだ」

「まあなんていうか、ためしてみたかったんすよ。あたしにできるかどうか」

失敗しっぱいしたときのリスクもみでか?」

「そうっス。もちろんほかにも、ボードがきになれたってのも理由りゆうですし、そういうのはいろいろあるんですけどね。むかしのあたしは、なんかこう、まえきになにかやろうってことをおもえないようなだったんすけど、ボード導入どうにゅうに、もう卒業そつぎょうしていまはいない先輩せんぱいに、自分じぶんえるつもりでやってみたらどうだって、さそってもらったんすよ」

最初さいしょから一人ひとりでやったわけではないのか」

「そうです。その先輩せんぱいとちょっとやらせてもらって、それをいでってかんじですかね。でもあたし、こんなにボードがきになるなんておもわなかったっスよ。整備せいびなんかも最低限さいていげんおぼえるってくらいだったのに、いまじゃ分解ぶんかい整備せいびなんかの資格しかくっちゃいましたし」

「ほう、ぜんメーカー共通きょうつう整備せいび資格しかくか?」

「もちろんっスよ! もうここまでったら、オリジナルでつくってやりたいって意気込いきごんでるっス。だから、まあ、おにいさんのりこなしには、ちょっとショックでした」

「ショックをけるようなことはないだろう」

「いやあ、たしかにスペックてきには〝可能かのう〟って領域りょういきなんすけど、あたしはおもいつきもしなかったんで」

おもいついたところで実践じっせん可能かのうかどうかはべつ問題もんだいだが、技術屋ぎじゅつやにとっての〝発想はっそう〟は必要ひつよう要素ようそだからな。ときにそれを見失みうしなうからこそ、スランプにおちいる」

「そこんとこっスね」

「だがもう三日みっか……いや、四日よっかになるのか。おれはよくらないが、だれかできるようになったか?」

「まだっスよ。みんなころんでるところです」

「だろうな。おれ最初さいしょにやったのがバンクだが、あのうごきができるようになるまで、一日いちにち一時間いちじかんで、二十日にじゅうにちくらいはかかった。バランサーがなかったころだ、ころんだのはおまえらのではないだろう」

安全あんぜん装置そうちはあったんすよね?」

事故じこってもなない、という程度ていどのものだったがな。それなりにきたえていたから骨折こっせつはなかったが、打撲だぼくはそれなりにあった。そう簡単かんたんってもらってはこまる」

 とはいえ、笑顔えがおでボードをむっそろえたうちの上官じょうかんは、わらいながら初日しょにちって、おれくらいのうごきは平然へいぜんとやってのけたが、あれは例外れいがいだろう。

「バンクの理屈りくつはわかったか?」

「ええ。バンクにかぎらず、回転かいてん動作どうさ必要ひつようなのは、まずボードの機能きのうが〝地面じめん〟を認識にんしきすることですね。つまり重力じゅうりょく、あるいは加重かじゅうそのものを、ボードをよこげた状態じょうたいでかけつづける。おにいさんがバンクのさい、しゃがんでいた姿勢しせいからからだこしていたのは、そのうごきで、足元あしもとちかられて、ボードに誤認ごにんさせていた――ってことっスよね?」

正解せいかいだ。あれが基本きほん動作どうさだな」

「なんかこう、コツとか、おしえてくれませんか?」

「コツか……どうだろうな、感覚的かんかくてきなものにはなる。まず体幹たいかん強化きょうか必須ひっすだ。平均台へいきんだい目隠めかく移動いどうができるくらいが目安めやすか?」

「え、おにいさんできるんすか」

「まあ、できるだろうな」

 銃撃戦じゅうげきせんなんて、それができなくては必中ひっちゅうむずかしいことを、おれはよくっている。これは組織そしきかれてから、狙撃そげきメインの仕事しごとをやるまえに、徹底てっていしてやった。もちろん最初さいしょから、ある程度ていどはできていたが。

「バランサーがあるから、これは必要ひつようかどうかわからんが――すくなくとも、おれ場合ばあいはボードで空気くうきの〝めん〟をとらえることは意識いしきした」

めん?」

「ボードを空中くうちゅうたたきつけて、そこを足場あしばにするような感覚かんかくだ。なんにせよ、ちからうごきだけはつね意識いしきしたほうがいい。おれ場合ばあい自然しぜん力学りきがくのう計算けいさんするくせが、むかしからできていたから、そうなのかもしれんが――なにしろ、バンクちゅうであっても、スクリューでも、ボードはつねに」

 そうだ。

つねに、前進ぜんしんつづけているのだからな」

 あれはまえすすものだ。いつまでも、まってはいない。

 ――それでいい。

 そうやってみとめてくれる上官じょうかんは、そばにいないのだ。あまえだったことを自覚じかくできるのは、こうやって一人ひとりになったとき、か。まったくなさけない。

 まっているのは、おれだけか。

「……なんか、今日きょうのおにいさんは、へんですねえ」

「ん、ああ、たいしたことじゃない。かんがごとをしていただけだ」

「そうすか? なんていうか――こうっちゃうとあれですけど」

 すずはどこか、こまったようなかおをして。

いますぐどっかにえちゃいそうな雰囲気ふんいきがあるっスよ」

「はは、いえてみょうだな。安心あんしんしろ、そのとき屍体したいになってるし、そんなことはありえない」

 めてえないだけ、だいぶマシにはなった。

「まあなんていうか、あたしにとっては予行よこう練習れんしゅうねてってかんじなんすよ、このみせは。卒業そつぎょうしてすぐ、しょくをっていうの、むずかしいじゃないすか」

「――まあ、そうだな」

 雰囲気ふんいきさっして、はなしもどしたあたりの好意こういを、苦笑くしょうしながらっておく。

会社かいしゃづとめめならばともかくも、個人こじん営業えいぎょうならばおれもやめておけとうだろうな」

「おにいさんはどうなんすか?」

仕事しごとはなしか? アメリカにいたころぬほどはたらいたから、それなりのかせぎがある。今後こんご二十年にじゅうねんくらいは、無駄むだづかいせず、のんびりらせるから、おまえよりもかんがえる時間じかんおおい」

 なんにせよ、それは、いままでおれけてきたいのち金額きんがくそのものだ。

子供こどもができる仕事しごとなんて、そうおおくはないっスよね?」

「それをうなら、おまえ仕事しごとだとてそうだろう。なんにせよ、結果けっかせばあとがつながるものだ」

「そりゃそうですけど」

「だから学業がくぎょうよりもこっちを優先ゆうせんさせることもあるのか。いやて、おれめなかったら、学校がっこうくつもりだったんじゃないのか?」

「あー……ま、いいじゃないすか」

「わかった、金代かなしろにはおれからフォローしておこう」

「えーっと、ちなみになんて?」

「すずはおれ店舗てんぽデートだったから、学業がくぎょうなんてけているひまなんぞなかった、と」

「それマジでやめてください! 金代かなしろ先生せんせい、あれでこわいんですからね!」

冗談じょうだんだ、けるな。ところで、商売しょうばいはなしをしてもいいか?」

「へ?」

さっしがわるいやつだな……津乗つのりのためにおやつを注文ちゅうもんしてやったときもそうだったが、あれか、一年いちねんというのは、そういうことなのか?」

「おやつ……――あ! 沙樹さきちゃんがってた! おにいさん、二十個にじゅっこばかりドーナツって、お土産みやげだとかったんでしょ!」

「ははは、いていたか」

わらいごとじゃないですよ……あたしが愚痴ぐちかされたんですからね。可愛かわいかったんでいいですけど」

初見しょけんときにドーナツかとおもったからな、そのびもめて、なかなかいドーナツをってやったのに、無言むごんおこりだしてな。どうしたとえば、十個じゅっこ一気いっきべて、夕食ゆうしょくはいらないとふてをしていたらしい。みょう視線しせんをほかの連中れんちゅうからげられたが、しかし、これはおれわるいのか……?」

「おにいさん……」

 いや、だがおこることはないだろう。料金りょうきん請求せいきゅうしたわけではないし、のこったものは寮生りょうせいべた。美味おいしいと評判ひょうばんで、天来てんらいからはみせ名前なまえまでかれたぞ。

「ともかくだ、おれのボードを見繕みつくろってくれとっているんだ」

「あー、そういうことすか。そうってくださいよ」

「なんだ、よろこびがらんぞ」

強要きょうようしないでください! なんかよろこびをとおして、あーもうってかんじです」

「……つかれているのか?」

「おにいさんほどじゃないですけどね! ――で、どんなのにします?」

「そうだな。まず外装がいそうだが、芹沢せりざわのタイプではばひろいものにしてくれ。そのほう空気くうきめんとらえやすい」

「――あ、そうか。とらえる空気くうきってのは、いわゆる〝抵抗ていこう〟なんすね?」

たようなものだ。さて、すずは芹沢せりざわへの直通ちょくつうラインはっているか?」

「え、ああ、んっと、代理店だいりてんしかないですけど」

「そうか。だったら、芹沢せりざわ企業きぎょう開発かいはつ野雨のざめにあるんだが、そちらへの連絡れんらくだ。まずはメールでいい、宛先アドレスくらいはわかるだろう?」

「ちょっとってください」

 カウンターのなか移動いどうしたすずが、常時じょうじ起動きどうしているだろうノートがた端末たんまつ位置いちをずらし、ぱたぱたとキーをたたく。

「あ、ページあるんで、わせにおくれば問題もんだいなさそうですけど」

「まずあたまに、二村にむらヒトシへおくるよういておけ。それからおれが……と、そうか。いまからつづりをうからけ」

「はい」

「Ruy.Shryneinが、フライングボードをもとめていると」

「それはいいんですけど、これなんてむんですか?」

「ルイ・シリャーネイとうことがおおかったな。かたなんぞ、にしたこともない。おれにしてなかった」

「そんなもんすか」

「そんなものだ。で、要求ようきゅうつぎとおりだ。ベースはSHエスエイチ505ゴーマルゴがた

一応いちおう現行げんこうモデルっスね」

おれ以前いぜん使つかっていたのとているからな。まず、バランサーの反応はんのう速度そくど三倍さんばいにしろとけ」

三倍さんばい⁉ いちセンチのれがさんミリはばになるんすよ⁉」

「いいからけ。減速域げんそくいきはばさんパーセント増加ぞうか最速さいそくから停止ていしまでの時間じかん最低さいていでも二割にわりけずりたい。そのうえで、最高速さいこうそく到達とうたつ時間じかんさんパーセントみじかくしろ」

「うわ、あたしならそんな無茶むちゃ注文ちゅうもんいたら、他所よそけっていますよ。ぎゃくのことを両立りょうりつしろってってるようなもんじゃないすか」

わるいがおれ技術屋ぎじゅつやじゃないんでな。で、最後さいごにここの店舗てんぽと、責任者せきにんしゃであるおまえ名前なまえと、普段ふだん使つかっている代理店だいりてん名前なまえしるしておけ。連絡先れんらくさきもな」

「はい。注文ちゅうもんはこれだけなんすか?」

「――いや、ヒトシの性格せいかくだと、かなら電話でんわなにかの連絡れんらくがあるはずだ。わるいがおれ今日きょう携帯端末けいたいたんまつ部屋へやいてきた。連絡先れんらくさきはまだおしえないから、おまえ対応たいおうして、まとめておけ。ヒトシは技術屋ぎじゅつやだ、商売人しょうばいにんじゃない。面白おもしろはなしけるだろう」

「はあ、連絡れんらくがあるんすか」

「あるな、間違まちがいない。何故なぜならおれ要求ようきゅうは、単純たんじゅんじゃないからだ。バランサーを三倍速さんばいそくにするだけでも、ほかの機能きのう障害しょうがいて、問題もんだいきる。それをどうするかをかんがえるのが技術屋ぎじゅつやだが、そのためにやっていいことをめるのはおれだ。つまり、確認かくにん必要ひつようになる」

「なんとなくは、わかりますけど……いや、わかったっス。とおらなかったら、またそううっスよ」

「ああ、まかせた。すまんな、長居ながいをしたようだ。おれもどろう」

風邪かぜひかないようにしてくださいね、おにいさん。あたしがにするんで!」

「わかっている。りょうもどったら、風呂ふろにでもはいろう」

 おかげで随分ずいぶんいた。もう問題もんだいはないはずだ。


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